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 目を覚ましてから数日。


 柚希は、窓辺に流れる朝の光を見つめていた。

 ガラス越しに差し込む陽射しは暖かいはずなのに、胸の中は冷えていた。


 頭の奥が霞んでいる。

 手を伸ばせば掴めそうな記憶が、すぐ霧の中に溶けていく。


 講義の教室。

 バイト先の制服。

 友達の笑い声。


 ……そして、何より大切だったはずの“誰か”。

 その顔だけが、どうしても浮かばない。



「体調はどう?」


 低く落ち着いた声が、静かな病室を震わせた。

 振り向くと、椅子に腰かける朝倉蓮司の姿があった。


 スーツの襟元は乱れひとつなく、姿勢も真っすぐ。

 その横に、カルテを抱えた医師が控えている。


「……まだ、少し……ぼんやりします」


 掠れた声を聞き、医師は淡々と告げた。


「衝撃による一時的な記憶混乱でしょう。時間が経てば落ち着くはずです」


 “記憶混乱”。

 言葉は簡単でも、胸の奥に重く沈む。


 思い出せないという事実は、何よりも心細い。



「無理に思い出そうとしなくていい」


 そう言ったのは蓮司だった。

 穏やかに笑みを浮かべ、柚希の手に自分の指を重ねる。


「大事なのは、君がここにいることだから。安心していい。……俺がそばにいる」


 その声音は優しく、まるで誓いのようだった。

 耳に染み込んでくると、不安が少しずつ薄れていくような気がした。


 けれど同時に──違和感もあった。

 心の奥で誰かを求めているのに、その名前が出てこない。


 霧の向こうに、伸ばした指先が届かない。



 昼過ぎ。


 看護師が水の入ったカップを置いていった。

 そして何気なく微笑んだ。


「……恋人さんがいてくださって、本当に心強いですね」


 その一言に、柚希の胸が大きく跳ねた。


 看護師の視線の先には蓮司。

 彼は、当然のように微笑んでいる。


「……こいびと……?」


 かすれた声で繰り返した。

 訂正しようとした。──でも、言葉が出なかった。


 違うはず。

 でも、違うと証明できる記憶がどこにもなかった。



 ***


 


 一方その頃。


 直哉は、病院のロビーに立ち尽くしていた。

 受付で何度も説明した。

 恋人だ、どうしても会わせてほしい、と。


 だが返ってくる答えは冷たい。


「ご家族以外は面会できません」

「繰り返しますが、規則です」


「……でも、俺は……!」


「これ以上は、警備を呼びますよ」


 その瞬間、喉の奥に突き刺さるような無力感が走った。

 声を張り上げても、誰も耳を傾けない。


 自分は存在していないみたいだ。

 彼女が生きているのに、声も顔も確かめられない。


 歯を食いしばり、膝が震えた。



 ***


 


 夜。


 病室の照明は柔らかく落とされ、静寂が漂っていた。

 柚希はベッドの上で、天井を見つめていた。

 胸の奥を満たすのは、不安。


 ──私、本当に……誰と生きてきたんだろう。


 ぽつりと呟くように声を漏らした。


「ねえ……」


 隣に座る蓮司が、ゆっくりと顔を向ける。


「私たち……付き合ってたんだよね?」


 彼の瞳に、一瞬の影が走った。

 だがすぐに、それは完璧な微笑みに塗り替えられる。


「──ああ。そうだよ」


 低く、確信に満ちた声。


 その一言が、柚希の中の空白にすっと流れ込んでいく。

 涙がにじみ、胸が締めつけられる。


 彼の言葉だけが、今の自分を支える“事実”に思えたから。

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