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日輪の子




「つき、どうしたの」

 海鈴の声がする。海鈴の、少し低くて、おなかの底に響くような声が。


 壁に寄りかかっていた煌輝は、姿勢を正した。衣装の上着をしどけなくはだけた海鈴が目にはいる。シャツの襟は、三つ目までぼたんがとまっていなかった。目の毒だ。

「なんか、気分悪いって」

「泣いてない?」

 少しだけ赤みのある焦げ茶に染めて、パーマをかけた髪をかきあげ、海鈴は楽屋の扉を見遣った。唇は毒々しい赤になっている。けれどそれが、海鈴には似合った。細面で少々下ぶくれ、大きな目で、地黒の海鈴は、平均身長よりも少し背が高いのに、どこに行っても男扱いされなかった。綺麗すぎるのが原因だ。顔だけ見れば、男とは思えない。ファンさえも彼を、frEsaの女帝、と評する。

 メンバーもほぼ同じ意見だった。正確には、事務所の女帝だ。社長でさえ、海鈴にまっこうからは逆らわない。海鈴の実家が事務所を助けたのが理由だと聴いているけれど、煌輝はそれ以外の理由もあると思っている。

 海鈴は綺麗なのだ。美しい顔をしている。滑らかな声をしている。ころころ笑うと、とても可愛い。なんでもいうことをききたくなる。海鈴からお願いされたら、煌輝は逆らえない。きっと大勢の人間がそうだろう。


 同い年で、高校も一緒だったけれど(タレントやそのたまご御用達の、芸能コースのある学校だ)、海鈴はずっと高嶺の花だった。あんなに綺麗なのにどうして売れないんだろうとクラスの女子達が不思議そうに話していたのを覚えている。そう、海鈴は綺麗なのだ。

 綺麗で、安定しない。

 その頃、同級生で、芸歴もほぼ同じで、同じ事務所だけれど、煌輝は海鈴にずっと敬語だった。海鈴に対して気易く口をきく自分を想像して、吐きそうになったのだ。あんなに綺麗で可愛らしいひとと、親しくもないのに簡単に口をきくなんて、ある種の犯罪だろう。同じグループになってしばらくして、敬語やめて、と云われるまでは、敬語だった。


 煌輝は小さい頃からずっと、体操をやっていた。体操クラブに通っていて、いずれ体操選手になると思っていた。両親も応援してくれたし、兄や妹も一緒のクラブに通っていて、毎日楽しかった。

 ()()なったのは、たまたまが重なったからだ。たまたま、アクロバットのできる子どもを求めている映画監督が居た。その監督がたまたま、煌輝の通っていた体操クラブの先生と知り合いだった。煌輝はたまたま、特に背が低かったから、それに選ばれた。子どもであることが重要だから、小さい子のほうが見栄えがすると。ほかにも三人程、小柄な子が選ばれた。

 映画に出るのは面白かった。出演者のひとりといえ、煌輝がほとんど『お客さん』だった所為もあるだろう。アクロバットのできる子どもが必要だという映画制作側の無茶に応えた子ども達だ。現場では丁重な扱いをうけたし、アクロバットも難しいものや危険なものではなくて、撮影はあっという間に終わった。

 その後、煌輝だけあらためて呼ばれ、数シーン追加で撮った。監督が煌輝を気にいって、急遽出演シーンを増やしたのだ。煌輝自身も撮影を楽しんでいたし、監督とプロデューサーのあとおしもあり、今の事務所にはいった。煌輝は人並み以上に外見がよかったし、それなりに有名な映画監督が口添えしてくれたのがあって、所属するのは簡単だった。


 ほぼ同じ頃に、海鈴と雷斗も事務所にはいった。タッチの差だけれど、一番はやいのは煌輝、その次が雷斗、最後が海鈴だ。ただ、雷斗は劇団からの移籍組で、それも含めれば芸歴は煌輝より長い。

 はじめて雷斗を見た時には、あまりの美少年ぶりに吃驚した。実際、煌輝はしばらく口を半開きにして、まともに思考もしていなかった。にこにこしていてしあわせそうな雷斗は、煌輝が同学年だとわかると、これ食べる? とお菓子をくれようとした。

 海鈴をはじめて見た時には、可愛い女の子だと思った。海鈴は仕立てのいい服を着ていて、ぼろっちい兎のぬいぐるみを両腕で大切そうに抱えていた。大きな目も華奢な肩も、男の子とは思えなかった。




 この事務所に所属した日で云えばほぼ同期だが、話す機会はほとんどなかった。雷斗はコンスタントに映画やドラマに出ていたし、海鈴はたまにモデルとして手芸の本に出ていて、煌輝はアクロバットを生かしていろんな現場を走りまわっていた。まだ体操クラブには通っていたし、そこからオリンピック選手が出たのもあって、未来のオリンピック選手なんて肩書きでバラエティ番組で大人と対決したり、CMに出たりしていた。

 海鈴が歌をやりたがっているらしいと知ったのは、マネージャー達が話していたからだ。当時はfrEsaができる前で、海鈴と煌輝のマネージャーは違ったけれど、お互いの担当しているタレントについて話しているのを偶然聴いた。海鈴はヴォイストレーニングに力をいれている、と聴いて、自分もヴォイストレーニングをうけたいとマネージャーに相談した。マネージャーは最初渋々だったけれど、煌輝の歌声を聴いて黙った。

 煌輝は、大概のことはやろうと思えばできた。努力してもそこそこだったのは、勉強と工作くらいだ。アクロバットは失敗しない。歌も踊りもうまい。レッスンをうけるうちに、事務所の人間の態度もかわっていった。『売れる商品』だとわかったからだ。その態度の変化がいやだという気持ちと、認められたという誇らしい気持ちと、両方あった。


 煌輝と違い、海鈴はダンスも歌も凄まじいのに、事務所の人間は持て余していた。あんまり綺麗なので、普通の役のオーディションでは軒並み落ちる。海鈴が普通の小学生だの中学生だのの役なんて、違和感しかない。

 かといって、綺麗さを生かした難役は海鈴には荷が重いか、海鈴の親の意向で出せないか、どちらかだ。海鈴は親に大切にされている。金持ちだという親に。

 同じように持て余されていたのは、笑也だ。笑也も海鈴同様、綺麗な顔をしているし、歌もダンスもできて、煌輝ほどではないがアクロバットもうまく、ミュージカルからお声がかかったこともある。

 けれど、土壇場で降板した。その理由は、煌輝は未だに知らない。知らないが、十割笑也の責任だったとは聴いている。当時稼ぎ頭だった美愛と、笑也の穴を埋めた奈多が庇い、笑也は(くび)にはならなかったが、『ドタキャンした子役』をつかいたい人間は居ない。それで、笑也はその後frEsaの結成まで、仕事をもらえなくなった。

 地道にレッスンをうけ、作曲と振り付けの勉強をし、どうやら裏方にまわるつもりだったらしい。笑也本人がいつか、云っていたが、そもそも子役になりたくてなったのではないそうだ。表に出るのは苦手だとも云っていた。

 だが、アイドルグループをつくる計画が持ち上がり、センターに美愛を据えると決まった時に、美愛が云ったのだ。笑也が居ないならやらない、と。

 それは事務所にとって迷惑、かつありがたい提案だった。笑也を持て余していたのもあるし、笑也が、美愛と海鈴両方をコントロールできる唯一のタレントだった、というのもある。

 笑也は仕事に対する意欲が見えない人間だが、おとなしいけれど強情な美愛も、神経質で時折酷い癇癪を起こす海鈴も、どちらも笑也の話なら聴く。落ち目の美愛と不思議に売れない海鈴を同時に売るには、ふたりをコントロールできる笑也は最適な人材だった。

 すでに内定していた奈多と雷斗も承諾し、笑也は美愛の願いならと笑ってうけ、海鈴は笑也が居るならとグループにはいった。それが、煌輝が子役としての仕事をほぼ失っていた頃だ。

 だが煌輝には、アクロバットと歌があった。ミュージカルからはひっぱりだこで、出演者のなかで最年少ながら主演を張ったこともある。大きなCMにだって出ていた。個人のファンクラブもあった。もう子役ではなくて、役者として認められていたのだ。

 そこまで売れていても、海鈴に対しての敬語は崩れなかった。海鈴は神々しいまでに美しく、同じ人間だとは思えなかった。

 それは幻想だったけれど、今でも美しいとは思っている。実際に、綺麗なのだから、綺麗としか云えない。




 frEsaの育成期間は二年程。煌輝が知っているのはそうだ。

 海鈴と、おもにミュージカルに出ていた奈多、笑也は、歌唱力の面で心配はなかった。雷斗と美愛は歌唱力を磨く必要があった。それに五人とも、ダンスはまだまだ未熟だった。

 ダンスのレッスンルームに突然、五人で集まるようになったのは、煌輝も覚えている。講師の激しい叱責の声も聴いた。なんでもできる海鈴と、異常に器用な笑也は免れていたけれど、後の三人はたまに酷い顔で、廊下の自販機の前に立っていた。大概、笑也が一緒に居て、ジュースをおごっている。笑也は後輩に対してもよくおごっていたが(煌輝もおごってもらったことがある)、先輩の奈多や同期の美愛にもそうしていて、驚いたものだ。

 五人で出演するミュージカルでもあるのだろうかと、事務所のタレント達は噂していた。五人の共通点と云えばそれくらいだからだ。笑也は直前になって蹴ったけれどミュージカルの話があったし、海鈴も端役で一度出ていたらしい。美愛と雷斗と奈多は主演をしたことがある。事務所主催のミュージカルの噂はあったし、それに五人で出るのではと云われていた。


 ダンスでも歌でも最高の結果を出す海鈴と笑也は、叱られていた場面は、煌輝は見たことがない。ふたりは時折廊下にあるベンチに座って、低声(こごえ)で話していた。親しげに、お互い砕けた調子でだ。笑也のようになれば海鈴と話せるだろうか、と思って、煌輝は作曲の勉強をはじめた。歌のレッスンも増やした。楽器もはじめた。

 心臓を抉られるような気持ちになったのは、ふたりが手をつないで走っていくのを見た時だ。海鈴はいつになく楽しそうに、大きな目を細めて笑っていた。笑也はいつもどおり、楽しそうに笑っていた。




 frEsaについて聴いたのは、高二の夏だ。メンバーを聴き、歌声の補強の為にはいってほしいと云われ、二つ返事で承諾した。

 海鈴と同じグループにはいれる、海鈴と近付ける、海鈴と同じ曲を歌える。それが理由だった。それ以外になにがあるだろう。憧れの海鈴。高嶺の花の海鈴。美しい海鈴。

 すでに役者として売れていた煌輝が承諾してくれると思わなかったのか、マネージャーは驚いていたけれど、frEsaを売り出す為に煌輝の歌声だけでなく名前もつかえるからか、すぐにほっとした顔になった。


 すぐにレコーディングが行われた。もうひとりの追加メンバーが月仁だというのは、そこで知った。

 三歳(みっつ)下の月仁とは、よくダンスレッスンで会っていた。色白の細面で、まっくろのさらさらした髪で、典型的な和風美人だ。

 月仁には、『女の子みたい』な海鈴や美愛と違って、生々しい『女っぽさ』があった。骨格もなにも、男なのに、ぼうっとしていると女に見える。それも、絵や写真で見る女ではなくて、生身の『女』だ。月仁にはそういう雰囲気があった。どうしてだかわからないけれど、そうなのだ。月仁には『生』の色気があった。絵空事ではない、なにか、空気を蝕むようなものが。

 芸歴も年齢もはあちらが下だけれど、不思議と馬があって、レッスン終わりに喋ることもあった。煌輝が小柄なので、月仁は自分と同い年か、歳下だと思っていたらしい。月仁はTVや映画にあまり興味がないらしく、煌輝がそれなりに人気の役者だと知らなかった。

 月仁は事務所に住んでいるみたいに、いつも居た。ダンスや歌のレッスンをうけて、研修生達とお喋りして、廊下のベンチに腰掛けて宿題をしている子、だった。

 月仁は笑也のことを知りたがり、笑也とレッスンしている四人を羨ましがった。煌輝は知っていることは話し、月仁みたいに羨ましがった。海鈴と一緒の四人を。


 そんな経緯があったから、月仁は笑也目当てではいったのかもしれないと思ったが、訊いたりはしなかった。そこまでデリカシーのない人間ではない。レコーディングが終わると月仁は痩せた胸に手を遣って、ぼんやりした目で、いそがしくなるねえ、と、子どもじみた舌ったるい喋りかたをした。




 海鈴達五人でも、歌える。だが、音の立体感がない。それが、プロデューサーのご高説だ。海鈴の音域に頼るのにも限界があるから、低い声を出せる煌輝と月仁が選出された。ほかにも候補者は居たようだが、二つ返事だったのがふたりだけだったのだ。

 歌をリリースするのははじめてだが、これまでもミュージカルで歌ってきている。煌輝は自信があった。自分がこのグループの歌をひっぱる、その気持ちで挑んだ。そうして、海鈴に認められるのだと、そんなふうに考えた。

 煌輝の自信は間違いではなくて、夏休みを利用しての地方でのデビュー記念ライブツアーは、どこも満席になった。キャンセル待ちが出る程だ。

 勿論、歌やダンスの魅力もあるが、煌輝の人気も貢献していた。煌輝がアイドルデビューすると聴いて、ファン達が駈けつけてくれたのだ。

 彼女達は煌輝のアクロバットに黄色い声をあげ、笑也と奈多のファルセットにうっとりし、雷斗のロングトーンに目をまるくし、海鈴や美愛の美しさに度肝をぬかれ、月仁の生々しい色気に打ちのめされた。公演の度にファンの数はふくれあがっていった。

 なかでも、今までどうして売れなかったのか謎のふたり、海鈴と笑也の破壊力は、尋常ではなかった。最初の公演から一週間でふたりの個人ファンクラブができ、ふたりが過去に出演したドラマやCMはまるで歴史的な遺物かなにかのように、ネットに違法アップロードされた。ファンアートも大量に、各所に投稿された。

 海鈴は嘘みたいに美しいし、笑也は嘘みたいにひとをひきつける。海鈴の歌声もダンスも頭をはなれなくなる。笑也の一挙手一投足を見ていたくなる。そういう、カリスマ性とでもいうようなものを、ふたりは持っている。


 勿論、快進撃を牽引していたのがふたりというだけで、後の五人も活躍していた。

 煌輝と奈多はアクロバットが得意で、男女ともに人気が出た。一般家庭出身で庶民的な煌輝と、銀行の頭取の息子で『貴公子』の異名をとる奈多という組み合わせもよかったのだろう。小柄な煌輝が連発するアクロバットに、大柄な奈多のゆったりとしてダイナミックなアクロバットが曲の合間々々にはさまるのは、どことなくサーカス的な要素もあり、子ども達の心も掴んでいる。

 雷斗と美愛は、可愛らしさで圧倒的に女性人気がある。美少年然とした雷斗は弟にしたい彼氏にしたいと騒がれているし、色白で華奢な美愛はお姫さまみたいと云われている。

 美愛がところかまわず笑也にくっつくのも、女性ファンの熱狂を誘った。笑也も平気で美愛を抱えたり、頬に口付けたり、ファンの感情をかきみだすようなことをする。みあえみ、と、まるでカップルみたいに扱われている。

 笑也が美愛を拒まないのは、美愛の気持ちをおもんぱかってらしいが、海鈴がそれをぼんやり見ているのに、煌輝は時折心臓が凍り付きそうになる。

 月仁には結構な数、男性ファンがついた。煌輝達程ではないがアクロバットもできるし、技のチョイスが渋い。玄人好みのダンスだとは、当時から云われていた。

 それに、月仁の生々しい色気と美しさと、明るいのにどことなく陰のある様子が、たまらなく庇護欲をそそるらしい。煌輝にはわからない気持ちだが、たまにまちなかでのロケなどやると、同年代や少し上くらいの男性ファンが、くいいるように月仁を見ていることがある。

 月仁のファンには危険分子も多かった。数回、ファンが自宅までおしかけてきたという。だから今、月仁は、事務所がかりた、セキュリティのしっかりしたマンションで暮らしている。

 そこには笑也も住んでいて、月仁は笑也と、とても『親しく』している節がある。




 心臓がずきずきしている。

 海鈴はまだ、扉を見ていた。パーマをかけた髪を右耳へかける。ぎくりと、心臓が跳ねる。笑也がしていたのと同じピアスを、海鈴もしている。金色の小さな星。さっき、笑也の左耳に光っていた。

 楽屋から奈多が出てきた。それで我に戻り、煌輝は息をする。

 奈多は小さく頭を振った。

「月仁、無理だね、今日は」

「わかった。笑也は?」

 奈多は一瞬、肩越しに楽屋を見て、顔の向きを戻した。「ああ、大丈夫。構成かえよう。煌輝、歌割り増えるけど大丈夫?」

「うん」

 頷く。海鈴は煌輝を見て、奈多を見、楽屋の扉を見る。月仁ではなく、笑也を心配しているのだろう、と思う。


 奈多はそれを見ないふりで、にこやかに云った。

「かぐや、頼りにしてるから。まりん、構成かえるからちょっと知恵をかして」

「……うん。なーくん、アクロ増やせる? つきのとこ、側宙ないとめりはりなくなっちゃうから、なーくんかかぐやがフォーリアいれてくんないかな。側宙くりかえすのはあれだし。バタフライはこの衣装だと見栄え悪そう」

「あっちで話そう」

 まだ楽屋を気にしている様子の海鈴をひっぱって、奈多は廊下を歩いて行く。煌輝も、笑也達は心配だったけれど、それについて行った。――なーくん。海鈴しか呼ばないよな。あんなふうに。




 海鈴は奈多だけ『くん』をつけてよぶ。先輩だから、といっていたが、その割には、先輩の笑也も美愛も呼び捨てだ。

 海鈴の『不安定』さを知ったのは、高校にはいってすぐくらいだった。ダンスレッスンを終えて、廊下の自販機でスポーツドリンクを買っていたら、別のレッスンルームから海鈴が飛び出してきた。彼は、うずくまったかと思ったら号泣しだした。

 それを宥めたのは、同じ部屋から出てきた奈多だった。大声で泣き続ける海鈴を抱えて、どこかへ行った。

 そういう場面はそれからfrEsaにはいるまでに、二回見た。二回目は、宥めるのは笑也だった。三回目は奈多。どこへ行っているのか、なにをしているのか知らないけれど、しばらくすると泣きやんだ海鈴が戻ってくる。泣いたことなんてなかったみたいに、あっけらかんとして、講師に謝り、レッスンを続ける。


 海鈴の感情の起伏には、おそろしいものがあった。普段は凪のように穏やかで、いつでも機嫌よくにこにこしているのに、なにかが『きれる』と手がつけられなくなる。話のできるような状態ではないくらい、泣く。咽を絞って、死んでしまいそうに泣く。本当に心臓が停まるのではないかと心配になるくらいの声を出す。

 でも、笑也と奈多は、それを宥めることができた。

 海鈴がどうしてそんなふうになるのか、煌輝は知らない。奈多も笑也も教えてはくれなかった。ただ、海鈴が発作みたいに泣きはじめたら、ふたりのどちらかが宥める。それが、frEsaの……というか、この事務所での決まりだった。研修生達は海鈴が荒れるのを、大時化と云って、笑い話にしようとしていた。そうでもしないとおそろしいからだろう。海鈴の泣きかたは、恐怖を感じる類いのものだ。

 海鈴は、突然発作的に泣くのを除けば、『いい子』だ。レッスンは真面目にうけるし、良識もある。事務所の人間に対して強く出ようと思えばできるのにしない。ただ、なにかのきっかけでスウィッチがはいると、だめだった。身も世もなく泣き叫んで、暴れて、怪我をしそうになる。自分で自分を傷付けようとすることもある。

 奈多と笑也が居るから、海鈴は怪我をしない。それを知ったのは、frEsaにはいってからだ。ふたりがどうやって海鈴を宥めているのかも、その後、なんとなくわかった。

 海鈴が喚いているのが、耳にこびりついてる。どうして誰も俺のことを好きになってくれないの、と。――どうして誰も、愛してくれないの。




 あんなに人気でも、事務所の仲間に慕われていても、メンバーが居ても、海鈴は満足できないらしい。底の破れた器みたいに、愛情を注いでも注いでも、彼はいっぱいにならない。いつまでもどこまでも愛を求めて、時折それが爆発する。

 地方遠征の時、海鈴を起こしに行って、奈多にべったりくっついて寝ているのを見てしまった。形のいい脚が奈多の体に絡みついていて、心臓が停まるかと思った。次の日には笑也を部屋へひっぱりこんでいるのを見て、察した。

 海鈴はどこかしら壊れている。理由はわからないけれど、愛情に飢えていて、それを『行為』で示してほしいと思っている。でないと泣き叫んで、喚いて、自分を傷付けようとする。淋しくてたまらなくなって、消えてしまいたいと嘆く。

 奈多と笑也の気持ちはわからなかった。

 奈多はおそらく、なにか義務的なものと捉えているのではないだろうか。海鈴が死なないようにしている処置、治療的ななにかだと。

 海鈴はそれをわかっているのかもしれない。だからもっと、本当の愛情がほしくて、奈多には殊更優しい声を出す。なーくん、なーくん、と、後をついてまわって、しがみついて甘える。奈多がそれをどう捉えているのか、それは考えてもわからない。愛情はあるのだろう。それが、一般的になんという感情なのかはともかく、奈多は海鈴を大切に扱っている。死なないように。これ以上壊れないように。


 笑也の気持ちはもっとわからない。笑也自体が、得体の知れないやつだと、煌輝は思っている。

 悪いやつだとは思わない。笑也は圧倒的に、いいやつだ。裏返しても逆さにして振っても半分に切っても、笑也から悪意がこぼれることは()()()ない。あいつが怒ったことってあっただろうかと思うくらい、穏やかで、『できた』人間だ。

 笑也もどこか壊れているのだろうか。海鈴に平気で愛をささやくのに、美愛ともそうしている。それに、雷斗や月仁も怪しかった。笑也を見る目が、笑也へ触れる手付きが、ほかとは違う。

 笑也が優しく、箍が外れたみたいに『善良な』人間でなかったら、精神安定剤みたいにみんなを落ち着かせてくれる頼れる兄貴でなかったら、煌輝は笑也と喧嘩していたかもしれない。海鈴に手を出すな、とでも。そんな権利があるのかは知らないが。





 結局海鈴に逆らえないだけかもしれない。海鈴に逆らうのは不可能だ。あれだけぬけなかった敬語も、辞めて、といわれて、煌輝はすぐに辞めた。

 先にスタッフと話していた美愛が合流し、雷斗もやってきて、月仁を外した構成を考える。すぐに笑也もやってきた。美愛が優しく云う。

「つきちゃん、どうだった?」

「ああ。マネージャーが、家まで送るって」

「そ」

 美愛は目を逸らし、ちょっと笑う。「笑也、わるいこと教えちゃだめだよ」

「教えてないよ。俺いい子だよ?」

 笑也は笑い含みに、平然と答えた。雷斗と海鈴が一瞬目を交わす。奈多が咳払いする。


 フォーメーションとアクロバットを変更したことをスタッフへ告げ、六人は出番を待った。海鈴と美愛と奈多が冷静に構成をかえ、笑也が歌割りをやりなおしてくれたので、失敗はしなかった。

 出番が終わると、ネットでの宣伝用のインタヴューをうけ、六人はTV局をあとにした。雑誌の取材がある海鈴、美愛、奈多が、事務所の車にのりこんで移動していく。雷斗がちょっと目を伏せ、笑也になにかささやいた。笑也は笑顔で頷いている。

「笑也」

 呼びかけると、彼は振り向いた。笑也にまっすぐ見られると、ぎくりとすることがある。笑也の目は特別だった。ありきたりな焦げ茶色の目なのに、()()()が違う。深い井戸の底を覗くみたいな心地になる。

 笑也を見ているのではなくて、自分自身を見つめているみたいな錯覚も起こった。自分のいやなところを見詰めないといけないような、そんな、妙な妄想。


 笑也は数歩、近付いてきた。煌輝は小柄で、笑也に近寄られると仰がざるを得ない。

「なに? かぐや」

 まだ『アイドル』モードらしい。当たり前みたいにあだ名で呼んで、笑也は微笑む。顔の造作は女っぽかった。よく見ると女の子みたい、とファンが云うけれど、よく見なくてもそうだ。ただ、笑也は男っぽい、がっしりした体格があるから、なかなか気付かない。まあるくて大きな目も、柔らかそうな唇も、ふっくらした頬も、女のものでもおかしくないというのに。

「この後時間ある?」

 出した声が少し震える。笑也は微笑みのまま、雷斗を振り返る。雷斗が自分を見ているのがわかった。見ている、というよりも、かすかに睨んでいる。たしか、雷斗と笑也はこの後、夜遅くまでなにも予定はない。遅くにふたりで、ネット用の動画を撮ると聴いていた。次のアルバムに、笑也と雷斗のデュエット曲があるのだが、その宣伝用に。煌輝もあいていた。明日の朝まで。

 笑也の手が肩に置かれた。甘ったるい声がする。「あるよ。ご飯行く? かぐや」

 体の芯がぶるぶる震えるみたいな、変な感じがした。煌輝は頭を振る。

「ちょっと、話したいことがあって」

 笑也の表情が、少し()()()()。形のいい唇が動く。甘ったるい低声(こごえ)。「月仁のこと?」

 もう一度頭を振る。

 目が合って、逸らしたくなったけれど我慢した。笑也はまた、にこにこして、頷いた。

「いいよ。でも俺、おなかすいてるから、ご飯食べながらね」

 ささやきが甘ったるい。笑也は煌輝の頭を、軽く撫でる。染めたばかりの髪を、指先でくるくると、いじる。「煌輝、なに食べたい? おごるよ。それとも、俺のつくったもの、食べたい?」

 ざわざわする。心臓が擽ったい。

 雷斗のつめたい目が、笑也の向こうに見えた。






 これは()だ。なにかしらの。

 そんなふうに考えていた。タクシーにのって、笑也が隣に居て、その匂いがする。少しだけスパイシーな香り。ローズマリーとナットメグと、りんごを合わせたような香り。笑也は笑い含みに、免許もってなくてごめん、と云っていた。笑也にはおかしなところが沢山あるが、資格の類いを避けて通っているように見えるのもそれだ。

 肌がむずむずして、腕をさすった。笑也の甘ったるい声がする。「だいじょぶ? 運転手さん、冷房、ちょっとゆるめてもらえますか」

 そういう問題ではなかった。なにかわからないけれど、笑也からは()()()が放散している。そんな妄想が頭のなかでぐるぐるしている。虫にたかられたみたいな気持ちの悪さと、笑也にもっと近付きたいというよくわからない衝動とが、せめぎあっている。

「煌輝」

 耳元で笑也がそう云った。びくっと、全身震えた。笑也の声は甘ったるく、信じられないくらいに密やかで、心臓をさわさわと撫でた。「こわい顔すんなよ。とって喰ったりしないから」

 感情という感情が暴れている。笑也とずっとふたりで居るのは()()なことだと、本能的にわかった。なにかがおかしくなる。なにかが狂う。

 顔を向ける。鼻と鼻がぶつかった。笑也はくすくすしている。

 口を開いたら、笑也の手がすっと出てきて、塞がれた。

「あとで」

 云いながら、前方へ目を向ける。「運転手さん、ここまででいいっす」


 タクシーを降りて、ふわふわする脚で歩く。笑也は莫迦みたいに楽しそうだ。にこにこして、スキップみたいにすすんで、戻る。煌輝を見て、乱杙歯を覗かせて笑う。矯正しようとしない歯は、けれどとても綺麗に手入れされている。月仁が変なことを云っていたっけ。えみやが矯正しなかったらいい、と。

 笑也の手が伸びてきて、腕をとられた。心臓がふわっとうくような感覚がある。「静かに話せるとこにしようか」

 笑也はいつもより低い声で云い、綺麗に笑った。いつもいつも、嘘みたいに綺麗な笑顔をしている。




 笑也は店を予約していたらしい。レストランの個室に通され、煌輝はぎくしゃくと椅子へかけた。笑也は向かいに座り、頬杖をつく。なにが楽しいのか、笑也は名前を体現するみたいに、大概いつでも笑っている。今もそうだ。

 がらす壜にはいった炭酸水と、グラスが運ばれてきた。笑也はメニューを見もしない。「オムライスで。あ、ケチャップのです」

 いやにしゃれたレストランでオムライスというのは変な感じがしたが、笑也らしいかもしれない。笑也はハンバーグだの、オムライスだの、グラタンだの、子どもみたいな食べものが好きだ。それに甘い炭酸飲料をあわせて飲むのが、よく見る笑也の食事だった。高級なものも、大人っぽいものも、彼は好まない。

「同じので」

 そう云うと、店員は丁寧なお辞儀をしてさがった。


 笑也と目が合う。

 口を開くけれど、うまく喋れなかった。

「海鈴のこと?」

 ぎゅっと、胃が絞られたみたいな心地がする。

 笑也は頬杖をついて、微笑んでいる。炭酸水をグラスに注ぎ、ひと口飲んだ。睫を震わせて瞬く。綺麗な顔だ、と思う。それは否定できない。笑也は綺麗だ。綺麗だけれど、危ない。のめりこんだら大変なことになる。それだけはわかる。

「つきのことじゃないのなら、そうだろうなって思ったんだけど。違う?」

 笑也がそんなふうに喋ると、なにかがおかしくなっていく気がする。ねじがゆるんでいくというか、歯車がかみあわなくなっていくというか。

 かすかに跳ね上がる語尾が、なにかを狂わせる。


「そうだよ」

 声が震えている。威厳なんてない。そもそも、なにに立ち向かおうとしているのだろう。笑也がやっていることを責める権利はない。それならまず、笑也と奈多をとっかえひっかえしている海鈴こそ責めるべきだ。

 ()()、海鈴があんなことをしているのか、()()()()海鈴が笑也や、奈多に依存するのか、それがわかれば。

 そもそも、どうして、あんなにも愛に飢えているのか、それがわかれば。

「笑也」

「うん」

「……海鈴は、どうして……」

 言葉が出てこない。口にしたくない。その『行為』を。

 笑也はにこにこしている。ずっと。なにもかもがとても楽しくてたまらない、面白くてたまらないとでも云うように。

「どうして、俺と寝るのか?」

 耳鳴りがしてきた。うわんうわんと。

 笑也は笑みを崩さない。

「まあ、奈多とも寝てるけどさ、あいつ」

 呼吸が停まった。

 笑也はなんでもないみたいに続ける。

「そんなの、どうでもいいじゃん。息すんのとかわんないよ」


 煌輝は喘いでいる。息が苦しくて。

「誰かと一緒に居たいのなんて、普通だろ。煌輝だって、誰かと一緒に居たい時、あるんじゃないの?」


 笑也はどうして、ずっと嬉しそうなんだろう。

「お前、それくらいのことで海鈴のことケーベツするとか、云わないよな?」


 それこそ、軽蔑したような、或いは茶化すような口調に、煌輝は頭を振った。そうしながら、目にたまった涙がこぼれるのを感じる。

 笑也は絵みたいだった。頬杖をして、にっこり笑っている。おかしな絵だ。頬杖は、憂鬱の表現で……。

「それで、なに? 俺達に注意でもする?」

「ちがう」

「じゃ、なに」

「海鈴はどうして」

 息が詰まる。

 笑也は嬉しそうに見える。

「そんなの、ご当人に訊けよ」

 嬉しそうに、突き放したようなことを云う。






 オムライスはたまごがふわふわしていて、グリーンピースが沢山はいっていた。笑也はにこにこしている。

「グリーンピースのはいってないチキンライスなんて、チキンライスじゃないよな」

 煌輝は黙って、たまごをつついている。目を伏せて、下を向いて、笑也の顔を見ないようにして。


「なあ」

 ひっぱられたみたいに、顔を向けてしまう。

 笑也の口許だけ見た。綺麗な唇。綺麗な。

「今夜、どうするの、煌輝」

 今夜。




 心臓がねじれたみたいな気がした。

 笑也がなにを云っているのか、わかったけれど、返答はしない。それで、笑也にはわかったようだ。煌輝にはその気がないと。

 それとも、はじめからわかっていたんだろうか。

「そ」笑也は炭酸水を、グラスへ継ぎ足す。「残念」

 煌輝は口をぱくつかせる。なにか云いたかったのに、なにも云えない。


 笑也は水を飲んで、ふふっと笑った。

「海鈴のこと好きなら、そう云ったらいいよ」

 目に涙がたまっていく。どうしてだか。

「あいつだって、莫迦じゃねぇんだから」











 雑誌の取材がどこであるかは聴いていた。オムライスは味がしなかった。笑也の声と、匂いで、なにかがねじれたみたいだった。ねじれて、歪んで、狂っていく。笑也は()()()()人間だ。それは知っていた。知っていたけれど、自分がまきこまれると思わなかった。自分がそんなふうになるとは。

 ケータイに雷斗から、メッセージがはいっていた。月仁は結局、マネージャーが病院へつれていったそうだ。点滴をされて眠っているらしい。耳に不調があるそうで、それの治療も今後、しないといけない。

「かぐや?」

 奈多の声がした。ケータイから目を逸らし、顔を上げる。奈多と海鈴が居た。美愛はもう帰ったんだろうか。


 海鈴と目が合った。

 海鈴は()()だった。煌輝にとって、全部だった。人生のすべて。どうしても手にいれたいもの。ほしくてたまらないもの。どうしても。

 笑也の云うことは的外れだった。海鈴を軽蔑なんてしない。笑也と奈多に嫉妬している。どんな理由でも、海鈴と親密な時間を過ごせる人間に、ほとんど殺意を抱いている。邪魔だと思っている。それなのに大切な仲間で、友人でもあるから、その状況が苦しい。居なくなってほしいひと達が、居なくなったらいやなひと達だから、苦しい。

 海鈴は微笑む。ほかの誰とも違う。綺麗な顔だ。とても綺麗な顔だ。

 マネージャーも居た。奈多が短く、ここでいいです、と、送迎を断っている。

 海鈴がとたとたと、駈け寄ってきた。うすでの上着は天女の羽衣みたいだ。「海鈴」

 まるくて大きな黒い瞳が、こちらを覗きこむようにした。

「なあに?」

 海鈴はにこっとしたけれど、その表情が、かすかに()()()

「笑也とごはん?」

 優しい声音だった。感情は読めない。

 目を合わせる。

 海鈴の肌が、滑らかな、食べたらおいしそうな肌が、目の前にある。

「海鈴」声が震える。酷く震える。「今夜、一緒に居てほしい」

 ただ欲望の為に、自分の利益、自分の感情を優先して、海鈴を愛していると思い込んでいる自分のほうが害悪かもしれない。ただ、海鈴をまもろうとしているだけの笑也と奈多のほうが、余程、善良なのかも。


 掠れた小さな声に、海鈴は表情をなくして、数秒黙った。

 それから奈多を振り返り、軽く手を振る。甘えるような声を出す。「なーくん、ごめん。かぐやが送ってくれるって」

 奈多は愁いを含んだ目で煌輝を見、ふっと、本物の笑みをうかべた。そうして、よかったね、と云った。それが海鈴に対してか、自分に対してか、煌輝にはわからない。

 海鈴はこちらを向いた。やわらかくて、静かな声を出す。

「お願い、聴いてくれたもんね、煌輝」




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