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俺は何一つ、不自由などしたことがない。
生まれた家は巨大な医療法人の本家。
金も地位も、努力などしなくても手に入った。
顔だってそうだ。
鏡に映る自分を見て、不満を抱いたことなどない。
成績も常に上位。社交の場では誰もが俺を讃える。
──そう、“完璧”。
人からそう呼ばれることが、いつしか当然になっていた。
だからだ。
あの女──秋月柚希が、俺を拒んだ時。
初めて、世界の歯車が狂った。
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最初は軽い興味だった。
講義で目に入った彼女は、目立つほど派手ではないのに、自然と視線を引き寄せる。
穏やかな笑みと、凛とした背筋。
柔らかさと強さを同時に纏った女。
「か、かわえー!!!」
声をかけ、食事に誘い、当然のように受け入れられると思っていた。
──だが、振られた。
「ごめんなさい、好きな人がいるの」
衝撃だった。
その場では笑みを崩さず引き下がったが、胸の奥はざらつきでいっぱいだった。
俺ではなく“他の男”を選ぶ?
そんなことが、この世にあっていいのか。
⸻
それでも諦めなかった。
二度目は花を贈り、三度目は自らの素直な気持ちを伝えた。
そのたびに、彼女は静かに首を横に振った。
「何度言っても同じだよ、諦めて」
「……本当にしつこいね、私、嫌いになっちゃうよ」
俺は“完璧”だ。
それを拒む女がいるなど、論理が破綻している。
だからこそ怒りが膨れ上がった。
俺を拒むという行為そのものが、許せなかった。
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そして、あの日。
俺はついに命じていた。
「少し痛い目を見せろ。俺を拒んだことを思い知らせろ」
部下に告げたのは、それだけだった。
脅す程度でいい。
少し怪我をすれば、自分の愚かさに気づき、俺を頼るようになる。
そう考えていた。
だが──
金属音。悲鳴。
街灯に照らされた舗道に、柚希の身体が転がっていた。
血の色がアスファルトを濡らす。
動かない指先。
白い顔。
その瞬間、心臓を鷲掴みにされたように呼吸が乱れた。
“死ぬ”
その恐怖が俺を支配した。
⸻
「搬送しろ! 朝倉総合医療センターへ! 必ず助けろ!」
怒鳴る声は、理性を失っていた。
車が彼女を連れ去り、俺はただ立ち尽くした。
冷たい風に頬を打たれ、震えていたのは身体か心か。
俺はその違いを区別できなかった。
ただ確かなのは──死なせるつもりはなかったということ。
思い知らせたかっただけ。
だが、取り返しのつかないことになる寸前だった。
俺の中の何かが、音もなく軋んでいた。
⸻
***
処置室の灯りの下。
医師の声は乾いていて、冷静だった。
「命は取り留めました。ただし──記憶に混乱があるようです」
その言葉に、思考が止まった。
記憶。
つまり、彼女は何かを忘れている。
誰を想っていたのか。
何を選んだのか。
そして──誰を拒んだのか。
胸の奥で、熱がふつふつと広がる。
彼女が俺を振った記憶も、霞んでいる。
ならば──塗り替えればいい。
⸻
俺は深く息を吐き、笑みを形作った。
後悔はもう消えていた。
今あるのは確信だけだ。
“彼女は俺のものになる”
記憶が曖昧なうちに、真実を与える。
俺が恋人であり、唯一の支えだと教え込む。
それが彼女にとっての救いであり、俺にとっての勝利だ。
⸻
***
深夜の廊下に、声が響いていた。
「お願いします、恋人なんです……!」
必死に食い下がる若い声。
柚希を奪った“あの冴えない男”だろう。
俺は足を止め、声の方へ視線を向けた。
白い壁に映る自分の影は、静かに揺れていた。
──だが、もう関係ない。
柚希の記憶は曖昧だ。
そして曖昧な記憶の隙間を、これから俺が埋めていく。
最後に残るのは、俺だけだ。
その確信が、甘美な熱となって胸を満たしていた。