7
まだ、何も理解できなかった。
耳の奥で、さっきの声が何度も反響している。
『……あなたは……誰ですか?』
柚希の声。震えながら、怯えながら。
その言葉は、俺の胸を何度も引き裂いていく。
恋人だったはずだ。
一緒に笑って、一緒に未来を夢見て、支え合うと約束した。
その彼女が、俺を“知らない”と──。
わからない。
何がどうなっているのか、全然。
足元が揺れるようで、膝が震えた。
⸻
「おい、直哉」
背筋をなぞるような声が落ちてきた。
顔を上げると、そこには蓮司。
相変わらず整った顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、今の俺にはその笑みが悪魔の仮面にしか見えなかった。
「……お前……どうして……」
声が掠れ、喉で詰まる。
⸻
「混乱しているな。……まあ、当然だ」
蓮司は足を組むようにゆったりとした仕草で歩を進め、俺の目の前に立った。
そして、囁くように言った。
「彼女のあの顔……震えて、怯えて……見ただろう?」
心臓を掴まれたように胸が跳ねた。
「原因はお前だ。病院に押しかけ、叫び、名前を呼び続けた。……それが彼女にとってどれだけ恐怖だったか、考えたことはあるか?」
「……違う……俺は……!」
否定しようと声を出す。
けれど、続きが出なかった。
何を言えばいい? どう説明すれば?
頭の中が真っ白で、言葉は霧散していった。
「彼女にとってお前は、ただの“ストーカー”だ。ストーカー」
その一言で、肺の中の空気が一気に凍りついた。
「……な……に……」
ストーカー? 俺が?
何を言っているんだ。
「俺は……違う……!」
必死に言葉を絞るが、震える声は自分でも頼りなく聞こえた。
⸻
蓮司はふっと笑った。
目の奥が光り、さらに言葉を重ねる。
「惨めだなあ、おい。……ふっ、仕方がないから教えてやるか」
その声音は、愉悦を隠さない残酷さに満ちていた。
「本当はな。お前と一緒にいるのが癪で仕方なかった。だから……カッとなって“やらせた”。トラックでな」
世界が止まった。
耳鳴りが轟き、視界が揺れる。
「っ……お前……!!」
「だがな、不幸中の幸いってやつだ。柚希は記憶を失った。俺が彼氏だと刷り込むには、これ以上ない状況だった」
⸻
「……嘘だ……嘘だ……!」
喉の奥で掠れた声が漏れる。
だが、蓮司は止まらない。
「最初は警戒していたさ。目を逸らし、俺に怯えることもあった。けれど──人間は弱い。誰かに寄りかかりたい時、差し伸べられた手を拒めるほど強くはない」
吐き捨てるように笑みを深める。
「今じゃ違う。俺にしか見せない顔をしている。泣き顔も、笑顔も、弱音も……俺に甘えてくるんだ。あの柚希が、な。可愛いぜ」
喉の奥で小さな笑い声がこぼれ、やがて嗤いへと変わる。
「お前の柚希が、今は俺に縋ってるんだよ」
⸻
「……やめろ……やめろ……!」
耳を塞ぎたい。
だが、言葉は容赦なく突き刺さる。
「家族もそうだ。金を握らせれば簡単だ。……俺に感謝すらしたよ。『蓮司さんが一番尽くしてくれている』ってな」
血の気が引く。
目の前がぐらつく。
「病院も同じ。この場所は俺の家のものだ。医師も看護師も、全員が俺の言葉を信じる。……お前じゃなくてな」
⸻
頭が真っ赤に沸騰する。
「お前……お前が……!」
気づけば、蓮司の胸ぐらを掴んでいた。
力任せに引き寄せ、声を張り上げる。
「よくも……柚希を……!」
拳を振り上げた。
けれど──その瞬間。
蓮司の口元が大きく歪んだ。
「良いぜ? 殴れよ」
囁きが、耳の奥を冷たく貫いた。
「ここは病院だ。監視カメラも証人も揃っている。……お前が俺に掴みかかる、それだけで十分だ」
「……なに……」
「簡単だ。“ストーカーに暴行された”──そう言えば、お前は警察に突き出される。証拠は完璧だ」
喉の奥で笑いが溢れる。
「面白いぐらい俺の掌で踊ってくれて、本当助かるよ。……柚希も、お前も、すべてな」
今度は抑えきれない嗤い声が廊下に響いた。
「はっ……ははははははは!」
胸ぐらを掴む手が、力を失った。
膝が震え、足元が崩れ落ちる。
──柚希はレンジを頼っている。
──家族も病院も、すべてレンジの味方。
俺の存在なんて、どこにもなかった。
絶望だけが、静かに心を蝕んでいった。