5.危険水域
大理石も安くなったものだ。
工期短縮と安全性の確保、どこか矛盾のある指標を掲げながらも世界に誇る建築技術を手に入れた今を思って指をならす。
「お集まりです」
空調の効いた部屋、偽の大理石表面を撫でるようにさわっていた手が止まると、磨りガラスのように鈍く光る石に写った自分の輪郭をなぞる背中に声がかかる。
後ろに立っている黒いスーツの男は、地味な紺のネクタイで自分の首を締め上げるように選りを正した顔で振り向かない石川の背にお辞儀をした。
「政務官は?」
黒の石、中身はセメントにテラゾーの張りぼての前に疲れた男の顔は写っている。
つまらなそうに額を掻くと、鼻から一息を落として聞く。
「今日は一人だけ、代理で」
「代理…財界もずいぶんと舐められたものだ」
大きな手、節くれの目立つ指が大理石の壁に平手を付くと
「見立てばかりが良くなっても、中身がな…いつまで経っても整わぬか」
あの一大事件から政治が飛躍的に良くなる。改善されるという方向性はどこにも示されなかった日本。
ただ、中国との距離を明確にし外交のカードとして使われる物を減らしただけだった。
それだけでも乳離れが出来た。そして技術力の大切さを再び習得した。そう言いたげな政府の出方は石川にとって子供のお遊びにすぎず、相変わらず愚鈍な者達に過ぎなかった。
なのにやつらは「政治主導」が国の根本であるという御旗を理解もなく振りかざし、国家の財産を作る者達との大切な絆はただ一つ金であるという態度を崩さなかった。
甘やかされた政治家二世などに芯の通った理論が生まれるのは難しい、まるで中国の小皇帝(幹部の一人っ子は裕福すぎてわがままである)達とかわらない、というよりも父親の作った稼ぎを食いつぶすように居座る代議士であれば百害しかなかった。
当然悪い手本だけは見習い易々と金を得る事には熱心な者達に石川は気概無き議員が増えたことと、自分達との懇談をないがしろにする者達を実に苦く思っていた。
「腐った温床を絶つのは時間がかかるというものだ」
苛立ちで背を向けたまま、壁をかち割りそうな石川の背に向けて沢登が代弁をした
「だが、勉強熱心な者達は今日も来ている」
細くなった眼を皺の中で尖らせて。
「勉強熱心、右よりな国防族がか?また夢みたいな戦争を書き綴った仮想戦記のお話を聞かされるだけじゃないのか?」
姿勢を直し肩のこりをほぐすように腕を振る石川に沢登は耳打ちした
「だが備えは必要だし、我らが把握しておくこと、コントロール出来るかをさし計る為にも懇談は大切だ」
老人が頭に浮かぶ不安をかき消そうとする仕草を見せる
この何年か、緊迫した海と隠された資源の利権を巡って政府財界と防衛族は何度もの懇談会を持っていた。
財産を守るというのは聞こえはいいが、結局のところ金儲けができてやっとその台詞が出るのが商売人というもの、飯のネタが埋まっているであろう海を好き勝手にされては困るという自分達の言い分を振り回すには色々な理由が必要になる。
「日本国民の宝である海洋資源を守りたい、有効に使いたい」
この台詞なかなか功を奏していた。だが間違った認識もたくさん育てていた。
ネットの発達した日本では国家の弱腰を非難する言動は電波によってあちらこちらに飛ばされ、非難の矢は所狭しと飛ばされたが実際に政府に向かって働きかけた学生など米粒ほどにもいなかった。
いたくもかゆくもないネットスラングで自分達が精一杯活動した気分に浸る勝利者が増えただけで、日本国の根っこの病みを止める事など誰にも出来ていなかった。
間近に埋まった資源を掘り当てて、一気に超大国に名乗りを上げよう。
間違った認識の最たるものがそれだった。産油を持たない無資源国家が手に入るエネルギーで一躍世界に名を馳せる国家となる夢。
政府指標に夢見た夢想な戦争論がタケノコのように乱立したのも、尖閣の事件以降の一つの特徴だった。
今まで平和にあぐらをかき続けた国家は備え大事と早急な動きを見せ始め今に至っているが…
「言うだけなら安い、行うのに金がかかり、それを国民が知り国家が支える準備がなくて何が戦争だ。夢を見るにしてもたちが悪すぎる」
「そんなくだらない結末を見ぬために、金を撒いているのだろう」
何度もネクタイの根を揺する太い指は、自分の首を絞める役目の重さを振り切りたいと考えていた。
「そうだ」
沢登と石川、本来なら親子ほどの差があるタッグはいつもこの話しで揉める。揉めながらも前に進む道を模索していた。
「それで中国が動き出したからと…何が聞きたいのか?」
「演習に向かった先は「危険水域」だ。あちら(アメリカ)の出方も実に気になる所だ」
「よせよ、アメリカにご機嫌伺いをしてから警戒しようなんて。そんな子供みたいな話をここに持ってきたんじゃないだろうな?」
一昨日入った情報。
中国浙江省寧波に詰めていた航空母艦鄭和が東シナ海域に向け演習のために出航。
アメリカから政府に連絡の入る2時間も前に情報を受け取った石川。
「寧波の、あの赤い海に浮いていた鯨が動いて…でなんだ」
「それが心配だ。何年も遠洋に出る事のなかった船が急に動いたんだ」
石川には今更何故にという話しだった。中国海軍が自国の威信を賭けて作り上げた空母鄭和は、建艦落成当初は世界中に名を知らしめた船だったが、その後は鳴かず飛ばずの状態が続いていた。
威圧外交の一環として一時は東京湾に姿を現すのでは?という憶測さえ飛んだ巨大空母は沈黙を守るかのように、ただひたすら中国沿岸部で戦闘機やヘリの訓練を続るに過ぎなかった。
初の空母が何処に出しても恥ずかしくないように徹底したテストが行われているのか?
それとももう一隻の中山が出来るまではどこにも出ないとしているのか?
憶測の中にあった白い壁の空母は、理解の及ばぬ領域からやっと重い腰を上げという事態。
「外に出てみたくなったのだろうよ」
「それですめば良いが」
たかがそんな事にも、本来誰よりも目を輝かせている石川だが、沢登がどんな事も次の世代との懇談をと頼む言葉には従っていた。
だからこんな堅苦しい姿で会議の場に向かっていた。
「ガキの世話がそんなに大切ならば、引退しろよ」
沢登の、次の世代に引き継がれる思慮というものには賛同しつつも、疲れる事だと首をならす石川。
「よせ、相手がガキであるのならば引退しても心配は尽きない。これはな、自分の為にな、呆け防止のために働いているとも言える。そんなに私をバカにするな」
記譜を読むような足取り、ホテルの廊下に張られたモノクロームのモザイクを踏み先を見る。
二人の前にはお堅く制服を纏った中年の男が二人立っている。挨拶は無言の敬礼と言わんばかりの顎が鋭く目を合わせる。
胸元に輝く高位階級の将校達の前を、彼らより体格の良い大男石川が通る。
「ご苦労だな、何度来ても同じだが。戦争など誰も得をしない事について熱心に語るヤツなど、頭のどこかがいかれてるんだ。いや、亡霊の恩讐に自分を乗っ取られている浅ましい者にすぎない」
事が起これば戦わなければならないという使命を持つ者達の目線に石川は悪態をついたが
「戦争を望んで話ているわけではありません」
野太く安定した音感の声が返る。小脇に制帽を抱えている彼ら防衛関係の者はいつもと変わらぬ砕けぬ口調で続ける。
「その当たりをいつまでも誤認したままでいられては困ります」
開かれた扉の中、ホテルのラウンジを貸し切った会議室はまるで会食の場のようにも見えるが、中には白髪交じりのスーツ立ちが多く席に着いている。コンパニオンなど一人もいない色気のない空間だ。
「やあ、ごくろうさんだ。今日も騒ぎの予感がするというだけのことに良く集まってくれた」
大きな手が両方に開き、面倒ことかも?という予測程度に集まってくれた企業、財界のメンツに挨拶をすると座長の椅子に腰掛けた。
「聞いていると思うが、またもこりずに問題を持って行くつもりらしい、東シナだ」
「中国国内の政情不安を息抜きするためかな?おきまりのコースで」
石川の声に最初の返事を返したのは太陽電池などを一手に取り仕切り、中国での工場を構える大手電機メーカーの重職古賀だった。
白髪というよりは半分以上失った髪を未練がましく耳周りと襟足に残した分厚い眼鏡は続けた。
「どの企業体もご存じのように、あの事件から我が国の企業は中国に大きな工場を置くことを控えてきた。どちらかと言えば本拠地として置かず距離をとり外交の邪魔にならないよう多くの防止線を引いた」
「結果、現地法人との信頼関係は悪化し、より中国から距離をとる方法がすすめられたな」
現地との信頼が悪化したのは中国共産党の指示でもあった。あらゆる方面からの圧力を慢性的にかけることで、尖閣の事件を手中にあるうちに収束させたかった中国上層部だったが、最初から良い方向を見失っていた。
そもそも尖閣の事件は中国政府が望んだ事件ではなく、明らかに事故だった。
だが改革開放で進んできた経済に深く刻まれた格差の断崖による不満のはけ口が必要となっていた。
「うまく使えるかもしれない…」中国は当初それを実行した。
最初は官製デモというおきまりのパターンで、人民を煽り日本打つべし恫喝を発し不満の出口をうまくコントロールしようしたのだが…
これが思わぬ事を引き起こしてしまった。
内陸部に燻っていた不満に。中産階級の党員、それらの持つ子供達の格差に対する怒りを誘発してしまう。
「日本憎し」から始まったデモはあらゆる国のメディアを通じ中国の立場を悪くしていった。
完全に右手と左手の使い方を見誤ったのだ。
止まらなくなったデモは表向き反日の旗を掲げ続けたが、中身は複雑だった。
沿岸部に住む富裕層との格差、大学を出ても幹部職に就くことのできない内陸部の学生は農村部の不満を上乗せした形であちらこちらに爆弾を仕掛けていった。
いままでどおり「日本憎し」の旗を掲げながら、自分達を区別する者達に対して戦い始めたのだ。
これらは表に出ることのない情報だったが、石川達はそれをこれは良しと利用した。
それまで政府の後手で被害をいつもかぶりつつけていた企業体は、自分達の手で微弱を決める綱引きと駆け引きを開始したのだ。
貧しい学生達に略奪される店に置かれる雑誌、情報源を色々と与えた。自分達が中国の中でも差別をされている事をやっと解らせるという混乱を作った。
「今回も学生運動や、地方部の反乱を抑えるための示威行動を取るのではという「最悪のパターン」は考えられています」
「そうだろうな、それが手一杯のハズだ」
手元の水を煽る石川。
あれ以来幾重もの線を張った。警戒すべき国に工業力を求めてしまった日本との綱引きは常に必要になっていた。
「ですが、今回はあの空母が出ています」
財界、企業体がいつもの手でくるかと声をそろえた時にその横槍は入った。濁りのない若い声で。
中年の防衛省幹部の後ろに着いたスーツ、ひょろりとツクシのような体を真っ直ぐに立て、軽い一礼をすると尖った目元を隠す眼鏡を指で押して。
「何かを狙っていると考えるべきです。故に台湾、中国の動きを無視する事はできません」
「無視はしない、いつだって見張っている」
半紙に書かれた情報の取り纏め書を飛ばし顔を上げた石川の前、一番末席に立つ彼は歩を前に出ると
「ご挨拶が遅れました。防衛政務官東雲誠の代理、赤重充です。よろしくお願いします」
何を頼むか?石川達が訝しく目を細める中に彼は真っ直ぐに歩くと、若者特有のゼスチャーを交えて話しを始めた。
「備えが必要では?彼らは空母を持って尖閣諸島の実効支配を行う、または上陸を開始するのではと考えられませんか?」
「ありえん事だ」
即答の乾いた返事をしたのは沢登老人だった。片目はすでに閉じたままの顔に痩せた体は甲高い声を続けさせる
「それは中国にとってなんの得にもならない、目の前の資源が欲しいのはどの国も一緒だが、いくら内陸部の不満をそらすための宣伝とはいえ、そこに足を踏み入れたら後戻りが出来ない事ぐらいは知っている」
「一度失敗しているしな」
追随するように古賀も言う。
「だからこそ、次は本気でくるのではという予測を我々は立てております」
「政府はそんなくだらない妄想をしているのか、それとも君の意見か?赤重くん」
周辺危機の情報イコール戦争に発展という単純すぎる図式、もちろん石川達の中にもあるが順番をすっとばしいきなり戦争を語るのは頂けない話しで集まった老獪達には馬鹿げた戯言に過ぎず会場は沈黙を守った。
見るからに若く、まだ40歳に手が届く程度の彼は、自分を煙たそうに見る老人達に尖った口をまくし立てると
「政府は常にききに備え最悪の状態も予測しておく必要があるという見地からの話しです」
「最悪が先に出てくるような話は必要ない、そこに行くまでの過程をまず考えろ」
石川の太い指が赤重の眉間を狙い撃つように指す。
「そこに触れ、上陸などという事になればアメリカも黙ってはいない」
沢登も薄いながらも調べられた調書を横目に言い返した。
なだめられるような会場の視線の中、肩をすぼめる姿を見せつつも赤重も黙ってはいなかった。
内心にある老人達の杞憂に付き合わされていると鼻柱に棘を見せると、軽めのため息を絡ませて
「やれやれ、どうしてそう言いきれますか?アメリカが必ず日本を護ると、本気で信じてるんですか?貴方達は?」
「そんな口約束を鵜呑みにもしていないが、単純な考え過ぎるんだよ、君が」
久しぶりの懇談に顔をだし、新手の国防族以外の者が勉強に来たのかと、少しは考えを改めていた石川はうんざりと煙草をくわえた。
結局今時の若造、言うに事欠いて単純な戦争論にを斑泣ける姿に苦々しく感じるばかりで深く煙りを食らうと
「前の時もな、あれほど日本を恫喝し圧力をかけてきたが実際はそんなどころじゃなかったよな。今もそれは代わらない、お互いに経済という血脈を分けた国同士がそんな簡単に戦争ができるか?それとも君らが戦争したいのか?」
長く説明をするのは嫌いと煙をはいた石川に、赤重は義を吠えた。
「向こうが望むなら、護るためにするしかありません。その覚悟は出来ておりますよ」
若造と見くびられた、赤重の気持ちはそこに火をつけ吐きだしていたが相手が悪かった。石川の目は一瞬にして怒りにそまり、沢登の額にも亀裂が走っていた。
「夢想家が、夢で戦争を語るなや!!」
テーブルの上の水がグラスごと落ちる地響き、石川はゆっくりと立ち上がると赤重を睨め付けて怒鳴った。
「良く聞いとけよ、世の中がそんなに甘くないって事を教えておいてやるcollegeboyが」
静かの海が月にあるという事を感慨深く思う今日この頃です。