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Wi-Fiの裏に潜む  作者: 都桜ゆう


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3.正体と交流

 ダイニングテーブルに置かれたスマートフォンの画面が、暗い部屋の中で青白く湊の顔を照らしていた。プレゼンを成功させ、同僚たちとの義務的な打ち上げを断ってまで急いで帰宅したのは、この答え合わせをするためだ。


 かつては静かで無機質な箱だったはずの部屋が、今は違って見える。

 Wi-Fiルーターの小さなLED、冷蔵庫のモーター音、電子レンジの待機画面。それらすべてが、ただの家電ではなく、巨大なネットワークの一部として、自分をじっと観察している瞳のように感じられた。

 湊は唾を飲み込み、メモアプリの真っ白な画面にカーソルを合わせた。指先が微かに震える。文字を打ち込むという日常的な動作が、今は禁忌に触れる儀式のような重みを伴っていた。


『今朝はありがとうございました。おかげで助かりました。あなたは、誰ですか?』


 湊はスマホをテーブルの真ん中に置き、わざと背を向けてキッチンへ立った。お湯を沸かし、カップ麺の準備をする。意識を逸らさなければ、心臓が持ちそうになかった。

 背後で何かが動く物理的な気配はない。だが、部屋の空気がわずかに震え、Wi-Fiルーターの近くで微かな電子音が「チチッ」と鳴った。


 湊が恐る恐る振り返ると、テーブルの上のスマホ画面が、誰も触れていないのに不自然に明滅していた。まるで、見えない指がディスプレイの表面をなぞり、情報を書き換えようと苦闘しているかのように。


 湊はその光景に釘付けになり、手に持っていた箸を落としそうになった。そのまま金縛りにあったように動けず、ただキッチンの入り口で立ち尽くす。やがて、お湯が沸いたことを知らせるケトルのスイッチがカチリと切れたが、湊はそれに見向きもできなかった。

 本来ならここから蓋を開け、お湯を注ぐはずだった。だが、今の湊にはそんな日常的な動作を完遂する余裕などない。目の前の超常現象に対する恐怖と好奇心が、生存本能さえも上書きしていた。


 湊は、お湯を注ぐことすら放棄して、キッチンの天板に置いたままのカップ麺を背に、フラフラとした足取りでリビングのソファへと後退した。テーブルの上で明滅を続けるスマホを、射すくめるような思いで見つめ続ける。一分が、一時間にも感じられた。

 しかし、連日の徹夜仕事による疲労は限界を超えていた。湊はスマホを凝視したまま、吸い込まれるようにソファへ横倒しになり、そのまま深い意識の闇へと落ちていった。


 気づけば、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。湊は驚いて飛び起きた。

 瞬時に蘇ったのは、昨夜の体験だ。慌ててキッチンを振り返った湊は、そこで息を呑んだ。

 昨夜、確かにスイッチが切れる音を聞いたはずの電気ケトル。その電源プラグが、土台から引き抜かれるようにして、無造作に床へ転がっていたのだ。オートオフ機能があるとはいえ、物理的に線を抜くという過剰なまでの用心深さ。冷めきった水が入ったままの容器は、深夜、湊が意識を失っている間に誰かが「仕事」を終えたことを無言で告げていた。


 湊は強張った体を引きずり、真っ先にテーブルへ手を伸ばした。スマホの画面は、自動スリープ設定を無視して、一晩中点灯し続けていたかのように熱を帯びている。

 昨夜、自分が打った文字のすぐ下。そこには、湊のフォントとは明らかに違う、歪で、どこか震えるような線で綴られた文字が並んでいた。それはキーボード入力ではなく、指で画面をなぞるフリック入力を、それもやり方を知らない子供が必死に真似たような跡だった。


『おきろ といった』

「……『起きろ、と言った』……」


 湊は呟き、それから小さく吹き出した。あの、鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声。あれを本人は、これほど素朴な言葉として伝えたかったのか。あまりのギャップに、肩の力がふっと抜けた。同時に、湊の脳裏にある記憶が鮮明に浮かび上がった。


 このマンションの入り口、錆びついた看板に刻まれていた名前。不動産屋が何気なく口にした「ここは元々、大きな屋敷の跡地でね」という言葉。そして、この部屋の不自然なほど冷たい空気。この土地に古くから根を張り、今はデジタル信号の海を漂うしかなくなった家主の正体。


「……もしかして」

 湊は、確信というよりは、祈るような気持ちで、看板に記されたその名を呼んでみた。


「君は……、サカキなんだよね。このマンションに名前を残した、元の持ち主というか……、この土地をずっと守ってきた、神様のような存在なんじゃないのか?」


 湊がルーターに向かって問いかけると、一瞬の静寂の後、緑色のランプが二回、力強く点滅した。まるで湊の推測を認め、ようやく自分を見つけてくれたことを喜ぶかのように。

 その意志の宿った光を見たとき、湊の胸に不思議な敬虔(けいけん)さが宿った。


 これは恐れるべき「化け物」ではない。長い年月を経て形を変え、今はデジタルの波に溶け込みながらも、なお人を守ろうとする尊い存在。

 そう確信したとき、湊の脳裏にはどこかで聞いた「神様は、柱として数える」という古めかしい知識が、すとんと腑に落ちるように浮かんできた。目の前にいるのは、ただの「一人」の幽霊ではなく、この場所に根を下ろした「一柱(ひとはしら)」の神様なのだ。


 それから、二人の――一人と一柱の、奇妙な共同生活が始まった。

 サカキは、かつての座敷わらしがそうしたように、家の主を守り、時には悪戯をした。ただ、その手段が現代のテクノロジーに特化しているだけだった。




 ある夜、湊が職場の人間関係に疲れ果て、虚無感に襲われてソファに沈み込んでいた時のことだ。勝手についたテレビのYouTubeアプリが、勝手に「おすすめ」をスクロールし始めた。


「……何をしてるんだ?」


 画面には、湊が普段見ることのない『救出された子猫の成長記録』や『ひたすらスライムを切るだけの音フェチ動画』が並んだ。そして、一番上の動画が勝手に再生される。

 画面の中で無邪気に転がる子猫を見ているうちに、湊の眉間の皺が少しだけ緩んだ。


「……ありがと。少し楽になったよ」

 そう言うと、部屋のエアコンが「ピー」と短く鳴り、設定温度を一度だけ上げた。冷えた湊の体を案じるような、不器用な気遣いだった。


 また別の日のことだ。湊は玄関で靴を履き終え、最終確認のために鞄の中を探った。そこで、入れたはずの印鑑ケースがないことに気づき、真っ青になった。


「嘘だ、確かに昨夜、鞄のサイドポケットに入れたはずなのに……!」


 家を出るまであと数分。焦燥感に突き動かされ、湊は靴を脱ぎ捨てるようにして部屋へ戻った。床に鞄を叩きつけ、中身をすべてぶちまけて探したが、やはり印鑑はない。


「ない、なんで……!」

 腕時計の針は無情に進む。あと一分で部屋を出なければ、契約の約束には間に合わない。


「間に合わない、どうしよう。もう無理だ……」


 ただでさえ職場では「言われたことしかできない」と思われているのに、印鑑一つ管理できず、自分の不手際で全体のスケジュールを遅らせてしまう。周囲の冷ややかな視線を想像し、取り返しのつかない時間への焦りと情けなさで、湊は真っ白な頭で膝をついた。絶望に呑まれ、今日はもう嘘をついて会社を休もうかと、すべてを投げ出しかけたその時だった。


 背後のキッチンカウンターの方で「コン」と、乾いた硬い音が響いた。

 振り返ると、シリアルボックスの上に、印鑑ケースがポツンと置かれていた。湊は、その横にある「もの」を見て、心臓が跳ね上がった。

 印鑑のすぐ隣には、まだ「熱を帯びたままのヘアアイロン」が転がっていたのだ。


 湊は血の気が引くのを感じた。今朝、寝ぼけて前髪を整えたあと、電源を切り忘れていた。サカキは、湊が鞄に印鑑を詰めたあと、この「火種」に気づいたのだ。だからあえて鞄から印鑑を抜き取り、一番目立つ場所に置き直した。そうすれば、湊が家を出る直前に必ず「忘れ物」に気づいて部屋に戻り、この消し忘れたアイロンを見つけると分かっていたから。


「……これを見せるために、僕を引き止めたのか」


 震える手でアイロンのスイッチを切り、印鑑ケースを手に取ると、裏側に付箋が貼られていた。デジタル文字で力強く綴られた一言。


『はやく、いけ』


「危うく家を焼きかけた」という恐怖と、最悪の事態から守られたという事実が、湊の折れかけた心を叩き起こした。

 サカキは、湊がパニックになり、自分自身に絶望することも承知の上で、命を守るためにあえて印鑑を隠し、火の始末をさせたのだ。その上で、まだ仕事に間に合うギリギリのタイミングで音を鳴らし、正解を提示した。


 たった五文字の『はやく、いけ』という言葉。それは、湊の不注意を文字通り「手出し」をしてまでカバーした、サカキなりの懸命な導きだった。ただの悪戯ではない。湊がこれ以上自分に失望し、今日という日を投げ出してしまうのを、強引に食い止めてくれたのだ。  折れかけていた湊の心に、熱い塊が込み上げた。


「……ごめん。助かった。……行ってくる、サカキ!」




 湊は気づき始めていた。自転車の鍵を隠したのも、事故に遭わせないため。納豆を捨てたのも、食中毒を防ぐため。サカキの悪戯はすべて、不器用なまでに真っ直ぐな、未来への干渉だったのだ。

 次第に、湊の心境に変化が訪れた。職場での「モブキャラ」としての自分は相変わらずだったが、以前ほどそのことに傷つかなくなった。世界中の誰が自分の名前を忘れても、あの築四十年のマンションの一室には、自分の動向をWi-Fi越しにじっと見守り、時にはスマホを介して小言を言ってくる「味方」がいる。


 ある雨の日の夕暮れ。湊はふと、窓ガラスに映る自分の姿を見た。その背後、少し離れたところに、パーカーのフードを深く被った小さな影が立っていた。顔は相変わらず、デジタル的なノイズで見えない。けれど、その影は湊の背丈の半分ほどしかなく、頼りないほど小さかった。湊は驚いて振り返ったが、そこにはただ、ルーターの緑色の光が瞬いているだけだった。


「……サカキ。君は、ずっと一人でここにいたの?」


 湊の問いに、部屋中の電子機器が、一瞬だけ静まり返った。やがて、手元にあるスマホが震えた。通知センターに、メモアプリからの通知が表示される。


『ずっと、だれも、みてくれなかった』


 その文字を見た瞬間、湊の胸に鋭い痛みが走った。自分と同じだ、と思った。

 誰の視界にも入らず、背景として処理される孤独。


 この神様は、かつて大きな屋敷の庭にいた頃、人々から敬われ、供え物をされていたのだろう。けれど時代が変わり、屋敷が壊され、マンションが建ち、人々が神を忘れ、Wi-Fiの電波が空を飛び交うようになっても、彼はここに残り続けた。デジタルノイズを身に纏い、姿を変えてまで、誰かと繋がろうとしていたのだ。


「僕は、見てるよ」

 湊は、目に見えない同居人に向かって、はっきりと告げた。


「君がいるから、この部屋が好きになった。……ありがとう」

 ルーターのランプが、今までで一番激しく、チカチカと、まるで照れ隠しをする子供のように点滅した。


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