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 窓の外は、まだ夜のままだった。


 街灯のオレンジが、入院棟の壁をかすかに照らしている。白く硬い天井は、どこまでも無機質で、夜の静けさの中に小さく響くのは、心電モニターの一定の電子音と、点滴から落ちる液体のしずくの音だけだった。


 私は目を閉じたまま、その音に耳を澄ませていた。


 身体は少し重くて、腕には点滴が刺さっていて、どこか頭の奥が鈍くしびれていた。でも意識はある。目を開けようと思えば、開けられる。声も出そうと思えば出せる。


 ──でも、私は起きていないことにした。


 そう言われたから。

 あの看護師さんに。


 伏見さや。若い女性の看護師で、名前を呼ぶたびに柔らかく微笑んでくれる人。彼女は、他の誰よりも私の目を見て話してくれた。


「柚希さん、今夜……少し、勇気を出してもらえますか?」


 数時間前、夜勤の巡回と称してベッド脇に来た彼女は、そっと私の耳元でそう言った。


「眠くなる薬、いつも輸液に入れているんですけど、今日わざと入れていません。だから、大丈夫。ちゃんと意識は保てるはずです」


 私はぼんやりと頷いた。

 頭はまだ少し、霧の中にいたけれど、伏見さんの声だけは不思議と澄んで聞こえていた。


「この病院には、いろいろな人がいます。でも、柚希さんにとって一番大事なことは、何を“見て”、何を“信じる”か……。どうか、自分で判断してほしいんです」


 それは、まるで何かの覚悟を試すような言葉だった。

 けれど、私は彼女を疑う理由がなかった。

 むしろ、唯一、心に触れてきた声だった。


 彼女はベッド脇の点滴を確認し、誰にも聞こえないような声で囁いた。


「今から、ご両親と、蓮司さんが来ます。彼らは、あなたが“眠っている”と思って話をします。

 その内容を、聞いてください。……“真実”が、そこにあります」


 私は息を呑んだ。

 何かが始まる。そう感じた。

 ぼやけた記憶の中でずっと気になっていた“違和感”が、この夜に解き明かされるのだと。


「私も、できるだけ自然に振る舞います。……がんばって、寝たふりしてくださいね」


 その言葉を最後に、伏見さんはナースステーションへと戻っていった。


 ──そして今、時間は深夜一時を過ぎた頃。

 扉の前で足音が止まり、ノックの音がひとつ響いた。


 伏見さんの声がする。


「どうぞ、起こさないようにお願いしますね」


 カチャ、とドアノブが回り、静かにドアが開かれる。


「寝てる……よね?」


 母の声だった。

 軽く笑うような、芝居がかった声。

 眠っている娘を前にしているのに、妙に明るくて、どこか演技じみている。


「はい、検温したときからぐっすりです。先ほど主治医からも『今夜はゆっくり眠っていただくために、軽い調整を入れてあります』と」


 伏見さんの声は、柔らかく穏やかだった。

 それを聞いた母が、ホッとしたように息を吐く。


「じゃあ、大丈夫ね。ふふ、こんな時間に病室に入るなんて、ちょっとドキドキするわ」


「おい、声がでかい」


 父の声も聞こえる。

 低くてぶっきらぼうな口調。

 どこか緊張しているようにも感じた。


 最後に──蓮司。


 足音もなく、まるで空気のように入り込んでくる。

 そして、何も言わずにベッドに近づいてくる。


 私は、呼吸のペースを保った。

 目蓋の裏で、彼の姿を想像しながら、聞こえてくる言葉に耳を澄ませた。


「……柚希は、順調に“慣れて”きているみたいですね」


 蓮司が口を開く。


「ああ、それは問題ないです。医師も“順応性が高い”と判断して増すね。……最近の薬はすごいよ。記憶を混乱させるだけじゃない。

 あたかも“それが真実だった”かのように思い込ませる補強すらできるんです。」


 思わず、喉の奥がひくりと動いた。

 記憶を、薬で“塗り替える”……?


「……そうやって、徐々に昔のことは忘れてもらって、今の“正しい環境”に順応してもらいます。おかげで、僕の顔も“恋人”として認識されてきていますよ」


 母が笑った。


「よかった〜、あの子、昔の彼氏のこと、ちょっとこだわってたじゃない。……直哉、だったかしら?」


 ──直哉。


 その名前が、私の中の何かを叩いた。


 記憶の底から泡のように浮かんでくるその響きに、私はまぶたの裏で小さく眉を寄せる。


「……正直、私、最初から好きじゃなかったのよね。なんかこう……地味で、目が死んでるというか」


「覇気もなかったな。親として、安心できるタイプじゃなかった」


「それに比べて蓮司さんはさ、本当に“できる男”って感じじゃない?資産家の御曹司ってだけじゃなくて、将来の展望もしっかりしてて──」


「そう。柚希も、やっぱりこういう人と一緒になってくれた方が……」


 ──直哉。


 彼が、誰かも、顔も、思い出せない。

 でも、名前だけは鮮明に響いていた。


(私は……その人と、付き合っていた……?)


 そんな断片的な意識が、頭の奥にゆっくりと滲んでくる。

 まるで、遠くで誰かが泣いている声を聞いたような──懐かしさとも、胸の痛みにも似た感覚。


 でも、蓮司たちの言葉は、それを容赦なく踏みにじる。


「まぁ、事故は不運だったけど……」


 父が呟く。


「でもこうして、柚希の傍に居てくれるなんて……蓮司くんには感謝してもしきれないよ」


「ええ、本当に……。まさか、事故のあとすぐに病院に駆けつけてくれるなんて。しかも搬送先まで手配してくださって……」


 蓮司の笑みが見える気がした。

 整った顔立ちで、誰にも疑われない“完璧な微笑”。


「いいえ、僕がやりたかっただけです。……彼女の人生を守るために」


 その声を聞いた瞬間、私の脳の奥がずきりと痛んだ。


 私は、自分の呼吸が少し早くなっていくのを感じた。

 まぶたの裏が熱くなる。

 心の中で、小さく震える。


そして、心の奥底で叫んだ。


(誰か——————助けて)


その声は、誰にも届かない。


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