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受難の子




 鏡を見るのがいやになる。自分を見るのが。

 雷斗は不意に目にはいったショウウィンドウから目を逸らし、吐き気をこらえる。自分の顔を見た。見たくないものを見た。なにひとつ気にいらない自分の顔。自分の姿。どれもこれもすべてとりかえてしまいたい。そうできたらどれだけ楽になるか。


 メタリックな赤に染めた髪が目の端に残って、純粋に気分が悪い。ああ、どうして()()()似合わないんだろう。どうして()()()、俺をましに見せてくれないんだろう。

 ぼろぼろで千切れそうな神経が、穴だらけの精神が、今にも木っ端微塵になりそうだった。どうせなら自分の体がばらばらになってしまえばいい。醜い自分。醜悪な存在。




 自分がひとより上だと思えたことは一度もなかった。外見でも、勉強でも、運動でも、歌でも、ダンスでも、かならず雷斗より上の人間が居た。どこへ逃げてもあらわれる。なにかでひとより秀でているとか、優れているとか、そういうのはうんざりだった。考えたくもないのに考えてしまう自分がいやだ。

 可愛いとかダンスがうまいとかおだてられて、莫迦みたいに正直にうけとって劇団にはいって、うちのめされた。そこには自分よりも優れた、自分よりも可愛い子が沢山居た。

 挫折と屈辱で体のなかがいっぱいになって、苦しくて全部投げ出したくて、ダンスならと、今の事務所へ移籍した。そこでも、自分より上が居た。()()()で自分に勝っている、笑也が居た。




 奈多のアクロバットには勝てない。あんなことはできない。

 美愛の可愛らしさには勝てない。あんな表情も声音も真似できない。

 海鈴の美しさには勝てない。あんなの人間じゃない。

 煌輝の歌には勝てない。あんなにいろんな声は出せない。

 月仁の色気には勝てない。あんなふうに人間をひきつけることはできない。


 でも、奈多には歌で勝てた。

 でも、美愛にはダンスで勝てた。

 でも、海鈴には勉強で勝てた。

 でも、煌輝には可愛らしさで勝てた。

 でも、月仁には演技で勝てた。


 そんなふうに、考えたくなくても考える。相手より上だと思いたくて、欠点をさがす、さもしい人間だと気付いて、吐き気がする。




 そして、どれだけさがしても、笑也には勝てる要素がなかった。


 歌で負けている。ダンスで負けている。アクロバットで負けている。美しさも可愛さも笑也のほうが上だ。成績さえかなわない。ひとをひきつける魅力に至っては、笑也にかなう人間は多分、この世には居ない。

 哀しいことに、ほとんど演技をしていない笑也に、演技でも負けている。

 笑也が出演した数少ない作品のひとつに、雷斗も出ていた。笑也は本当にそういう人間であるかのように振る舞える。まるでそこに、そのキャラクターが実際に居るみたいに感じさせる。普段の笑也とまったく違うのに、そう見える。現場に居る笑也を見て、笑也だとは思えなかった。まったくの別人にしか見えなかった。

 どれだけ自分を消して、自分の人格を破壊して、破壊して、破壊し尽くしてあたらしい人格を構築しても、どこかに自分が残っている。限界まで自分を殺して、痕跡も消したつもりでも、厄介な()()みたいにそれは残っている。

 演じるキャラクターのどこかに、自分が顔を出す。それは歩きかただったり、箸の上げ下ろしだったり、自転車の漕ぎかただったり、小さいけれど看過できない部分にあらわれる。

 神は細部に宿るとはよく云ったもので、完成した作品を見て雷斗は何度も自分に失望している。ほんの少しの仕草、癖が、『自分』なのだ。そのキャラクターではない。

 笑也は違った。普段はにこにこしていて、くだらない話をしてけらけら笑っていて、みんなと楽しくお喋りするのが好きな明るい子なのに、物静かな秀才でも、知能に障害のある子でも、人間ではないなにかでも、笑也は完璧に演じた。笑也自身がそうだと勘違いするくらいに完璧に。そこに()()()そういうひとが居るのだと、自然に思い込ませるくらいに。


 打ちのめされるなんて表現では足りなかった。笑也に対して、激しい憎悪を抱いた。自分にはできないことを簡単にこなしている笑也が憎たらしい。それと同時に、なにひとつ笑也並みにできない自分が悔しい。

 自分はすべて、なにもかも、五十点くらいなのだと、そんなふうに雷斗は思っている。百点をとれたことがない。すべて、ぎりぎり合格程度。ダンスはできる。できるが、奈多や煌輝のようにアクロバットをぽんぽんくりだせる訳でも、海鈴みたいにオールジャンルを踊りこなす訳でも、美愛みたいに可愛らしさがある訳でも、月仁みたいに色っぽい訳でもない。

 勿論、笑也みたいにアクロバットもなにも大概のことはできて、可愛らしくもあり、格好よくもあり、通も満足させて、大勢のひとをひきつけるような、そんな魔法みたいなダンスはできない。魔法か、(のろ)いかは知らないけれど。

 歌だってそうだ。奈多のような綺麗なファルセットは出ない。煌輝のようにすぐに曲を覚え、作曲までできるでもない。海鈴のように二オクターブ半出る訳ではない。美愛のように滑らかな発声でもない。月仁のように低い声は出ない。

 唯一自信があったのはロングトーンだったけれど、それも笑也に負けた。笑也はナチュラルハイトーンで綺麗なファルセットも出せる。すぐに曲も発音も覚えるし、作曲もできるし、編曲もできる。海鈴に負けないくらい音域がひろい。高い声も低い声もひっかからず、滑らかに響かせる。肺活量があって、長々と安定した声を出せる。

 誰かがいやがらせで雷斗の前につれてきたみたいに、笑也は完璧な人間だった。なにもかもが雷斗よりも上で、なにもかもで雷斗に(まさ)っている。

 これでいやなやつだったら救われたのに、性格までいいのだから、人生は不公平だ。

 せめて笑也の外見に難があったら、少しは救われたかもしれない。でも笑也は綺麗な顔で、豊かな表情で、すらりとした四肢に、恵まれた体躯で、雷斗の神経をずたずたにした。

 笑也を見ているとおなかが痛くなることがある。ちびで、そこまで顔のいい訳でもない自分がいやになって、逃げ出したくなる。腕も脚も短くて、貧弱な体をしている自分が、ばらばらになって消えてしまったらいいのにと思う。


 美少年だ、と云われてきた。まわりに。ファンに。事務所の仲間に。

 でも信じられない。

 笑也が居るから。

 笑也は美しいし、格好いい。目をはなせなくなる。勝てないことを悔しがっている筈なのに、気付くとじっと、見蕩れている。目がはなせなくなる。

 それと比べて自分は劣っている。

 顔が()()()だった。自分の顔が。

 長すぎて顔のパーツのなかでういている睫も、三角眉も、まるっこい輪郭も、小さな鼻も、子どもっぽい表情しかつくれないことも、なにもかもきらい。きらい。だいきらい。


 frEsaにはいる話をされて、笑也と海鈴が居ると聴いて、恐怖を覚えた。実際にその瞬間、視野がくらくなったのだ。気を失うのかなと思ったけれど、持ち堪えた。そんなのは()()だから。

 でも、それでなにかが解決した訳ではない。持ち堪えたからってどうにもならない。あのふたりと並べられたら、確実に死ぬ。ショックで。ストレスで。ただでさえ限界の神経がぷつんと切れて、喚きながら暴れる自信があった。誰かを傷付けるかもとさえ考えた。それはとてもリアルな想像だった。勝手に追い詰められて、どう足掻いても『醜い自分』から逃れられなくて、周囲に八つ当たりするというのは。

 逃げることはできなかった。丁度、雷斗の仕事が急激に減った時期だったのだ。

 だから実質、雷斗に選択権はなかった。あるようなふりをされただけだ。今後も芸能界に居る為には、そこでグループを結成して歌とダンスのレッスンを集中的にうけるか、断って別の事務所へ移るかしかなかった。別の事務所に移ったところで、仕事をもらえるとは限らない。展望は決してよくない。

 もともと、劇団から移籍した時にもそれなりにもめた。またそれを繰り返すのはいやだった。不義理なやつだと思われるのもうまくない。雷斗は違うが、別の子が劇団から移籍してきて、もめて、その劇団から事務所が訴えられるということもあった。他事務所への移籍には、そういうリスクがついてまわる。移籍という危険な賭けに出るより、ミュージカルでならした奈多や、かつて栄華を誇った美愛と同じグループで粘ったほうが、まだ可能性があった。


 そもそもどうして芸能界に固執するのか、自分がわからない。見えている落とし穴へつっこんでいくような行いなのに。

 自分の満足ではなくて、誰かの賞賛がほしいという、俗っぽい、いやらしい気持ちが根源にあるのだとは、わかっているが見ないことにしている。誰に命令されたのでもないのに、罰でもないのに、ひたすらつらい環境に身を起き続ける。ただの愚か者。逃げたいと云いながら逃げない。

 逃げても醜い自分が消える訳じゃない。なら、賞賛してくれる誰かの居る場所のほうがましだ。マイナスの度合いがまし、というだけだけれど。


 だから打算だ。笑也や海鈴と深く関わるつもりなんてなかった。隣に居るだけで、自分の見た目がはずかしくて死にそうになるのに、海鈴と無駄話なんてできない。隣に居るだけで、嫉妬と羨望で脳みそが焼き切れるみたいなのに、笑也と友人になんてなれない。

 そう思っていた。でも、そうはならなかった。




 最初に、笑也と個人的に言葉を交わしたのがいつか、雷斗ははっきり覚えている。入所して三日後、ダンスレッスンの後に、同時期に入所した数人(もうみんな辞めてしまったけれど)と一緒に廊下に居たら、笑也と美愛が腕を組んでやってきたのだ。

 まだどちらも子どもなのに、ふたりとも大人みたいに見えた。雰囲気が違った。笑也は美愛を丁重にエスコートしていて、美愛は笑也にそうされるのは当然という顔だった。ふたりとも髪を染めて、ピアスを開けて、どうやらメイクまでしているらしい。極めつけに、爪はカラフルに染まっていた。それも、明らかにプロの手で塗られたラッカーだ。

 劇団にもおしゃれな子は居た。同期にも、まだ十歳にもならないのに髪を染めている子、ピアスを開けている子は居た。居たが、おしゃれで、おまけに暴力的なまでに整った顔をしている子を間近に見るのは、それがはじめてだった。笑也は莫迦みたいに格好よく、美愛は嘘みたいに美人だった。端的に、美少女に見えた。

 狼狽える雷斗に気付いて、笑也が笑顔になった。それで、狼狽えながらも挨拶をしたら、笑也は笑いながら、咽渇いてない? と云った。傍の自販機で水だとかお茶だとかを買って、笑也はなんのこだわりもなく、それを雷斗達にくれた。

 頑張ってね、なんか困ったら相談してくれていいから――と。

 美愛は黙っていた。黙って、にこにこしていた。笑也の行動を自慢するみたいに、笑也ってかっこいいでしょ? とでも云いたげな目付きで。


 笑也の名前を知ったのはその三日後だ。美愛は、何度も映画やドラマで見ていたから知っていたが、ほとんど演技仕事をしていなかった笑也は違う。たまたま同じレッスンをうけた奈多に訊いた。奈多は、以前ミュージカルで一緒になったことがあって、顔見知りだったから、人見知りの雷斗でも話すことができた。

 奈多はにっこりして、笑也だね、と云った。――そういうふうに、後輩を可愛がるのは、一番はあいつだから。


 可愛がられているのか、自分の顔面と気前のよさを自慢しに来ているのか。

 そんなふうにいやな考えがわいた。美愛も笑也も綺麗で、可愛くて、格好よくて、内臓が千切れそうに悔しかったからだ。アンバランスで未完成な自分の顔とは違う。誰かが精一杯慎重に配置したような、完全なバランスの顔を見せられて、絶望した。

 美愛はその頃、子役としての絶頂期だった。舞台やなにかが沢山あり、だから事務所のレッスンフロアにはたまにしか姿を見せなかったが、笑也はよく廊下に居た。研修生達の喧嘩の仲裁をしたり、困っている子を助けたり、宿題を見てやっていたこともある。

 笑也は有名中高一貫校の特進クラスへ進むことが決まっていると噂されていて、成績でも勝てないのかと、あらたに絶望させられた。それが事実ではなくて、もっとずっと偏差値の高い中学へと彼が進んだ時には、奈落の底に穴が開いて更に落とされたみたいな心地がした。


 なにをしても、なんの面でも、笑也はことごとく雷斗に(まさ)っている。今もそうだ。ダンスも、歌も、それ以外も。


 frEsaにはいる前から、笑也はいい先輩だった。嘘みたいに優しい、嘘みたいに気前のいい、嘘みたいに顔のいい先輩。なにか欠点はないかとあらさがししてもだめな、完璧な少年。先輩には適度にへりくだり、なにくれとなく後輩の世話を焼き、大人達には可愛がられている。研修生達はたまに、自分の弟や妹をつれてくるが、笑也はそういう子達にさえ気を配った。どの子が誰の弟妹か、アレルギーの有無さえ知っている。お菓子やジュースをあげていいかの基準にする為に。

 正直、一時期は、笑也を見るだけで吐きそうになっていた。同じ作品に出た時からだ。自分の不甲斐なさ、努力の足りなさと、生まれ持っての形質に対する怒りと、したって意味のない、そしておそらくそんな権利もない、笑也に対するどす黒い嫉妬と羨望で、内臓がおかしくなっていた。なにもかも持っているのだから、居てほしくなかったのだ。傍に。


 frEsaにはいってからも、仲好くなれないだろうと考えていた。劇団出身の奈多は別だ。同じミュージカルに出たことがあったのもそうだし、年が少しはなれていて身長体格が違い、顔立ちも系統がまったく別だから、役のとりあいにならなかった。なにより奈多は雷斗に優しい。ふた言目には誉めてくれる。可愛いと、頭を撫でてくれる。それに失礼だけれど、笑也ほどの完璧さはない。歌もダンスも演技も、奈多は笑也には劣る。

 そうやってひとに優劣をつける自分はいやだったし、それをもとに誰と親しくするか選ぶのもいやだった。けれど、そうしないと、不満と嫉妬ではちきれそうだったのだ。笑也と美愛、それに海鈴という、人間かどうか疑わしいような三人と同じグループにさせられたのである。精神衛生上、それくらいの選り好みはゆるされる。でないとおかしい。じわじわと殺されていくような心地を味わっているのだから、こちらにだって防衛はゆるされる筈だ。

 だからはじめの頃……中学三年生、移籍して六年目に事務所へ呼び出され、frEsa結成を告げられてすぐの頃は、奈多とばかり一緒に居た。ダンスや歌の全体練習には勿論参加するけれど、自主的な練習なら奈多と一緒のレッスンルームを選んだ。

 ひとりにならなかったのは、ひとりがこわかったからだ。自分がなにかしでかしそうで。笑也や美愛や海鈴への嫉妬でどうにかなりそうで。ひとりで居たら、いやなことばかり考えてしまう。奈多と居れば、少しは和らぐ。奈多は優しい。誉めてくれる。可愛いと云ってくれる。認めてくれる。奈多に頭を撫でられると気分が和らぐ。抱きしめられると一瞬だけ、全部を忘れられる。自分から地獄へ落ちていったくせに、そこで足掻いて、つらいくるしいと泣いている莫迦だということを忘れられる。


 奈多はそうやって利用する相手だった。友人面をしていたが、自分を讃えてくれて、自分と同じくらいできない人間を見付けようと必死だっただけだ。でもそううまくはいかなかった。

 奈多は雷斗よりもミュージカルに沢山出ていて、歌のレッスンも、事務所に移籍する前から沢山やっていた。移籍してからも努力は続いた。声変わりは完全に済んでいて、低めの声も、ファルセットも、どちらも滑らかだった。

 それでも、自分のほうが肺活量はある、自分のほうが滑舌はいい、自分のほうが覚えははやいと、莫迦みたいにあらさがしをして、彼より少しでも上だと思えるところがあるとほっとした。

 アクロバットは、苦手だった。側転と側宙はできた。前宙もなんとか。バク転も無理をすればできた。でも奈多みたいに脚を揃えずにバク転をするのは絶対に無理だ。片脚重心になる。両足を揃えて跳ぶ・着地するのと、片脚でそれをするのとでは、負担が違う。それに、よろけて転ぶ危険もあった。それなのにバク宙につなげる時にも、奈多はそうならなかった。どうしてもできなくて、諦めた。

 そんなことばかりだ。努力次第でどうにかなると思える段階は終わっていた。幾度も幾度も挫折してうちのめされて奈落につきおとされて理解した。だから、これはできないから捨てる、あれはできないから諦める、自分ができることをつきつめよう、自分の特技、美点を生かそう、長所を伸ばそうとしているのに、それでも遙か先に位置している人間が居る。笑也がずっと向こうで笑っているのだ。まだそんなところに居るの? と。ひっぱってやろうか、と。


 実際のところ、笑也に嘲笑されるとか、莫迦にされるとか、そんなことはなかった。笑也は常に『いいやつ』で、どこまでいっても『善良』だった。笑也から悪意を感じたことは一度もない。善良で、裏表がなくて、正直だ。自販機でいつもみたいにジュースをおごってくれた時に、おつりが五円多かったと事務室へ持って行くくらい。移籍するか辞めるかなやんでいる後輩の相談に、数日かけてのってやるくらい。

 笑也とレッスンで一緒になっても、時折訳のわからない理由で癇癪玉を破裂させて飛び出していく海鈴を宥めたり、不意に強情になって講師に低いトーンで『意見』する美愛を和ませたりしてくれた。それに、五人全員の結束を強めようと一緒に出掛ける計画を立て、ピクニックだの海水浴だのにもつれていってくれた。彼は見事な調整役だった。まとまりのない五人の集まったグループだったけれど、笑也が舵取りをしてくれたからどうにかなった。海鈴や美愛とも、いつしか少しは口をきけるようになり、雷斗は余計に苦しめられた。――ああ、こいつらもいいやつだ、欠点なんてない、汚いのは俺だけ、醜いのは俺だけ。


 芸歴でも年齢でも一番上の奈多が、けれど『芸』の面で生え抜き三人(笑也、美愛、海鈴)に劣った部分がある。奈多もそれは自覚していた。だから彼はレッスンを増やし、アクロバットをもっと磨いていった。その過程で、それまでも親しかった笑也と、もっと距離を詰めていた。

 frEsaの話が出る前から、奈多は海鈴の『お気にいり』だった。いや、奈多が海鈴を猫可愛がりしていたのか。どちらが先かわからないが、海鈴と奈多が一緒に居ることは多かった。笑也と美愛も一緒に居て、楽しそうに笑っていることがあった。

 雷斗は意識して、人間とは思えない美しさの海鈴を避けていたから、それを見掛けるとまわれ右して逃げていた。海鈴と深く関わりを持ちたくなかった。いや、存在自体ないものとしていたかった。自分より数百倍美しい人間を見ていたくない。自分が醜いことを思い出す。

 frEsaとしてのレッスンを重ねるごとに、海鈴が奈多と笑也にべったりだとわかった。友達同士の距離感ではない。間に、雷斗の知らないなにかがあった。単なる気易い友人、同性の親しい友達、という雰囲気ではない。一見知っている問題なのに、解く為には知らない方程式をつかわないといけないみたいな、もどかしさがあった。

 どのタイミングで気付いたのか、覚えていない。どこでだったかも忘れた。海鈴と奈多が抱き合って、長々と口付けを交わすのを、どこからか盗み見ていた記憶があるだけだ。前後を忘れている。あまりの衝撃で。


 次第に慣れていった。海鈴の()()()()がわかったからだ。海鈴はエンターテイナーとして完璧だった。それに完璧な美貌を持っている。普段は温和で、いつでもくすくす笑っていて、機嫌が悪くなっても口数が少なくなるだけ。その段階で笑也や奈多がうまく宥めればどうにかなるが、彼らが居ないと海鈴は爆発した。

 恐怖を覚える程の号泣に、金切り声に、自傷行為までついてくる。雷斗はそれをはじめて目の当たりにした時、体がかたまった。なにもできなかった。美愛が黙って笑也をつれてきて、海鈴に『宛がった』。笑也は海鈴を軽々抱え上げて、どこかへつれていった。それが笑也でなくて、奈多の時もあった。ふたりきりになってなにをしているのかは、考えなくてもわかった。

 海鈴は可哀相、と、奈多が云っていた。それも、いつだったか覚えていない。海鈴は、可哀相なんだよ。ご家族を恨んでる。ご両親を。それって哀しいことじゃない?

 奈多の言葉をうすっぺらいとは思わなかった。間近に居る人間を敬愛しながら酷く憎むというのがどれだけつらいのか、雷斗は知っている。居なくなってほしいのに居なくなってほしくない。笑也。メンバーのみんな。




 何故、海鈴が家族を恨むのか、それは知らない。誰も教えてくれなかった。笑也と奈多と美愛は知っているみたいだが、雷斗には知らされなかった。どちらにせよ四人は、対症療法的に彼に接するしかなかった。癇癪を起こしたら、奈多と笑也が宥める。元気のない表情をしていたら、美愛と雷斗で買いものだとかに誘う。ネイルサロンとかヘアサロンとかを、海鈴は好んでいる。頻繁に髪型をかえるが、長さはいつも同じくらいだった。かならず、うなじが隠れるようにする。外見を磨くというか、外見をころころかえたがった。どうやってもその美貌はかげらない。海鈴ならどんな髪型でもなにを着ていても美しく見える。

 メンバー全員、髪型は頻繁にかえていた。笑也も奈多も、美愛も、金になったり青になったり緑になったり銀に青のメッシュになったり紫になったり、忙しい。雷斗もそうだった。髪型をかえるのは、色をかえるのは、気分をかえるのにぴったりだった。でもかわらないことが幾つかある。海鈴は髪をある程度より短くしないし、美愛は絶対に前髪を上げないし、笑也はうなじ以上には髪を伸ばさないし、奈多はパーマをあてないし、雷斗はかならずうなじ近くを刈りあげる。髪以外にもそんなこだわりは、各人にあった。

 そういう些細な、メンバーの嗜好を知っていくうちに、愛着がわいてきた。笑也や海鈴と並ぶのはいやだったけれど、同じグループに選出されたのは名誉なことでは、とも思った。精神的に落ちている時には、俺はひきたて役なんだろうな、と思ったけれど。

 それでも、メンバーを好きになっていった。あれだけ憎み、嫉妬していた笑也さえ、それと愛着とが両立した。憎み、羨み、妬みながら、慕っている。


 崩れそうだった精神に楔を打ちこまれた。

 そろそろデビューという頃になって、歌声に深みがない、立体感が足りないと、事務所の大人達がもめはじめた。雷斗は自分を否定されている気分で、ことの進捗を聴いていた。最終的には、音色を整える(……なに、それ?)為に、すでにミュージカルで台頭をあらわしていた煌輝と、長年研修生だがほとんど仕事につながっていなかった月仁をいれると決まった。

 また、自分より上の人間が来る。

 アクロバットが綺麗で、なんでもそつなくこなす、身長以外に欠点のない煌輝。身長なんて靴で誤魔化せるから、たいした欠点でもない。つくりものめいた顔の人間がまた増える。バランスよく配置された目・鼻・口・眉。綺麗な輪郭。煌輝は色白で、それも雷斗はいやだった。自分にないものだから。

 月仁はもっといやだった。あの色気、『生』の()()()。並の女なんてめじゃない、生々しいもの。美愛や海鈴みたいな『女の子っぽい』のではなくて、月仁は時折本当に『女』だった。それも、綺麗々々な天女さまなんかじゃない、生身の、実物としての。なんと表現したらいいかわからないが、実際に月仁はデビュー以来、厄介な男ファンに追いまわされている。それすらもある意味、雷斗には羨ましいものだった。自分に熱狂してくれるひとなんて居ない。


 人生は残酷だし、理不尽だ。大衆はそれを消耗しているのだと気付いたのは、子役になってすぐだった。大衆は人気商売の栄光を見るのも好きだし、凋落を見るのも好きだ。苦労も悲劇も大好きで、雷斗みたいに自分よりも劣る人間をさがして楽しむ。

 少年達(デビューした時、奈多は二十歳だったし、美愛と笑也は十九歳だったけれど、子どもみたいなものだろう)が命を削って、見ず知らずの人間に媚を売って栄誉を掴もうとする、そういうひとつの娯楽、悲喜劇、そういうものを求められている。

 現実の残酷さも、一度は栄光を掴んだ筈のもと・子役達の挫折も、地の底から這い上がってトップへ返り咲くのも、エンタメのひとつ。単なる娯楽。おそらくはそこから転げ落ちるのを、多くの人間が望んでいるだろう。それもただの、エンタメとして。

 グループを応援してくれているひと達だって、転げ落ちるのを待っているだけかもしれない。




 歌声に自信がなかった。煌輝と月仁が必要なのはわかった。自分が足をひっぱっている。奈多にもそれを負わせようとしたが、無理だった。奈多にはあの綺麗なファルセットがある。デビュー曲だって奈多と海鈴がサビを任された。

 煌輝と月仁の加入は、雷斗を荒れさせた。でも雷斗は、海鈴みたいに激情をおもてに出せなかった。くすぶっている汚らしい、醜い感情が、内臓を焼く。雷斗は吐くようになった。少し肥ったのも原因だ。食べればその分肥るのだから、食べなければいいと思ったら、食べられなくなった。それでもメンバーの手前無理して食べれば、吐く。咽を通らないような不快さ、通ったら通ったで、おなかが気持ち悪くなる。そして吐く。

 醜い自分が尚更醜くなる。ぶくぶくと肥えて。或いは、痩せさらばえて。どちらにしても醜い。もともとが醜いのだから。逃げ道なんてない。逃げようはない。醜い自分。醜悪な自分。


 雷斗がまともに食事できていないのに気付いたのは、笑也だった。


 あらたな苦しみのはじまりだ。




 デビューして半年くらいだったろうか。レッスン中に倒れた。食べられないか、食べても嘔吐するかの日々だったから、当然の帰結だ。

 笑也は雷斗を抱えて、事務所の医務室へ向かった。医者に診られるのはいやだった。活動休止とか、休業とか、脱退とか、そういう言葉が頭のなかで渦をまいていた。嘔吐の後に何度か、ああこれは危ないな、という結滞が起こっていて、調べられたら休まされるのは目に見えていた。

 これ以上否定されたくない。お前はだめだと云われたくない。それで雷斗は頼んだのだ。家まで送って、と。笑也ならそれくらいしてくれるのはわかっていた。欠点なんてない人間だから。

 笑也は雷斗を見て、にっこりした。それで、云った。


 いいよ。雷斗ん家? 俺ん家?


 ねじが溶けていた。箍が外れていた。ひとりになったら多分死ぬ、とさえ思った。

 えみやのいえ、と答えた筈だ。心地よい揺れに目を瞑っているうちに、笑也の家に居たから。


 家、といっても、事務所がかりているマンションの一室だ。笑也はなにか理由があって、実家をはなれている。それは知っていた。理由は知らない。月仁がストーカーにつけ狙われて、そこに避難していたから、そういう理由なのだろうと思った。それにしてはデビュー前、ほとんど芸能活動らしいものをしていなかった頃から笑也はここに居るのだが。

 笑也のベッドは大きくて、頑丈そうだった。ひとりでつかうには大きすぎる。ベッドカバーは笑也のメンカラで、枕カバーは美愛のメンカラだった。全然きしまないなと、そこに横たえられて、考えたのはまずそれだ。莫迦みたい。

 笑也は悪びれたりしなかった。俺十九歳だからまずいかな? らいとまだ十七だよね? と云っていたけれど、それだけ。

 その時の笑也の髪の色を覚えている。オレンジに近い赤。その少し前に一緒に、海鈴にすすめられたヘアサロンへ行って、雷斗は金にしていた。金にして、短くしていた。

 美愛は黒に戻していたから、覆い被さってくる笑也に、ねえ美愛にばれるよ、と云った。笑也は声を立てて笑って、それくらいで怒んないよあいつと答えた。


 笑也のつくった食事をとったけれど、吐かなかった。

 その日は笑也の家に泊まった。次の日も、その次の日も。それでぴたりと、嘔吐はしなくなった。食事が咽を通らないような不快感も、全部消えた。

 寝る時は同じベッドだった。笑也とくっついていると、不安がなくなった。笑也に可愛いとか綺麗とか云われると、本当みたいに感じた。笑也の言葉は真実に聴こえる。そんな訳ないのに。




 笑也と一緒に歌の練習をした。心をおろしているんだ、と思った。ぎざぎざした細かい歯のあるおろし金に心をおしつけて、前後させている。笑也はなにも、非の打ち所がない。綺麗な歌声をしている。声が高いのは欠点ではない。笑也に歌いかたを聴いて、真似した。できる限りのことをした。段々と、奈多には勝っていると思えるまでになった。奈多には勝っている。美愛にも。煌輝と月仁にも。煌輝達は歌の土台、骨組みを担当しているけれど、自分にだってそれはできる。ロングトーンもある。海鈴にはまだかなわないけれど、いずれ追いつけるかもしれない。追いこせるかもしれない。

 笑也はもっとずっと遙か彼方に居て、あと何百年かけても追いつけそうにない。


 心が削られていく。笑也と居ると。

 なのに笑也を求めざるを得ない。

 笑也が居ないとまた、咽が詰まる。食べものを飲み込めなくなる。笑也に、らいとは可愛いなあ、と云われたら、体が軽くなる。触れられたら、口付けられたら、自分が醜いことを忘れる。

 笑也は性質(たち)の悪い贅沢品だった。ほんの一度味わうと、辞められなくなる。でも贅沢品だから、いつでも手にはいる訳じゃない。

 笑也には美愛が居る。笑也の『持ち主』。笑也は優しいけれど、美愛を優先した。いつだって。笑也の基準はそこにある。美愛がゆるすか。美愛が納得するか。美愛が満足するか。

 それに海鈴も居る。『女帝』。海鈴は放っておくと自分を傷付けかねないから、笑也はそれを宥める。

 自分は三番目だった。でも月仁が来た。月仁は陰のある子で、海鈴並に不安定だ。笑也は月仁を優先するようになった。

 心は全部おろした。欠片も残らない。






 笑也は煌輝と一緒に行った。煌輝もか、と思った。あいつが来たら、また俺はうしろにまわされる。

 醜いから。

 笑也だって、義務なのだ。メンバーが潰れないようにしているだけ。美愛がいやがるから。美愛がメンバーを決めたと、奈多がそう云っていた。それが事実かどうかは知らないけれど、美愛がfrEsaを気にいっているのは事実だ。ひとりでも欠ければ、哀しむだろう。笑也は美愛を哀しませない。美愛の王子さまだから。

 笑也は美愛のものなのだ。手にはいらない。たまにかしてもらうだけ。あくまでも、所有しているのは美愛だった。

 笑也がこちらを本当の意味で見てくれるとは、雷斗は思っていない。そこまでお花畑ではない。笑也は美愛しか見ていない。本当には。

 でも、メンバーも大切だから、丁重に扱う。そこに悪意も打算もない。笑也は()()()、海鈴も、雷斗も、月仁も、大切に思っているのだ。自分を切り売りしてみんなを慰めるのが、今できることだと考えている。十割の善意、真剣な心配と労り。笑也から悪意を感じたことは一度もない。純粋に、ひたすら『善良』なのだ。




 息が詰まる。笑也と一緒に居られると思ったのに、どこかへ行ってしまったから。

 恋愛とか、そういうものではないと思う。依存しているだけ。笑也が優しいから、それに甘えている。そうしないと死にそうだから。

 髪を染めようか、と思った。今度は、濃い茶色に。うなじを刈りあげて、それから爪も染める。脱毛にも行かないといけない。段々と間遠になっているけれど、まだ完璧ではない。

 リハーサル、それに本番を思い出した。美愛はまた、リハでミスった。ぼんやりしているのか、美愛はミスが多い。本番では完璧だから、憎たらしくなる。

 ケータイが鳴った。

 奈多だ。

 どこに居るのと訊かれたから、答えた。


 『待ってて』







 奈多はすぐにやってきた。なんだか機嫌がいい。にこにこしている。

 奈多でもいいな、と思った。そんなふうに思って、ああ違うんだ、と気付いた。やっぱり恋愛じゃない。笑也を利用している。奈多を利用しているみたいに。

 安定するには、こうやって立っている為には、()()が要る。

 そういう弱い人間だ。弱くて醜くて、汚い人間。消えてしまいたい。醜い自分を消してしまいたい。

「らいと、一緒にご飯食べない?」

 奈多の声はやわらかくて、優しい。好意を向けてくれているのはわかっている。それが恋愛なのかは知らない。

 誕生日に奈多にもらった香水をつけて笑也と会ったのを思い出す。善良な笑也や奈多に比べて、自分はどれだけ悪いのだろう。あらゆるひとを傷付けている気がする。


 奈多は背が高い。雷斗より十㎝以上身長がある。だから、側に来た彼を見上げた。

「奈多?」

「うん」

「俺のこと好き?」

 笑也に訊いた時には、間髪入れずに返事があった。好きだよと。

 でも奈多は、笑みのまま、数秒間凍り付いた。

 手を伸ばして、奈多の上着を軽く掴む。不格好な手。醜い姿。

 その手に、奈多の手が重なる。「好きだよ」

 甘い声だ。でも笑也にはかなわない。

「どれくらい?」

 卑怯だな、醜いな。どうして俺はこんなに汚いんだろう。もっと綺麗になりたい。

 奈多が少しだけ、腰をかがめた。耳許にささやかれる。「食べたいくらい」

 比喩ではなくてそう云っているのは、付き合いが長いからわかった。なんだか嬉しかった。だって自分は、醜いものなんて食べたくない。

 奈多は姿勢を正して、じっとこちらを見ている。雷斗はその目を見る。灰色の目。綺麗な灰色。あれになれるかもしれない。

「いいよ、食べてよ」




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