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 まだ、何も理解できなかった。


 耳の奥で、さっきの声が何度も反響している。


 『……あなたは……誰ですか?』


 柚希の声。震えながら、怯えながら。

 その言葉は、俺の胸を何度も引き裂いていく。


 恋人だったはずだ。

 一緒に笑って、一緒に未来を夢見て、支え合うと約束した。

 その彼女が、俺を“知らない”と──。


 わからない。

 何がどうなっているのか、全然。


 足元が揺れるようで、膝が震えた。



「おい、直哉」


 背筋をなぞるような声が落ちてきた。

 顔を上げると、そこには蓮司。


 相変わらず整った顔に、穏やかな笑みを浮かべていた。

 だが、今の俺にはその笑みが悪魔の仮面にしか見えなかった。


「……お前……どうして……」


 声が掠れ、喉で詰まる。



「混乱しているな。……まあ、当然だ」


 蓮司は足を組むようにゆったりとした仕草で歩を進め、俺の目の前に立った。

 そして、囁くように言った。


「彼女のあの顔……震えて、怯えて……見ただろう?」


 心臓を掴まれたように胸が跳ねた。


「原因はお前だ。病院に押しかけ、叫び、名前を呼び続けた。……それが彼女にとってどれだけ恐怖だったか、考えたことはあるか?」


「……違う……俺は……!」


 否定しようと声を出す。

 けれど、続きが出なかった。

 何を言えばいい? どう説明すれば?

 頭の中が真っ白で、言葉は霧散していった。




「彼女にとってお前は、ただの“ストーカー”だ。ストーカー」


 その一言で、肺の中の空気が一気に凍りついた。


「……な……に……」


 ストーカー? 俺が?

 何を言っているんだ。


「俺は……違う……!」


 必死に言葉を絞るが、震える声は自分でも頼りなく聞こえた。



 蓮司はふっと笑った。

 目の奥が光り、さらに言葉を重ねる。


「惨めだなあ、おい。……ふっ、仕方がないから教えてやるか」


 その声音は、愉悦を隠さない残酷さに満ちていた。


「本当はな。お前と一緒にいるのが癪で仕方なかった。だから……カッとなって“やらせた”。トラックでな」


 世界が止まった。

 耳鳴りが轟き、視界が揺れる。


「っ……お前……!!」


「だがな、不幸中の幸いってやつだ。柚希は記憶を失った。俺が彼氏だと刷り込むには、これ以上ない状況だった」



「……嘘だ……嘘だ……!」


 喉の奥で掠れた声が漏れる。


 だが、蓮司は止まらない。


「最初は警戒していたさ。目を逸らし、俺に怯えることもあった。けれど──人間は弱い。誰かに寄りかかりたい時、差し伸べられた手を拒めるほど強くはない」


 吐き捨てるように笑みを深める。


「今じゃ違う。俺にしか見せない顔をしている。泣き顔も、笑顔も、弱音も……俺に甘えてくるんだ。あの柚希が、な。可愛いぜ」


 喉の奥で小さな笑い声がこぼれ、やがて嗤いへと変わる。


「お前の柚希が、今は俺に縋ってるんだよ」



「……やめろ……やめろ……!」


 耳を塞ぎたい。

 だが、言葉は容赦なく突き刺さる。




「家族もそうだ。金を握らせれば簡単だ。……俺に感謝すらしたよ。『蓮司さんが一番尽くしてくれている』ってな」


 血の気が引く。

 目の前がぐらつく。


「病院も同じ。この場所は俺の家のものだ。医師も看護師も、全員が俺の言葉を信じる。……お前じゃなくてな」



 頭が真っ赤に沸騰する。


「お前……お前が……!」


 気づけば、蓮司の胸ぐらを掴んでいた。

 力任せに引き寄せ、声を張り上げる。


「よくも……柚希を……!」


 拳を振り上げた。

 けれど──その瞬間。


 蓮司の口元が大きく歪んだ。


「良いぜ? 殴れよ」


 囁きが、耳の奥を冷たく貫いた。


「ここは病院だ。監視カメラも証人も揃っている。……お前が俺に掴みかかる、それだけで十分だ」


「……なに……」


「簡単だ。“ストーカーに暴行された”──そう言えば、お前は警察に突き出される。証拠は完璧だ」


 喉の奥で笑いが溢れる。


「面白いぐらい俺の掌で踊ってくれて、本当助かるよ。……柚希も、お前も、すべてな」


 今度は抑えきれない嗤い声が廊下に響いた。


「はっ……ははははははは!」



 胸ぐらを掴む手が、力を失った。

 膝が震え、足元が崩れ落ちる。


 ──柚希はレンジを頼っている。

 ──家族も病院も、すべてレンジの味方。


 俺の存在なんて、どこにもなかった。


 絶望だけが、静かに心を蝕んでいった。


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