5
柚希は、病室の窓の外を見つめていた。
秋の風が木々を揺らしている。
その景色は懐かしいはずなのに、胸にはぽっかりと穴が空いている。
──私は、誰と笑っていたんだろう。誰、だっけ……?
夢の中で、誰かの声を聞いた気がする。
優しいのに、必死に叫ぶような声。
手を伸ばしても、その人の顔は霧に溶けて消えてしまう。
「……だれ……?」
唇から漏れた声を、蓮司が拾った。
「大丈夫。無理に思い出すことはない」
いつの間にか、彼はベッドの傍に腰を下ろしていた。
落ち着いた瞳が、揺れる不安を吸い込むように真っ直ぐ射抜いてくる。
「大事なのは今、君が生きていることだ。そして俺がそばにいること。……それ以上、何が必要だ?」
柚希は反論しようとした。
でも、その言葉は心の奥の不安に寄り添い、呼吸を落ち着かせてしまう。
彼の声は、安心と同時に“思考を止めさせる力”を持っていた。
⸻
***
その頃、直哉は柚希の実家を訪れていた。
インターホンを押すと、玄関の扉がゆっくり開き、母親が顔を出した。
「直哉くん……」
そこに温かさはなかった。
驚きでもなく、むしろ迷惑そうな影が浮かんでいた。
「柚希さんのことを、教えてください。俺、事故のあと会わせてもらえなくて……どうしても、確かめたいんです」
必死に言葉を重ねる。
だが、母親の目は冷ややかだった。
「……直哉くん。あなた、もう来ないでくれる?」
「え……?」
「今、一番彼女に尽くしてくれているのは朝倉さんなの。病院のことも全部任せているし、私たち家族にも本当に良くしてくれる。なのに、あなたは……病院で騒ぎを起こしたって聞いたわ」
胸の奥が凍りついた。
「ち、違います! 俺はただ、柚希さんに──」
「恋人を名乗るのはやめなさい」
母親の言葉は鋭く、突き刺さった。
「彼女は混乱しているのよ。そんなときに余計なことを言って、傷つけるつもり? ……正直、邪魔なの」
“邪魔”。
その一言で、膝が崩れそうになる。
⸻
「……直哉」
奥から父親の声がした。
廊下の暗がりに立つその顔も、怒りを隠そうとしない。
「二度と家に来るな。……わかるな?」
低く響く声。
その背後で、柚希の妹が小さく呟いた。
「……お母さんの言うとおり。柚希には、朝倉さんがいるから」
家族全員が、彼を締め出す空気を纏っていた。
直哉は何かを言おうとしたが、声が出なかった。
視界が揺れ、足が勝手に玄関の外へ後ずさる。
ドアが閉まる音は、まるで世界から切り離される合図のようだった。
⸻
夜道。
スマホの画面を開いても、未読のままのトークルームが映るだけ。
既読がつかない。
返事もない。
そして家族すら、自分を拒絶した。
「……俺は……恋人なのに」
声は夜風に飲まれ、消えていった。
胸の奥で、不協和音が響いていた。
愛と現実の間で、狂った音が広がっていく。