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野良犬と王子

作者: 絢野いと
掲載日:2025/10/13

きらびやかでいいにおいがして、この世でいちばんの天国かと思っていた場所は、魔窟だった。


「あれが噂の“落とし胤”?」

「貧民街にいたんでしょ。穢らわしい」


憚ることもない悪意の声は、城内で所在なさげに過ごす少年にまっすぐに突き刺さる。そしてさらにその身を縮める様子を確かめて、悪意の主たちは満足げにさらに内緒話を続けるのだった。


母と暮らした郊外から、城に来て早一ヶ月。身なりをととのえられ家庭教師をつけられても「けがらわしい」らしい自分には何か消えない匂いでもついているのかと、ルクスは人気のないところでこっそり自分の匂いをかいだ。


誰もがうらやむであろうお城暮らしだが、ここまで12年の生涯で、城に来たいなどと過ぎた望みはルクスの頭をよぎったことすらなかった。幼い頃に一度母に連れられ都へ買い出しに訪れた時、眩しそうに城を見る母につられ城を見上げ、「あそこが世界でいちばん豊かな家か」と思ったりはしたがそれだけで、むしろ母のまなざしに(自分との暮らしが不満だったらどうしよう)と少しの不安を覚えたくらいだった。


郊外での生活はなんせ貧しかったが、心の優しい母と支え合っての暮らしはルクスには何の苦労でもなかった。母はかつて人気の踊り子として都でその身を立てていたというが、確かに子どもの目から見てもきれいな人だった。そんな母はけれど雇われての畑仕事も率先して行い、いつも額に汗して手をまっくろにしてよく働き、ルクスには笑顔しか見せたことがなかった。母に愛され、周りの子どもたちと喧嘩しながら彼なりに楽しく育ったから、自分にはなぜ父親がいないのか、それが気になったことすらなかった――母が倒れるまでは。


おなかの病気で倒れたという母は、何事もないと笑っていたが、そこで初めてルクスに父親のことを明かした。

"普通なら関わりもないようなひとかどのお方だけれど、優しく心あるひと"だったという。

「ルクス、お母さんに何かあったら――ううん、なんでもないわ」

碧く大きな瞳で一心に母親を見つめる息子に言葉を隠した母は、その後どんどん衰弱していった。


そしてある日、現れた都会の香りがする怖い男たちが、自分を母から引き離したのだ。


最初は母と共に、見知らぬ男たちへ噛み付く勢いで(というか実際にかなり噛み付いた)精一杯抵抗したが、「母に満足な治療を受けさせたいだろう」と言われて「それを早く言え」と思い、口を離した。

ひどく泣きながらもベッドからすぐに起き上がれないほど衰弱した母を決して振り返らず王都にのぼり、今に至る。


そうして押し込められた城で、初めてルクスは、自分の父親がどんな人物であるかを知った。


現王は、奇しくも母より数年ほど前に病に倒れたのだという。

王位継承権を持つ男子がひとりしかいなかったからか、それとも今際の際に何か心によぎるものがあったのかーー。12年ほど前に芸人が産んだはずの自分の子をふと探させて、そして見つかった。そんな彼も、今はろくに謁見すら叶わぬ状態で、もう長くはないだろうと噂されているのを聞いた。

自分を呼んだ父の顔をルクスが見たのは初日の一度きり。その日かろうじて意識があった王・レンティオンは、ルクスの顔を見て小さく頷いた。

それでルクスは王子となったのだった。


そんな経緯で突然現れた12歳の「王子」を、城の者たちが二心なく受け入れるのは難しかった。城で働くものたちは多くが下級貴族の家の出であり、そうした人々はかえって格にうるさい。


(まあ、そりゃこうなる)


陰口を叩かれてもルクスは傷つきこそしなかったが、むしろ少し申し訳なさは感じていた。このみやびやかで荘厳なお城に、ただの農民として過ごしてきた自分が似合わないことは自分が一番感じている。ただ母の治療費を稼ぐために出稼ぎにきたような気持ちだったので、金目当ての自分が王都の和を乱していることはすまないような気がしたのだ。

なので、(クレームは色男の王様に言ってくれよ)と心中では控えめな悪態をつきつつ、見た目には多少傷心して見えるように振る舞っていた。まなざしの鋭さや気取らない髪型などは、温室育ちの貴族連中と比べれば確かに粗野と言えなくもない外見だが、実際のところな思慮深さと賢さと美しさのほうを色濃く母から受け継いでいたのだった。


そうして一ヶ月。

王子としての体裁を最低限繕うべく詰め込まれた家庭教師の授業に向かう道すがら、その日も使用人たちからの心ない大きすぎる陰口が聞こえてきた。


「王子がニア様しかいらっしゃらないからって、スペアにしてもお粗末すぎるわよね」

「そもそも血の繋がりだって信じられたもんじゃ…」


「お前がルクスか?」


突如投げ込まれたような張りのある声に、性の悪い陰口が息を呑むような音と共に止まった。


声の方へルクスが目を向けると、あの病床の父に面影が重なる、美しく儚く凛とした、そう歳も変わらないような少年が立っていた。

(綺麗な顔してんな)

ルクスはまずそう思った。

(純粋培養の王子様がこれか)と名乗られずとも察した。

なるほど、これじゃ俺は「汚い」わ。素直に感心できるほど、丹念に研ぎ澄まされたような美しさだった。


「はい。兄う……」


え、と最後の一息を言い終わる前に頬を強い痛みが襲った。

ボールがてんてん、と音を立てて転がっていった。


少年がルクスにゆっくり近づく。


間近まで迫り、少年の美しいまなざしが冷たさを孕んでいることにようやく気がついた。

ふたりの背丈はほぼ同じだった。


少年はルクスの髪を掴み、捻り上げ、語りかけた。


「お前と私は別のものだ。似ても似つかないくせに兄上などと死んでも呼ぶな」


少年は渾身の力でルクスの髪を掴んだ腕を振るった。力はそう強くなかったが、ルクスは抗わず地面に倒れ込んだ。


少年は去り際に、「私に関わるな。関わらないなら城の隅に寝泊まりするくらいは許してやる」と言い捨てて行った。


周りで見ていた人々は、先ほどまで自分たちもルクスに陰口を叩いていたくせに、少年の剣幕とルクスへの仕打ちに少し怯え眉を顰めていた。

その様子と口元の違和感に、ン?とふとルクスが鼻をこすると、血がべろっと手についた。少年が投げたボールを真正面から受けたため鼻血が出たのだったが、(おお……)と、野育ちで怪我に慣れたルクスはそこまで動じなかった。


(鼻血出てら。綺麗なもん間近で見たからかな?)


さすがに冗談でもあるが、半ば本気でそう思っていた。城に来て一ヶ月、妬み嫉みに歪む人々の顔ばかり見てきた中で、悪意を孕んでいるはずの彼の顔は、まっすぐに対峙した彼の顔は、言動と裏腹にむしろ美しかったのだった。


彼は一ヶ月前までの王の唯一の息子であり、正統なる王位継承者であり、第一王子であるニア――もちろんその人であった。


++++


2年後。


ゼエハア息を切らして、這う這うの体で誰かを探すように城内を歩く老執事がひとり。その老執事を見かけた使用人の多くが、彼を気にするように笑ったり、行く先を目で追ったりしている。


「また撒かれたみたいね」

「いけないわね、ルクス様ったら」


さざめくようなヒソヒソ話。その声色は、城に来たばかりのルクスを取り巻いていたものとは違い、無邪気で、人によっては少し艶すらあった。


「あっ」


内庭を横切る渡り廊下を横切ろうとしたメイドが小さく声を上げる。見つめる先には、低い石壁に隠れるようによりかかり座るルクスの姿があった。台所から掠めてきた果物をかじっている。

声を上げたメイドに、ルクスが真顔のまま口のそばで人差し指を立ててみせると、思いがけず高貴なる人との“内緒”を得た喜びと戸惑いに、メイドは顔を赤くして頷くばかりだった。思いのほか動揺した様子のメイドがそのまま立ち尽くしているので、居心地の悪くなったルクスは少し周りを窺いながらその場をあとにすることにした。


ルクスが王城に来てから、あの邂逅から2年。14歳となったルクスは、見た目は大きく変わらないながらも少し背は伸び、青年の入り口にさしかかっていた。


あの時、第一王子のニアがルクスにした振る舞いはたちまち城内に知れ渡った。「ニア様が野良犬を受け入れられないのは当然」とますます批判の姿勢を強める者も当然いたが、いつの時代もどの国にも判官びいきは一定数いるもので、かえって「やりすぎでは?」という声もちらほらと上がり始めたのだった。


何事にもそれなりに真面目に取り組み、かと思えば適度に手を抜き決して“出過ぎない”。ポッと出の“第二王子”であるという自身の立場をよくよく弁えて、そのうえで世話をしてくれる家庭教師や執事を不快にさせないように愛想も忘れない。野に育った獣のようでいてどこか品のある“恵まれない境遇の第二王子”は、時間さえ経れば誰にも愛されないわけにはいかなかった。特にルクスはその外見も目を惹くもので、2年の歳月を経て王家の財力により磨きをかけられながらも親しみやすさのある青年は、若い勤め人たちの心も奪っているのだった。


(スチュワート爺が倒れる前には戻らなきゃな)

果物を飲み下し歩き出したルクスは、先ほどのメイドのことを特に考えることもなく、どう時間を潰すかを考えあぐねていた。味方が増えたとはいえ家庭教師の中には未だルクスを見下す者もおり、その授業をボイコットした所だった。


考えながらあてどもなく歩いていたせいか、ルクスは普段踏み入れないように気を付けているエリアに自分が至っていることにしばし気が付いていなかった。


は、と気付いた時にはもう手遅れだった。


第一王子・ニアが廊下のはす向かい、数メートルの先に取り巻きといて、こちらに向かってくるところだった。

あちらの目にも捉えられたのがわかった。

このうえ逃げようとすればかえって気分を害するだろうと、せめて道の端にでも避けようとするが、ニアと合った目をなぜか離せずルクスはそのまま歩いた。


すれ違う一瞬までが永遠のように長かったが、寸前でふっとニアのほうが目を離し、少し慌てる取り巻きを意に介さない様子で何事もなかったかのようにすれ違い進んで行った。


(うわー)

時間を置いて振り返り、ニアが角を折れたことを確認し、ルクスは思わず胸をおさえた。

(いつの間にこっちまで来てたんだ俺? 悪いことしたな)


兄と呼ぶなと言われたが、一応は兄。できるかぎり気分を害さないように、なるべく彼の目には触れないよう努めてきた2年だった。おかげであらかじめ決められた式典などの時以外、ふいの遭遇は避けて来られたのに。

(慣れたつもりで油断してたな…気を付けよ。また流血しちゃう)軽く反省しつつも、通り過ぎたニアの冷静さが少し引っかかった。彼にとっては存在すら認められない“弟”であるのに、交わした目線には憎しみが見つけられなかった気がした。


(…いや、気のせいか)


くわばらくわばら、とルクスは自分の居住区へ踵を返した。兄の目を再び汚すことのないように、どう回り道するか考えていた。


再会が思ったより早く訪れることを、両者ともにまだ知らなかった。


++++


「父王様がご危篤であられます」


宮内長官が二人の王子を呼びに現れた時、ついにこの日が来たかとどちらも思った。


王の寝室にルクスが駆けつけた時、既にニアは父王のベッドの横に立っていた。急いで着替えた服が乱れたままに現れたルクスとは違い、一糸乱れぬ、常と変わらぬ端正な姿だった。


父王レンティオンは、2年前既に病をこじらせていたにも関わらず、国家挙げての存命治療が功を奏してか、その命をかろうじて繋いでいた。そう、かろうじて――。とうに話すこともままならなくなっていたが、まなざしにはまだ光があると聞いていた。とはいえ、いつか来る別れに心の準備を重ねていたのは、ルクスだけではないだろう。


ニアの横、少し後ろに並んだルクスはまず父王を見つめた。まだ呼吸はあるようだ。苦悶の表情ではないのを見て、少しだけ張り詰めたものが緩んだ。言葉を交わしたこともない父だが、この2年、城での暮らしに挫けそうになるたびに父のことを語る母の顔を思い出していた。母が父を好きだったことは確かなことのようだったので、父が苦しんだら母は悲しむだろうと思っていたから、そうでなくてよかった、と思った。


ふとルクスは、自分がいつの間にか兄の身長を越していることに気づいた。2年前はほぼ同じ背丈だった、ふたつ上の兄。慣れない王城で、その威圧感もあって何ならもっと高く見えていたが、思いのほか小柄だった。自分がすくすくと伸びた一方で、兄の時間は止まっていたかのようだった。

そのまま自然と目線を兄の顔に向けると、最初は先日見かけた時と変わらぬ冷静な面差しかと思ったが、どこか血の気が引いているような危うさを感じた。

唇が青いような。


(倒れる?)


心配でふと腕を兄の後ろに構えたくなったが、そうする前に、背後から潜めさざめく声が聞こえた。


「どうする」

「どうするって?」


「「どちらにつく?」」


部屋には王の危篤を知らされた臣下の者たちが幾人か集まっていた。この段階でここにいるのは上級職、それなりの階級の者たちに限られていたはずだが、なればこそか、問いはさざ波となって広がった。


一瞬何のことかわからなかったルクスは、ふとその意に気づいた。

(俺たちのことか)

普段「王子とは」を俺に問うわりに、これはまた結構な臣下たちだな。思わず嫌悪感を剥き出しにして振り返りそうになったが、しかし振り向ききる前に、鋭いまなざしがルクスを貫いた。

隣に並ぶニアが、同じように嫌悪に眉を顰めながらもルクスを見やったのだった。その嫌悪は自分に向けられたものかもしれなかったが、そうではなく自分と同じ方向に向いているようにその時ルクスには思えた。いずれにしてもルクスが振り向くことを止めているとはっきり感じたので、ルクスは前に向き直り、背後の唾棄すべきやりとりを無視し、父王の最期を受け止めることに専念した。


二人の王子に看取られ、王はその夜、静かに息を引き取った。


+++++


(さて、どうすっかな)


血縁上の父の葬式は、一国の王だけあって相当に重厚荘厳に行われた。たったふたりしかいない王子のひとりとして式中の作法を叩きこまれながらバタバタと振り回されたので、父と死に別れた直後のわりに息つく暇もなかった。それでも渦中は気が張っていたため何とか乗り切れたが、一切が終わり解放された夜、急に全身が重たく感じられた。何かにつけ隣に並び立つことになった兄はさすが生まれついての王子というべきか、いつ見ても同じように神妙な涼しい顔をしていたため、彼に迷惑をかけないようにと必要以上に頑張ってしまったせいもあるかもしれない。


一度はベッドにくずおれたものの、頭のほうは興奮が抜けない。どうにも寝付かれそうになかったので、従者が寝静まったタイミングを見計らって、ルクスはひとりこっそりと寝室を抜け出た。


使用人たちも寝静まった暗い城内で考えてしまうのは――自分のこれから。

(もう用無し、ポイかな)

自分を呼んだ唯一の後ろ盾でもある王が死に、これからの日々が平穏ではいられないことを予感していた。


(結局、陛下がどういうつもりで俺を呼び出したのかも聞けなかったな)

一度の会話も交わせなかった父王のことを、心の中でも「父」とは呼べないでいたルクスだった。

(死にそうになって一応息子のことを思い出したってだけだろうけど。俺よりも――母さんに会ってやってほしかったな)

母さんは元気だろうか。曲りなりにも王子を生んだ国母だというのに、父の弔いにはもちろん席はなかった。

田舎に残してきた母のことは、時おりその後の様子、息災であることを聞かされていた。時折というのは、この2年の間の数回、城内での度を越した嫌がらせや家庭教師の折檻にふてくされそうになった時だ。幸い母が腹に患った病は一過性のものだったらしく、手厚い治療を受けて今は元気に野良仕事も出来ているらしい。

母のもとに戻ろうとは思わなかった。母の現状を聞かされるということはつまり、母が見張られているということで、母を恋しい気持ちよりも母に塁が及ばないように自分が責務を果たさなければという責任感のほうがはるかに大きかったからだ。

ちなみにその母が2か月ほど前に「再婚した」と聞かされた時は、思わず涙が出た。悲しくてではない。おそらくは自分から里心を消すために重臣がついた嘘だろうと思ったが、もし本当に再婚しているのなら、母が今ひとりで寂しくないのなら良かった、という安堵だった。まあ、ほんのいくばくかだけは、寂しさもあったかもしれなかったが。


よしなしごとを考えながら足は自然、書斎へ向かっていた。この2年、心から信じられる味方は自分と自分が身に着けたものだけだったルクスなので、知恵を得られる読書は一番の趣味として定着した。母の野良仕事を手伝っていた頃は本なんてろくに読んだことはなかったが、読み始めると案外面白いものだったし、本に没頭できればその間は余計なことを考えずにいられたのもある。


書斎のドアを開けると、いつもの静謐な空間のなかに、異質なものが異質な形でそこにあった。

兄がソファに横たわって、何かをつまみ食べていたのだった。

読みかけていたと思われる本は無造作に、開いたまま腹に乗せていた。そんな普通のひとみたいな兄を、ルクスは初めて見た。

ルクスはしばらくそれが誰だか理解できなかったため、気を利かせて部屋を出ることも出来ず、きょとんとその場に佇んでしまった。

兄はすぐルクスに気づいたが、慌てるでもなくその姿勢のままルクスを見上げていた。


(兄上?)


気づけばなぜか汗をかいているルクスに、兄ニアが言った。「これすっぱいな」

「な…何食べてるんですか?」

「庭にあった」

名前を知らないのだろうか、ニアが手でつまんで赤い実のついた房を振って見せる。

「あ、アカフサスグリですね。相当すっぱいすよね」

「黒いのより赤いのが美味しそうかと思ったが」

中庭にはアカフサスグリもクロフサスグリも生えていることをルクスは思い出した。「いや、黒いほうがまだすっぱくないっす」

ふーん、とニアはすっぱいと言っているその実を再び口に入れながら言った。すっぱい様子が決して顔には出ないことに、育ちの良さを感じさせた。

「よく知ってるな。さすが野良犬」

正面切って謗られたせいか、それが兄だったからか、ルクスは普段は何ともない「野良犬」という言葉に若干顔に血がのぼったのを感じた。兄と会話ができたと、心のどこかで少し浮かれてしまっていたためかもしれない。そんな自分が恥ずかしく、踵を返して部屋を辞そうとすると、後ろから声が追ってきた。「なんだ、逃げるのか」

(はあ?)今度こそかっときて、振り向き言い返そうとするも、それより先にまた兄が言った。

「お前は逃げられていいな」

最初の驚きが消え、怒りで頭が冷えたルクスはやっと気づいた。兄の目元が少し赤らみ、泣いたような跡が頬に残っていることに。

「………」

言おうとしていた言葉を見失い声を詰まらせていると、ニアがもぞっと起き上がりソファに座る形になった。片足は立ててソファに乗せており、相変わらずルクスが見たことのない、兄の崩れた居ずまいだった。

「いや、いいんだ。お前はそれで。すまない。行け」

涙に気づいてしまったから、行けと言われても行けない。

何より、今ここにいる兄は、これまで見てきた飾りもののような“完璧な兄王子”とは別人のようで、ルクスは興味を惹かれていた。


「…いや、行かないっす」ルクスは部屋に入った。ニアもそれ以上は止めなかった。


ルクスは本を選んで取るふりをしながら、何を話すか少し考えた。ふりであることをニアも分かっているだろうと思ったので、焦らずゆっくり考えた。


「陛下は…あなたにとっては、いい父親だったんですか?」


結局気の利いた質問が思い浮かばず、一番聞きたいことを聞いた。泣いていたのは父を亡くしたせいであるなら、この問いは不躾かもしれないと思ったが、自分にとっても父である人が、この兄にとってはどんな父親だったのか知りたかった。

自分に過酷な運命を強いた人を、恨んでいいのか知りたかった。


沈黙で返されるかと思ったが、ニアは意外にも口を開いた。

「どうかな。聞きたいことはわかるが…」ニアは少し考えて続けた。「残念ながら父親としての父上のことは私も知らない。私が知っているのは王としての彼だけだ」


この薄情とも言える返答に、ルクスは「そんなばかな」と思えなかった。2年間肌で感じた、王家の内側のつめたさ。家庭教師や貴族、高官たちが自分に冷たいのは妾腹だからだと思っていたが、ニアには果たしてどれだけ優しかっただろうか?

さらに、近年は近隣国との情勢も緊張下にあり、王が病床にあるこの国では、多くの難しい判断が若き王子であるニアに委ねられてきた。この2年ほぼ顔を合わせることがなかったのは、ルクスがニアを避けていたのもあったが、そうでなくてもニアは余暇といえる余暇がないほど忙しくしていただろう。


自分がニアの笑顔を見かけたことがないのは、自分という存在のせいかと思っていたが、そもそも笑うことの少ない日々だったのかもしれない。


「せめて王として在るべき姿をいろいろ教えていただきたかったが――」

ニアはそこで言葉を止めた。


父であり、師でもある人との若くしての別離。その心細さが兄の涙の理由だったのだろうか、とルクスは想像した。母が王のことを「優しく心ある人」と言っていたことが頭によぎったが、そういえばニアの母親はずいぶん前に亡くなっているらしいと、どこかで知ったことを思い出した。


兄は自分よりもずっと孤独だったかもしれないと、ルクスはこの時ようやく気づいた。


「お…教わってないとしたらすごいっすよ。かなり王子っぽいっす」


やっと言った冗談のような言葉は、兄を力づけたい、精いっぱいの言葉だった。


「…?」

「俺、2年間頑張りましたけど、全然王子っぽくなれなくて」

少し間をおいてニアが応えた。

「私は王子っぽいか?」

「や、っぽいっていうか王子です。王子そのものです」

ニアが真顔のままなので、怒っているかわからず慌ててしまい、ルクスは整理しないままにしゃべり続けることになった。「いつ見ても完璧なんで、すげーなと思ってました。みんなあなたに憧れてて、誇り持って働いてる。王族ってこういうことなんだなって。俺もああいう風にやんなきゃとは思ってたんですけど、うまくできなくてすいません。兄上ばっかりにやらせて」

頭を下げてまた上げると、ニアの顔に少し感情が宿ったように見えた。どこか笑い出しそうな口元に見えたが、それはルクスの願望かもしれなかった。

ニアと目が合い、ルクスはまた無表情に戻った。


「…もういい。行け」


(あちゃ~)

「…はい」


扉を閉め部屋を出る際、「おやすみなさい…」と一応言ったが、ニアはもうルクスから視線を外していた。近づきかけたと思ったのに、自分の学もウィットもない発言で、また軽蔑されてしまった――悔しい気持ちでルクスは、自室へと戻り始めた。


++++


書斎から5分ほど歩き、ルクスはうわ~~っと自分の頭を掻きむしった。

(くそ~~!! もっとなんか言えることあっただろ…)


書斎がある人けのない棟から、ルクスの寝室がある棟への渡り廊下に差し掛かる寸前だった。


(チャンスだったのに…仲良くなる)

歯がみしながらふと思った。(あれ。俺兄上って言っちゃってたな)

なのに怒られなかったな。いや、怒ったから行けって言ったんかな?

思考に気を取られて足を止めた時、ふっと前方に人の気配がすることに気づいた。


「誰?」


暗闇に電流のような緊張が走った違和感があった。長い沈黙の後、黒ずくめの見慣れぬ装束をまとった小柄な男が角から現れた。


「物騒だな」


ルクスがそう言ったのは、男が手に握った刃物のことだった。


「お…お命」


緊張からか荒く乱れる息の合間に、男がかすれ声で言った。間を取ろうとルクスがわずかに後ずさったその瞬間、ルクスは背後から横に向かって突き飛ばされ、廊下に飾られた花瓶にひどく強く顔をぶつけながら転んだ。

(もう一人いたのか)とルクスがぶつけた顔をおさえながら、すぐ立ち上がれるようにぱっとしゃがみ直すと、手に浸る液体の感触に気づいた。鼻血が出ていた。

(…ったくよ~~~)なんだよこの状況!と思いつつもそのまま見上げると、そこには第二の不審者ではなく、兄が立っていた。


後ろ姿だったが、ルクスには当然わかった。


兄は背中で激しく息をしていた。書斎で別れた後、走って追ってきたのだろうか。追ってきた理由はわからないが、そうしたらたまたま弟が刺客か何かに殺されそうになっている所に行きあったのだろう。父の死に際しても見せることのなかった、慌てた姿だった。

そんな兄が言った。


「下がれ、下郎」


身体で息をする様子を見るに兄はかなり辛そうであったが(そういえば兄が運動をするところをルクスは一度も見たことがない)、さすがと言うべきか覇気を帯びた声で刃物男に向かってそう言った。けれどルクスには、ルクスを庇うように広げられた腕のその指先がわずかに震えているのが見えた。


ルクスはその瞬間、この兄を信じようと思った。


いや、その前から、出会った時から、酷くされても、自分とは何もかも違う兄に、降参するように惹かれていたのかもしれなかった。

この兄をどこまでも信じよう。母のために来て父を失い、これからどう生きようかと思っていたが、それが良いのだと天啓のようにそう思えた。優しいらしい父は、そのために自分を呼んだのかもしれないとすら思った。息子である兄にその優しさが伝わることはもうないが。


「う…ああっ」


男がやけくそのように覚束ない足取りでこちらに突進してくるのを見るやいなや、ルクスは鼻の血を拭い兄の前に躍り出て男を制圧した。

くっと軽く首をきめると男は簡単に気絶した。


「…えぇ?」


あっという間の出来事に、兄がその綺麗な顔に似合わない、気の抜けたような声を出した。


++++

++++


「ありがとうございます、兄上」


振り向いた弟は、さわやかに人懐っこい満面の笑顔で自分に向かってお礼を言った。

今まさに軽やかな手つきで自ら悪漢を制圧しておいて何のお礼だろう、とニアは思った。

市井で育つとみな、こうも勇敢にたくましくなれるのだろうか、とどこか羨ましくもあった。そう、自分はこの2つしか変わらない弟のことが、2つしか変わらないのに自分と何もかも違い純で健やかで発光するような弟のことが、ずっと羨ましかったのだ。


弟の顔に拭っても残る鼻血のあとを見て、初めて出会った日のことを思い出した。


父王が自分の母とのほかに子を成していたことを知った時、ニアはむしろ父にも人間らしいところがあったのかと面白く感じた。病に伏せる前から、父が自分に向ける顔はいつも能面のように平らかで、心があるのだろうかと思っていたからだった。

母も幼い頃に亡くし、自分の前で感情を見せるような使用人もいなかったので、そのことをそこまで不満に思ったことはなかった。幼い頃はさすがに少し寂しく思う日もあったが、自分は王子であり、王と同じく自分こそ率先して人に完璧な姿を見せなければならないと悟ってからは、努めてそうあろうとした。そうして生きるべきだと思ったし、それ以外のやり方を知らなかったし、十歳を超えた頃からはそう振る舞うのがむしろ楽だった。

けれど、日々はとても退屈で味気なかった。


そんななか、異母弟が城に来るという知らせはニアにとっては心躍るものだった。本人の性質がどうあれ、この退屈を打ち壊してくれるかもしれない。もちろん優秀な弟であったほうが国にとってはいいだろうが、ニアにとってはどんな人間でも歓迎すべき弟だった。


であったのに、迎え入れる日の直前、嫌な噂を聞いてしまった。

政情危うき今、急に呼び戻された弟は、自分――「王子」の身に危険が及ばないため、王命により替え玉として用意されたのでは、という話である。

まさかと思ったが、ない話ではない。自分の父親が、後継者である息子のために、妾腹の弟の命を引き換えにするような人間であると思いたくはなかったが、それを否定できるほど自分は父親のことを知らない。


どうしよう、と悩んでいるうちに弟は来てしまった。


弟は、のびやかな四肢を薄く日に焼き、瞳が大きい、健やかに育ったことがわかる可愛げのある少年だった。連れてこられるまでの経緯にはおそらく何かしら辛いものもあっただろうに、遠慮がちながらもまなざしに好奇心は消えず、まっすぐで明るい性質が窺えた。初めて見た瞬間から好きになった。いや、会う前から好きだったが、ひとめ見てさらに好きになった。弟はここの誰にもないほど感情があるように見えた。


そんな弟が、わずかひと月ほどの間で、見るまに所在なさげになっていくのは居たたまれなかった。場所見知りをしているわけではないだろう。心無い言葉がそこかしこから向けられていることは、王家に生まれついた身としては想像に難くない。


ニアは決断した。


「お前がルクスか?」

「はい、兄う…」


軽くぶつけるつもりが強く当たり、鼻から流血させてしまった。初めて相対する弟にけがをさせてしまったことに顔面蒼白の思いだったが、心を鬼にしてニアは、その勢いのままルクスの髪を掴み、捻り上げ、語りかけた。


「お前と私は別のものだ。似ても似つかないくせに兄上などと死んでも呼ぶな」


髪を掴んだ腕を思いっきり振ると、ルクスは地面に倒れ込んだ。思っていたよりも軽い手応えで、弟が勢いよく倒れ込んだことに再び慌ててしまったが、その心中を隠したままなんとか「私に関わるな。関わらないなら城の隅に寝泊まりするくらいは許してやる」と言って離れるまでを遂行した。


性質は全く違うながらも、さすがに父が同じだけあって面差しにはどこか似たものがあるような気が自分でもしていたが、まったく似ていないと声を大にして言っておきたかった。自分の替え玉になど決してされないように。

かつ、自分があえて必要以上に強く当たることで、弟に同情する者も出てくるだろうと思っての行動だった。


実際にもともと替え玉の企みがあったかどうかはわからないが、期待どおり弟の環境はその日から少しずつ良くなっていったように思えた。引き換えに、仲良くなりたかった“弟”とは満足に会話することもままならなくなり、何なら避けられる日々が始まったのだったが。


たまに多忙の隙をぬって弟の様子を見に行った。あまりにひどく折檻されている時はその家庭教師をこっそりくびにしたりしたし、彼の好きそうなメニューを勝手に夕食にリクエストしたりしたが、当の弟には避けられていた。自分がそう仕向けたのだから当然だが、たまにちょっと寂しかった。そんな時は、あの初めて会った時のことを思い出した。弟を恫喝して立ち去った後、やりすぎたと反省しながらも、弟のために何かできたこと、彼を守ろうと感情が動いたことに興奮していた。


そして2年が経ち、父を亡くした夜。

先達を亡くし、これからもこのままひとりで、自分のやっていることを誰にも気づかれないまま進んでいくことにふと激しい不安が生まれた。

だからいつもと違うことをしたくなり、書斎で野の果物をかじりながら泣いていた。それは無意識下で、盗み見ていた弟の奔放なしぐさを真似ていたのだった。そうしたら、弟本人が現れた。


他に誰もいなかったから、ひとめを憚る必要がなく、弟と言葉を交わした。自分などひどく嫌っているだろうと思っていた弟は、予想に反して雑談に付き合ってくれた。城で育たなかったから性格がいいのかなと思った。その嬉しさで、ちょっと刺々しい言葉を向けてしまった。自分は冗談も言い慣れていないのだと自覚しつつ、それは弟への甘えでもあった。

“いいやつ”な弟はそれだけでなく、「兄上にやらせてばっかりですみません」と言った。

自分が“王子”を“やっている”ことに、他でもない弟が気づいていたのだと知った。

その時、自分をずっと滞らせていた何かが晴れた気がした。

それはおそらく“孤独”だった。


弟自身は何の気なしに言った言葉だろうが、こちらは勝手に胸にこみ上げるものがあり、弟を部屋から出したが、(もっと話したい)初めて誰かにそう思い小走りに弟を追った。その先で弟が暴漢に襲われかけているとも知らずに。


あの夜、ほんとうに、色々なことが動いたのだった。


++++


時は流れて。


公務にあたり盛り盛りの正装をまとった、非常に見目麗しい兄弟王子がふたり。兄王子は国が定めた成人を迎えていないため、まだ王位継承の日は迎えていないが、タイプの異なるふたりの王子は支え合って国をよくしていくだろうと民にも噂されていた。

当の王子たちは、王子たる凛々しく涼やかな表情を浮かべながら、並び立つ互いにしか聞こえない大きさで言葉を交わしていた。


「あんなへっぴり腰で刺客の前に割り込むなんて、正気の沙汰じゃないよな」

「うるさいな」

「俺に任せときなよ、ああいうのはさあ」


今日のような護衛がふたりを取り囲むような多少の緊張感の走る日は、“あの夜”の思い出話がふたりの鉄板の話のタネだった。


刃物男を近衛兵に引き渡した後日、男を差し向けたのが兄を支持する貴族か誰かであることがわかった。その誰かは自分の損得のために、第一王子の即位を万が一にも危うくする弟を弑しておこうと思ったのだろう。兄は弟に謝ったが、弟はなんということもなかった。たったひとりで都にのぼり、母を守ろうと生きてきた弟は、自分を守ろうとしてくれた兄を既に手放しで信頼していた。

結局黒幕は突き止められなかったが、そんなことは些末なことで、“この兄がいれば”“この弟がいれば”これからも大概のことは大丈夫だろう、とお互いに思っていた。


「あの時は、お前があれほど腕に覚えがあるなんて知らなかったから。市井の男はみなそうなのか?」

「さあ?」弟はとぼける。「野良犬は、身体動かすのが好きだからさ」

ふむ、と納得がいってなさそうな兄に、弟はにやっと笑いかけた。


「まあ、自信持って。俺に二回も鼻血出させたのは兄貴だけだよ」


兄はちょっと顔を赤くし、「忘れてくれ」と弟を小突いた。

“完璧”な第一王子が決してしないはずの砕けたしぐさに、周りが少しざわついたが、ふたりは笑っていた。

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