8
夜の病棟には、昼間とはまるで違う種類の静けさがあった。
カーテン越しにぼんやりと差し込む非常灯の光。点滴の滴る音。巡回のナースシューズの擦れるような足音。
そんな些細な音が、ひとつひとつ大きく聞こえるほど、病室は静寂に包まれていた。
私──柚希は、まだぼんやりとした頭で、病室の天井を見つめていた。
リネンの匂い、仄かに薬品が混じった空気。慣れたようで、まだ違和感がある。
“記憶が混乱している”と医師には言われたけれど、まるで霧の中に一人だけ取り残されたみたいだった。
そんなときだった。
ドアが、音を立てずにそっと開いた。
「……秋月さん、起きてますか?」
落ち着いた、小さな声。
声の主は、夜勤担当の看護師──伏見さやさんだった。
肩までの髪を一つに束ね、白衣の上にネイビーのカーディガンを羽織っている。いつも優しい笑顔をくれる、気さくな女性。
「起こしちゃったらごめんなさい。でも……少しだけ、お時間をもらえますか」
その声には、いつもと違う空気が混じっていた。
ためらいと、決意。
その両方を抱えているような、深い声色。
私は軽くうなずいた。
すると、彼女は安堵したように微笑んで、病室の中へと入ってきた。
「……ごめんなさいね、本当はこういうの、してはいけないんです。でも──」
さやさんは、病室の隅にある丸椅子をそっと引いて、私のベッドの横に腰を下ろした。
そして、静かに口を開く。
「柚希さん、あなたが“記憶をなくしている”って、みんなそう言っています。……でも、私にはどうしても腑に落ちないんです」
「……どうして?」
私は掠れた声で尋ねた。
さやさんは一瞬黙ってから、カーディガンのポケットから小さな紙袋を取り出した。
「これ、見てもらえますか?」
手渡されたのは、数枚のコピー用紙だった。
一つは電子カルテのアクセスログ。
もう一つは、同意書の控え。そして面会記録台帳の写真。
「10月12日、夜9時18分にカルテが閲覧されて、直後に面会記録が“家族以外なし”って書き換えられている。……その直前、あなたの“本当の恋人”と名乗る人が、面会を強く求めていたんです」
心臓が小さく跳ねた。
「けど、病院の記録上は“来ていない”ことになっている。カルテにアクセスできるのは、限られた医師や関係者だけです。そして……この筆跡。二種類あるんです。同意書も、どこかおかしい」
私は書類を見ながら、黙って耳を傾けた。
でも、言葉よりも先に、胸の中の“何か”が反応していた。
違和感。
名前の思い出せない誰か。
けれど、私の中に確かにいた、“何かを一緒に過ごした人”。
「私は、看護師として……患者さんを守りたいだけなんです。あなたが誰かの意志で閉じ込められているなら、見過ごせません」
彼女の目は真っ直ぐだった。
何も知らない私に、知るべきことを教えようとする目。
「明日、ご家族の面会があります。そして貴方の彼氏さんも来られます。……お願いがあります」
「お願い?」
「“眠ったふり”をして、話を聞いてください。もし、そこで何もなければそれでいい。でも──本当のことがあるなら、あなた自身の耳で確かめてほしいんです」
私は迷った。
でも、それ以上に、“知りたい”という思いが勝っていた。
霧の中でずっと迷っていた私にとって、それは一筋の光だった。
だから、私は頷いた。
「分かりました」
さやさんは、安心したように微笑んだ。
「私、外で見守っていますから」