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 夜の病棟には、昼間とはまるで違う種類の静けさがあった。


 カーテン越しにぼんやりと差し込む非常灯の光。点滴の滴る音。巡回のナースシューズの擦れるような足音。


 そんな些細な音が、ひとつひとつ大きく聞こえるほど、病室は静寂に包まれていた。


 私──柚希は、まだぼんやりとした頭で、病室の天井を見つめていた。


 リネンの匂い、仄かに薬品が混じった空気。慣れたようで、まだ違和感がある。


 “記憶が混乱している”と医師には言われたけれど、まるで霧の中に一人だけ取り残されたみたいだった。


 そんなときだった。

 ドアが、音を立てずにそっと開いた。


「……秋月さん、起きてますか?」


 落ち着いた、小さな声。

 声の主は、夜勤担当の看護師──伏見さやさんだった。


 肩までの髪を一つに束ね、白衣の上にネイビーのカーディガンを羽織っている。いつも優しい笑顔をくれる、気さくな女性。


「起こしちゃったらごめんなさい。でも……少しだけ、お時間をもらえますか」


 その声には、いつもと違う空気が混じっていた。

 ためらいと、決意。

 その両方を抱えているような、深い声色。


 私は軽くうなずいた。

 すると、彼女は安堵したように微笑んで、病室の中へと入ってきた。


「……ごめんなさいね、本当はこういうの、してはいけないんです。でも──」


 さやさんは、病室の隅にある丸椅子をそっと引いて、私のベッドの横に腰を下ろした。

 そして、静かに口を開く。


「柚希さん、あなたが“記憶をなくしている”って、みんなそう言っています。……でも、私にはどうしても腑に落ちないんです」


「……どうして?」


 私は掠れた声で尋ねた。

 さやさんは一瞬黙ってから、カーディガンのポケットから小さな紙袋を取り出した。


「これ、見てもらえますか?」


 手渡されたのは、数枚のコピー用紙だった。

 一つは電子カルテのアクセスログ。

 もう一つは、同意書の控え。そして面会記録台帳の写真。


「10月12日、夜9時18分にカルテが閲覧されて、直後に面会記録が“家族以外なし”って書き換えられている。……その直前、あなたの“本当の恋人”と名乗る人が、面会を強く求めていたんです」


 心臓が小さく跳ねた。


「けど、病院の記録上は“来ていない”ことになっている。カルテにアクセスできるのは、限られた医師や関係者だけです。そして……この筆跡。二種類あるんです。同意書も、どこかおかしい」


 私は書類を見ながら、黙って耳を傾けた。

 でも、言葉よりも先に、胸の中の“何か”が反応していた。


 違和感。

 名前の思い出せない誰か。

 けれど、私の中に確かにいた、“何かを一緒に過ごした人”。


「私は、看護師として……患者さんを守りたいだけなんです。あなたが誰かの意志で閉じ込められているなら、見過ごせません」


 彼女の目は真っ直ぐだった。

 何も知らない私に、知るべきことを教えようとする目。



「明日、ご家族の面会があります。そして貴方の彼氏さんも来られます。……お願いがあります」


「お願い?」


「“眠ったふり”をして、話を聞いてください。もし、そこで何もなければそれでいい。でも──本当のことがあるなら、あなた自身の耳で確かめてほしいんです」


 私は迷った。

 でも、それ以上に、“知りたい”という思いが勝っていた。

 霧の中でずっと迷っていた私にとって、それは一筋の光だった。


 だから、私は頷いた。


「分かりました」


 さやさんは、安心したように微笑んだ。


「私、外で見守っていますから」


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