月の子
※虐待描写・未成年の飲酒喫煙描写・犯罪描写があります。苦手なかたは読まないでください
「何時からだっけ? リハ」
そう訊いてから、月仁は傍らに横たわる青年を見た。
ゆらゆらと紫煙が、天井へとのぼっていく。どこかで空調の風にやられるようで、天井に辿り着く前にそれは消えた。
月仁は左手の人差し指と中指ではさんだ煙草を、ベッドサイドテーブルに置いた灰皿の上で軽く振る。灰が落ちたそれを、また口へ運ぶ。
焦げたような匂いに、甘い香りに、かすかに吐き気を催すような臭気がまざっている。こんなものなにがいいのだろうと思う時もある。それでも、気付くとくわえているのだから、中毒にでもなっているのだろう。どうでもいいことだけれど、と、月仁は思いきり煙を吸い込んで、にんまり笑う。
「あと二時間」
もう一度、目を向けた。同じベッドの上で、月仁が片脚をつっこんでいるブランケットにくるまっている笑也は、甘ったるい声を出す。「つき、眉間」
月仁を見、微笑みをうかべる。まるい目が細くなって、びっしり生えた長い睫が、乏しい照明の光を、先程までとは違う方向へと弾く。
それにしてもどうしてこいつはこんなに綺麗なんだろう、と不思議になる時がある。今がそうだ。外国の、大理石でできた古くてまっしろい彫刻みたいな、甘ったるい顔。男だけれど、女みたいにも見える甘ったるい顔。ふっくらした頬とまるくて大きな目。でも、男っぽい眉と、がっしりした輪郭と、角張った額で、男だと思い出す。癖の強い髪と、日に焼けたような浅黒い肌で、生きている人間だと思い出す。
月仁は煙草をくわえ、両手で前髪をかきあげた。眉間へ触れる。――皺が寄ってるよ、と、このところよく笑也に指摘される。美人が台無しだよと。
触ってわかるくらい、そこには力がこもっていた。月仁は一度目を閉じて、成る丈力をぬいてから目を開ける。ベッドから落ちたぬいぐるみが見える。日に焼けてしまった、ピンク色のふわふわした塊。
笑也が上体を起こした。たくましい腕が、月仁を抱き寄せる。「あ」ひょいと、煙草を奪われた。彼はそれを灰皿へおしつけ、火を消してしまって、にっこりする。唇から覗いた歯は、てんでんばらばらの生えかただ。矯正しないのか一度訊いたことはあるけれど、笑也は笑って答えなかった。今では、矯正しないでくれと思っている。小さくて真珠みたいなあの歯に、甘く嚙まれるのは、いい気分だから。
口を尖らせ、笑也の首に腕をまわす。彼のむきだしの首を触れるのはとてもいい気分だった。笑也は今は俺の。今は、俺だけの。
「まだ吸えたのに」
「よくないよ、つき」
甘ったるい、ブランデーをしみこませた角砂糖みたいな声だ。あまり滑らかではない、少しひっかかるような、甘い甘い声。
笑也は月仁を更に抱き寄せ、耳許で云う。「匂いがついたら、ばれるからさ」
二重の意味だなとわかったけれど、月仁はなにも云わなかった。笑也に口付けられたら、そんなことどうでもよくなる。
frEsaという男性アイドルグループに、月仁は所属している。それなりの大きさの事務所で、デビューして五年目。メンバーは全部で七人。
最初は五人だった。人数に合わせて五文字のグループ名にしようという社長の案と、内定していた中心メンバーが苺好きだったからこの名前になった、そうだ。
表向きには、なにかの単語の頭文字がどうのこうの、と小難しい理由付けがされているが、月仁は笑也からそのエピソードを聴いている。笑也が嘘を付く必要もないし、事実なのだろう。
デビュー直前、本当の本当にぎりぎりになって、研修生だった月仁と、すでに人気だったもうひとりが加わった。突然の話に、すぐに返事をしたのがふたりだったのだ。返事を濁した子達は機会を逃した。でも、ふたり分の文字が追加される気配は終ぞない。
ライブは毎年、気が遠くなるような回数こなしている。楽曲のデジタル配信・サブスクの再生回数も好調だし、アルバムも毎年一枚は出していて、売り上げは悪くない。このところTV出演も増えてきた。
特に、メンバーの雷斗と奈多の活躍は、最近めざましい。放送時間は随分遅いけれど、ドラマの主演が決まったのだ。
もうひとり、苺好きの美愛も、コンスタントにドラマや映画、舞台にミュージカルにと、出演している。大人になってからは主演こそしていないけれど、俳優としてはそれなりに評価されていて、さいわいにも『アイドル俳優』のそしりはうけていない。誰も。
というか、そもそも彼らは子役で、それぞれが劇団やなにかを経由して事務所に来ている。雷斗と奈多は移籍してからもコンスタントに売れていたが、子役としてはそろそろ限界だった。子役としてはまったく売れていなかったふたりと、二年ほど事務所の稼ぎ頭だったがそのあと急激に仕事がなくなった美愛と組ませて鍛えればなんとかなるのでは、という事務所の意向でグループが結成され、数年の『修行』の後にデビューした。
もともと月仁は、芸能界に興味はなかった。たまたまスカウトされて、特に断る理由もなかったから事務所にはいって、無料だしご飯もあるし時間つぶしにぴったりだから、ダンスや歌のトレーニングも楽しんだ。
ほかのことを考えなくてもいいからそれに熱中して、同世代の友達もなんとなくできて、いつの間にかいい評価を得ていた。歌唱面で弱かった五人を補強する為のメンバーが、月仁ともうひとりだった。それを、数秒で承知したのが。
断るのは面倒だし、学校や家から逃げていられる時間が増えるのが魅力的で、月仁はふたつ返事でfrEsaにはいった。統括マネージャーから話をされて、是非、と返したら終わっていた。
返事した次の日にはレコーディングして、あっという間に地方遠征につれていかれた。デビュー記念に、各地でライブをしたのだ。夏休みだったから、月仁はずっと仕事をしていた。家になんて戻っても、なにもないのだから。
実際のところ、家に月仁の居場所はなかった。なにかと理由をつけて戻ってこない父と、失った子どものことを嘆いては月仁にあたる母。どちらも、月仁にとっては居ないようなものだ。
いやがらせのようにリビングにつくられた、もう細かなことは覚えていやしない死んだ妹の祭壇、主も居ないのに用意されている妹の部屋、その内部にある女の子が喜びそうなベッドやおもちゃや学習机やおびただしい服と靴。淡い色合いのランドセル。
それらすべてを目にいれたくないし、近くに居るだけで息が詰まる。自分と似ても似つかない、たった五歳で死んだ妹の写真は、月仁にとってはおぞましいものだった。思い出したくはない。思い出してなんになるというのだろう。莫迦な両親。あんな小さな子に無駄な負担をかけて。
体よく祖父母の家へ追い払われていた自分が死ななかったのは、両親にとっては残念だったのだろうと月仁は思っている。特に母にとってはそれは、なにかしらの罰を与えないとならない行為らしかった。それも何故か、罰せられるのは月仁だ。だって、愛する娘が死んだのに、出来損ないの息子はのうのうと生きている。
父母から愛情を感じたことは一度もない。彼らの興味は常に妹にあった。月仁が生まれたのは間違いだった。両親からひと欠片も愛されないのだから。
家でまともな食事を食べた記憶もない。ご飯をくれるのは祖父母だった。月に二日くらい、なにかの理由で月仁は祖父母に預けられ、そこで風呂にはいったり、栄養をとったりした。家では食事をもらえないから学校に行っていた。それ以外の理由で学校になんて近寄りたくなかった。綺麗な格好をしているほうがめずらしい月仁はからかいの的だったし、同級生達よりも小さくて、抵抗しても無駄だった。
妹が死んでから、父は家に居着かなくなったし、母は毎日のように月仁を『いじめ』た。怒鳴ったり、殴ったり、蹴ったり、酒をぶっかけられたり。何故なのかわからないけれど、最初は泣いていた月仁も次第に慣れ、最近では母に罵られても涙もわかない。ただ嫌悪している。それに遺伝というものをおそろしいと思っている。自分をひたすらに否定し、妹ではなくてお前が死ねばよかったと呪いの言葉をはいてくる相手に、どんどん似てきていることに、おびえている。
月仁の母は美人だった。今はそうでもない。十年以上もひたすら娘の死を嘆き、息子を罵って生きている人間だ。容色は衰えている。おそらく、その年代の普通よりも、もっとずっと老けて見えるし、場合によってはばけものにさえ思える。
でも、若い頃の母はたしかに美しい。切れ長の目は涼しく、完璧な眉と鼻を持っていて、主張しすぎない幸福そうな唇で、すっきりとした輪郭で、細くてさらさらした黒髪で。痩せ型だけれど貧相な感じはしない、福々しい女だったのに、なにをどう間違ったらああまで歪むのだろうか。
月仁は自分が母に似ていると自覚している。実際、写真を撮られると、ぎくりとすることさえあった。身長体格は違うが、顔はほとんど同じなのだ。月仁は男らしいしっかりとした輪郭をしているし、眉は目と近い位置にあるけれど、それでも、ぼんやり見ていれば同一人物と勘違いするくらいには、母と似ている。
自分もいずれああなるのかと思うと、母の姿を見るのは苦痛でしかない。月仁は自分の外見を、それなりに気にいっていた。実際に美しいからだ。自分の顔が美しいことはわかっている。いやな目にも遭ってきた。ファンに綺麗だ美人だと賞賛されることもあった。今美しい自分が、将来どうなるかを見せられるのは、いい気分ではない。
だから月仁は学校へ逃げていたし、そこよりも楽しくて腹を充たせていやなやつの少ない事務所のレッスンルームに入り浸ったし、今も仕事に逃げている。それについて、十歳前後から、月仁の態度は一貫していた。
今や、実家に帰るのは年に数度だけ。戻らないと母がおしかけてくる、妹の命日と、誕生日。それと、ほしいものを父からくすねる時。それが、月仁が実家へ戻る動機だった。面倒な母を黙らせる手段。もう憎しみさえない、なんの感情も抱けない父から盗む為。
普段は事務所がかりたマンションですごしている。ファンが家までおしかけてきたのがあって、それを持ち出して経験の浅いマネージャーに直談判すれば、これくらいはなんでもなかった。
事務所がかりたマンションに住むのは、いやな家に戻らなくていい以外に、もっとずっと素敵なご褒美もついてくる。ふたつ隣の部屋に笑也が居るから、こうして会える。
笑也はfrEsaの初期からのメンバーだ。芸歴は美愛と同じで、グループで二番目に長い。二十四歳で、メンバーのなかで一番演技の仕事がない。子役の頃にも大人になってからも、一・二度、端役でドラマと映画に出たくらい。笑也はグループでは作曲を半分程、それにダンスの振り付けは三分の二くらい担当している。笑也が居ないと、frEsaは成り立たない。
以前ぽろりとこぼしたけれど、彼はそもそも、子役志望でもなかったらしい。裏方仕事が好きなのだ。だから作曲や振り付けは率先してするし、ライブや音楽番組には意欲的だけれど、それ以外には腰が重い。雑誌も、グループ単位かメンバーとでなければ、取材をうけない。何故子役をしていたのか訊いたことはあったが、芳しい返答はなかった。
月仁は騒がしい場所が好きだった。母に怒鳴られるのとは質が違う。にぎやかで、元気なひとばかりで、嘘っぱちの世界が好きなのだ。だから、マネージャーに云われればどんな仕事でもした。ひとが沢山居て、気が紛れるところに居られるのなら、なんでもよかった。
だからどんな仕事でも、大概やった。音楽番組、ドラマ、映画、バラエティ、モデル。その間、いやなことは考えなくてすむ。バラエティ番組から沢山お声がかかって、レギュラーも獲れて、メンバー内でメディア露出でいえば一番かもしれない。それが、逃避行動故なんて、笑也しか知らない。
笑也はたったひとりで、月仁の気持ちを解してくれる。
大勢の人間も、ぎらぎらした照明も、ほこりっぽい人工的な匂いのする空気も、耳の痛くなるような音楽も、きらびやかな衣装も、カメラのストロボも、大観衆も要らない。笑也が居れば、その全部よりももっとずっと効果がある。笑也に抱かれていたらそれでよかった。
彼の体温と、鼓動を感じる。呼吸がわかる。甘ったるい声が、誉めてくれる、慰めてくれる、愛をささやいてくれる。それだけでいい。それがいい。笑也にしがみついて、甘ったれたことを云って、頭を撫でてもらうと、自分がまともになった気がする。
笑也は月仁を否定しなかった。月仁の全部を肯定してくれた。全部を受け容れてくれた。
父も母も、酒と煙草を楽しむ家庭だったから、手を出すのにはあまり抵抗がなかった。父から煙草をくすねても、なにも云われない。食事を世話しようという気はないのに、煙草を奪われてもなんとも思わないのは不思議だけれど、ある種これは罰なのかもしれないとも思う。息子が煙草を吸って、寿命を縮めるのを、喜んでいるのかもしれない。だから盗みにも目を瞑っているのかも。
自分で買うのは抵抗があった。これでも、それなりに人気のあるアイドルだ。喫煙はイメージが悪いと、会社からは禁じられている。特に、月仁ともうひとりは、未だにグループの歌唱の骨組み部分を担当している。声や肺活量に影響のある行動は控えろとは云われていた。
だから、吸うのも家でだけ。マネージャーにもばれていない。笑也が居れば量をおさえられたから。
でもメンバーの何人かは知っている。
だから、笑也はああ云った。匂いが付いたらばれると。それは、メンバーに対してだ。
笑也とこうして過ごすようになったのは、一年くらい前からだった。男同士だとかそういうのは関係ない。気にならない。
笑也が必要だった。笑也の声と、優しい言葉と、ぬくもりと鼓動。それがないと死んでしまいそうだった。仕事やレッスンで会うだけでは、絶対的に足りなかった。
だから、かわりに自分が与えられるものをさしだした。それだけのことだ。
笑也は前から、月仁を綺麗だ美人だと誉めてくれていたし、彼が男を恋愛対象にしているのは知っていた。ふざけてキスしたこともあった。遠征で同じ部屋になった時に、同じベッドで寝てもいいか訊いたら、笑也はにっこりしてくれた。月仁の云いたいことをわかってくれた。
笑也は月仁がほしがった以上のものをくれた。蕩けて、正体のなくなるまで溶けてしまうみたいな、甘ったるくて素敵な夜だった。
それから月仁は以前よりももっと、笑也にのめりこんだ。隣の隣の部屋に彼が居るのは、いいことで、悪いことだった。足が向いて、惨めな思いをして帰ることもある。彼の腕に抱かれて、安心して眠ることもある。今みたいに、彼が月仁の部屋へ来ることもあった。
笑也がこうして同じベッドにはいるのは、月仁だけではなかった。彼には相手が居る。同い年で、芸歴も同じで、同じグループになる前からずっと親しくしていた、美愛が。
匂いでばれる、とは、美愛に対してだ。彼が一番愛している美愛。frEsaのお姫さま。事務所の人間も逆らえない権力を持っているふたりのうちひとり。
美愛がお姫さまなのは事務所でも、グループでもかわらなかった。笑也がずっと傍で美愛を支えているのも、みんなが知っている。
美愛以外の誰かにも、ばれたくないのかもしれない。沢山居る彼のお友達、お互い部屋に這入って、『親密に過ごす』相手。
月仁は莫迦ではない。笑也が自分以外にも浮気相手を持っているのは、わかっていた。わかりきっていた。香水や、化粧品の香りで、複数マーキングされている。それの持ち主が誰かも知っている。自分の煙草のにおいもそこにまざっていて、浮気相手達がいらだっているのだろうかと考えると、少しだけ気分が和らいだ。
美愛はなんにも気にしていない。浮気なんてないみたいに、笑也と笑い合って、月仁に見られるのも気にしないで、ふざけたみたいに口付けを交わす。ライブの時だってなにも気にしないで、笑也と手をつないだり、抱き合ったりしている。
笑也、ちょうだい、と、面と向かって云ったこともあるが、美愛は笑い飛ばした。笑い飛ばして、とれるもんならとってみたら? と、微笑んだだけだ。細面の、とても綺麗な顔で。
美愛も笑也も、どこか箍が外れたようなところがある。なにかが欠けている。大事なものが欠けてるんだよと云ったのは美愛自身だ。また、微笑みながら。
美愛は笑也がどれだけ浮気しても平然としているし、笑也は浮気を隠そうとしているような言動だけれど、実際にはほとんどなにもしていない。でも、ふたりが喧嘩をするのは一度も見たことがない。それどころか、いいあらそいさえしたことがない。少なくとも、メンバーの前では。そもそも、笑也が声を荒らげるのは、月仁は見たことがなかった。
美愛がそうしたのは、二度だけ見たことがある。どちらもライブの演出の不手際に対してで、一度目は会場側のミスで笑也が舞台から落ちた時、二度目は一年後の同じ会場で、月仁と雷斗に照明機材が倒れてきた時だ。美愛は自分のことではなにがあっても怒らない。暗転した時にステージから落ちて、骨を折った時にも、自分の不手際だと云うだけだった。八つ当たりさえしない。
美愛が笑也を捨ててくれたらいいのに、と、このところ考える。そうじゃないと、俺のものにならない。俺には笑也が必要なのに。笑也の全部がほしいのに。
シャワーを浴びて、香水をふりかけて、香料のきついのど飴を口へ含んで、煙草の匂いをごまかした。すうっとする香りに、鏡を覗きこんだ月仁は、ちょっと笑う。これのほうが煙草を吸っているのがばれそうだ。
玄関へ行くと、支度をすませた笑也が、傍らに月仁の鞄を置いて靴を履いている。背後から近付いていって、両肩に手を置いた。栄養不足の所為か背が伸びきらなかった、平均よりは小柄な月仁と違い、笑也は平均より少し背が高く、がっちりしている。月仁が体重をかけても、なんともない。ダンスの構成上、彼が土台や足場になることも多々ある、しっかりした体だ。
殺してしまったら俺のものになるかな。
「つき?」
甘ったるい声に、月仁は彼に負ぶさるようにした。目を合わせる。にっこりして、唇と唇を重ねる。
飴をおしこんだ。
はなれる。
笑也は子どもみたいな、あけすけな笑みになった。「薄荷。好きなの、覚えててくれたんだ。ありがと、つき」
どうにかして笑也を手にいれたいと、もう一度強く思う。そんなの無理なのに。美愛が居る限り、絶対に、できないのに。
笑也が居ないとどうにかなりそうになる。傍に居て、笑っていてほしい。甘ったるい声でささやいてほしい。内容はなんでもよかった。笑也に否定されることは想像できない。彼がひとを罵るのは聴いたことがない。だからきっと、彼の好きな笑い話か、月仁を讃える言葉か、愛をささやくか、どれかだろう。
笑也は名前の通り、笑い話が好きだった。くだらなくて、でも面白い話を、ダンスレッスンの合間によくしていた。ほとんど思い出せないけれど、その時はたしかに面白くて、楽しくて、月仁はころころ笑った。笑也はメンバーが笑うのを聴くと、しあわせそうに微笑む。まるで命が助かったみたいに、ほっとした顔をすることもある。
彼は自分よりも他人を優先するところがある。デビューしたての頃、イベントに参加して屈辱的な扱いをうけた時もそうだった。たかがアイドル、顔で女を騙くらかしている連中。はっきりとではないが、そんなふうに云われた。自分達の歌も、ダンススキルも、なにも見てくれずに。
彼以外のメンバーは楽屋で帰り支度をしながら泣くか、お葬式みたいな顔をしていたけれど、笑也だけは違った。近くに公園あるから行こうぜ、と、六人を強引にそこへつれていって、拾った缶で缶蹴りをした。
お育ちのいい奈多や海鈴は缶蹴りをしたことがないと戸惑って泣くのを忘れ、元気な煌輝は体を動かせるのが嬉しいようでひたすら走りまわっていた。美愛はにこにこしながら(さっきまで自分も泣きそうな顔をしていたのに、笑也と話していたらいつもみたいに穏やかな顔に戻った)、ケータイで撮影していた。動画サイトに投稿する為だ。雷斗も月仁も笑っていた。屈辱なんてなかったみたいに。
笑也にはそういうところがあった。自分よりも他人を優先して、尚且つ、ひとの気持ちを解すことができる。それが彼の性質なのか、彼にそういう技術があるからなのかは、月仁には判断つかない。ただ、彼がほしいだけだ。ずっと彼に、傍に居てほしいだけ。
笑也が泣くのは見たことはない。悲しくても、憤ろしくても、感激しても、彼は泣かない。
「つっきー、髪型かえたの?」
TV局の楽屋で、先に来ていた奈多に訊かれ、月仁は鞄を置きながら頷いた。隣に笑也が鞄を置いて、すぐに出ていく。
「美容師さんにおすすめされたから、ハイライトいれた」
「そっか」
「……にあう?」
「似合ってるよ。可愛い」
鏡越しに月仁を見ながら、奈多はにっこりする。ラテン系とのミックスの彼は彫りが深くて、初めて顔を合わせた時にはどぎまぎした。それまで月仁の身近には居ない顔だったし、綺麗だったから。でも、グループとして活動しているうちに慣れた。高くて形のいい鼻も、日本人っぽくない色の肌も、二重なのか三重なのかわからないまぶたも、きらきらした灰色の瞳も、つくりものみたいに完璧な唇も。
月仁はそろそろと、奈多の後ろへ行く。彼は鏡の前で、ヘアアイロンで髪を整えている。少々癖のある黒髪だ。どうせなら金髪になりたかったなあと、冗談めかして云っていたのを覚えている。身長ももっとほしかった、と云ってから、小柄な月仁や美愛を見て、ごめんね、とばつの悪そうな顔をしたのも。
「後ろ、してあげよっか?」
「ああ、助かる。ありがとう」
ヘアアイロンをうけとった。奈多の髪をはさんで、動かす。癖のある髪がまっすぐになっていく。面倒だけれど、一度まっすぐにしてからのほうがスタイリングしやすいのだそうだ。
デビュー直後は自分達でメイクをしていたし、ライブの時は今でもそうだけれど、今日は違う。音楽番組に出るから、局のヘアメイクさんがしてくれる予定だ。奈多は神経質なところがあって、最終的にプロにしてもらうとしてもこの『リセット』作業をした。しないと落ち着かないらしい。
美愛だけは、いつ何時でも自分でメイクをする。こだわりがあるのだ。絶対に崩れない前髪。鉄壁の前髪、とファンが冗談めかして云うもの。
「おはよー、つっきー、なた」
煌輝と雷斗が這入ってくる。声が揃っていた。奈多が振り返ったので、月仁はぱっと両手を挙げ、一歩横へ動く。「おはよう、かぐや、らいと」
かぐや、は、煌輝のあだなだ。メンバーが云うこともあるし、ファンが云うこともある。煌輝は一番あだなで呼ばれていた。『こうき』という音の名前のアイドルが事務所にもう居るし、名字もめずらしいものではない。デビュー直後に呼び名を決めようと会議して、全員分決まった。
煌輝と雷斗も鞄を置いた。雷斗ははにかんだみたいに、奈多へ笑みかける。もう一度、彼にだけ、おはよう、と小さく手を振る。奈多は嬉しそうに微笑んだ。「あれ、つっきー、ハイライトいれた?」
「うん」
煌輝がにこにこして訊いてきたから、月仁はまた頷く。
「美容師さんが、似合うって。最近はやってるともいってた」
「うん、似合ってる」
「可愛いね」
雷斗が、どことなく駱駝とかきりんを思わせる、長い睫を震わせて云った。月仁は照れくさくて笑みをうかべ、顔を背ける。
親からは一度も誉められたことがない、それどころか可愛げがない男らしくないちびの不細工と罵られてきた自分が、こうやって誉められているのは、どこかに違和感もあった。彼らが本音だというのはわかるし、自分は美人なんだとわかってもいる。それなのにどこかで、これは嘘なんじゃないかと思う。――不格好なちび。あたし達にはひとつも似てない。どうしてあんたが生きてるの。どうしてあの子が死んだの。あんたがいなかったらあのこはしななかった。あんたのせいでしんだ。あんたのせいで。
「おはよー」
ぼんやりした顔で、海鈴が這入ってくる。美愛と笑也も一緒だった。笑也はまた、楽しそうに笑っている。「まーりーん、寝癖酷いぞ」
「んー、昨日かわかさなかったから……」
呂律がまわっていない海鈴は鞄をどさりと椅子へ起き、別の椅子に座ったと思ったら、机に突っ伏してしまった。かすかに見える顔が麗しい。海鈴は矢鱈に、顔が整っている。
美愛がくすくす笑い、海鈴の頭を軽く撫でる。顔に似合わず、少し低めの声を出す。「まりん、一回櫛いれたほうがいい」
「んー……」
「やってあげよっか?」
「んー……」
海鈴は唸るだけだったが、笑也と美愛は笑顔で目を合わせ、彼の鞄を開いた。海鈴がいつもつかっている木製の櫛をとりだし、笑也が丁寧に海鈴の髪を梳かす。
月仁の心臓がぴょんぴょんと跳ねる。俺もあんなふうにしてもらいたいと思った。笑也に触れられたい。いつだって。
笑也は海鈴に甘い。特別に。それは、海鈴も笑也の浮気相手だからだ。
匂いでわかる。よく海鈴が漂わせている、ちょっと粉っぽいような甘い香りを、時折笑也から感じることがあった。海鈴は実家暮らしだから、そう頻繁には笑也と会えないようで、まれにだけれど。
海鈴はいいところのおぼっちゃんで、子役としては売れなかったが、キッズモデルとしてはそれなりだった。おまけに、事務所が訴訟を起こされてやばかった時期、海鈴の親が弁護士を手配し、金で解決したとかで、事務所内で大きな権力を持っている。
デビューしてからは、女に見える整った顔と、二オクターブ半の音域の歌声と、アクロバット以外オールジャンルを踊りこなすスキルの高さで、グループ内で一・二を争う人気を誇っている。ファンの女の子達は、恋愛対象としてではなく、海鈴を崇拝している。
二年間大量の仕事で事務所を大きくした美愛は姫で、事務所破産の危機を救った海鈴は女帝だった。事務所の人間は大概がふたりに逆らわない。ふたりの性格が悪かったら大事だろうけれど、さいわいなことにどちらも温厚で良識のある人間なので、トラブルにはなっていなかった。笑也や奈多もそれなりに発言力があると知ったのはfrEsaにはいった後のこと。
笑也が美愛と付き合いながら、海鈴とも逢瀬を重ねているのは、そういう力関係もあってか、と思っていた。お姫さまと女帝。それに逆らえない、可哀相な優しい男の子。奈多や煌輝も海鈴のいうなりだから、笑也もそうなのだと思っていた。こわくて逆らえないのだと。
そう誤解していたのはほんの一時だけだ。すぐに違うのがわかった。笑也はただただ、美愛を愛しているし、不安定な海鈴のことも大切に思っている。月仁を大切にしてくれるみたいに。
浮気を不誠実だと思っていないのだろう。彼にとっては、弱ったメンバーを慰めるのが優先で、その為に必要なことはなんでもするのだ。美愛に求められれば応じるし、海鈴が淋しいと泣きつけば慰めるし、月仁が死にそうな顔でやってくれば優しく迎えいれて寝かしつける。ただそれだけのことだ。
笑也が本気で愛しているのはきっと、美愛だけ。でも、それ以外にも、真剣な態度をとれる。
月仁や海鈴がそれを求めれば、愛しているとか好きだとか、ずっと傍に居るよとさえ云ってくれる。それが彼にとっての『誠実』なのだ。不安定な自分達を安定させてくれる。死にそうな自分達を、死なないようにひっぱりあげてくれる。グループの仲間以外にはほとんどなにも持っていない月仁と違う、なんでも持っている美愛や海鈴が、どうして笑也に依存するのか、それはわからない。海鈴がどうしてああも不安定なのかも。
「まりん、またパーマかけてんじゃん」
「これお気にいりっぽいよね」
雷斗の言葉にくすくすと笑って返し、美愛は自分の鞄を置く。「まあカラーもいいし、似合ってるけど……また女みたいって云われるんじゃない?」「いいでしょ別に。まりん、この顔だから、なにしても無駄だもん」「みあが云うと説得力ある」「あ、ディスってる?」雷斗が傍を通って、ふわっと香りがした。薔薇みたいな匂いだ。半年ほど前のライブ中、雷斗の誕生日が来て、ステージの上で奈多がプレゼントした香水。
この間、笑也も同じ匂いだった。
煙草のケースをくるくるとまわす。
鞄にいれてきていた。吸うのは家でだけ、と決めているけれど、つい持ってきてしまった。中毒もここまで来たかと思う。そう。中毒。煙草とお酒。それと笑也。
笑也をとりあげられたら多分生きていけない。自殺なんてする必要もない。勝手に心臓が停まって死んでしまうだろう。それは容易に想像が付いた。ストレスでも人間は死ぬ。突然心臓が停まった妹みたいに。
リハーサルはさっき終わった。美愛がライトの下へはいるのをミスった。メンカラのライトの下へはいらないといけないのだが、事前に云われていた場所と違い(どうしてそんな不手際が起きたのかわからない)、奈多と激突した。美愛はそういうミスをすることが、結構ある。色でわかるのに、杓子定規にしか動かない時が。本番ではめったに失敗しないから、今回も大丈夫だろう。
楽屋には今、誰も居ない。本番まではあと三十分。笑也が居ない。海鈴と話しながらどこかへ行った。笑也が居ない。笑也が居てくれたらいいのに。そうしたら莫迦なことをしないですむ。
目が痛いと思って、自分が目に涙をためているのに気付いた。煙草のケースを潰す。ライターがないから吸えない。呼吸が苦しい。こんな状態で歌えない。
月仁の両親はどちらも大柄だ。ずっとちびの月仁はそれだけで両親の不和の種だった。なにかしらの疑いを父が抱いているのはわかっていた。それの意味は、中学に上がる頃に知った。妹が溺愛された理由もわかった。父と同じあざがあったからだ。
俺よりも可愛くないのに愛された。
ろくに食事もしないで背が伸びる訳がない。女みたいな小さな手も足も、自分が望んだものじゃない。母そっくりで父の面影なんてひとつもない顔も、女みたいに綺麗な髪も、ほしくて手にいれたものじゃない。
可愛げのない妹だった。自分が与えられるのは当然と思っていて、両親の愛を一身にうけて、兄である月仁のことなんて視野にいれていなかった。
可愛くない妹、将来美人になるなんて云われていたけれどあれはお世辞だ。月仁はあれくらいの頃にはもう目をひく容姿をしていた。育児放棄され、まともな服も着ていないし、まともに食べてもいないのに、綺麗だったから。
妹と話したことなんてない。一度も。可愛くない子だった。妹の世界に月仁は居なかった。
はじめて認めてくれたのが笑也で、奈多で、雷斗だった。美愛も海鈴も煌輝も、本当の意味で仲間になれた。
笑也は特別だ。帰りたくなくて事務所の階段に座り込んでいた月仁に、ちょっと遊ぼうぜ、と云って、つれだしてくれた。ゲームセンターでぬいぐるみをとってくれた。お菓子を買ってくれた。頭を撫でて、つきは頑張り屋さんだなと誉めてくれた。
ぬいぐるみは母に捨てられた。申し訳なくてしばらく笑也と話せなかった。でも笑也はまたゲームセンターへつれていってくれて、先輩だからおごってやるよと笑ってお菓子やジュースをくれて、ぬいぐるみもまたとってくれた。笑也に似た、ふわふわ笑っているアホロートル。ピンク色のふわふわした塊。抱きしめていたら泣いてしまって、笑也が焦ったみたいにどうしたと云っているのが聴こえた。
ぬいぐるみは捨てられないように、事務所のロッカーにつめこんだ。笑也からもらったものをもう誰にも粗末に扱われたくなかった。家を出てからは、ずっとベッドに置いてある。
笑也が美愛とキスしているのを見て、裏切られた気持ちになって、こっちが勝手に勘違いしていたんだと諦めた。でも諦めきれなくて、遊びでもいいと思って、今こうしている。
割り切っているつもりでも美愛が憎い時はある。
居なくなればいいのにと思う時は。
美愛が居なければ、海鈴が笑也の一番になる。
海鈴が居なくなっても、まだ雷斗が居る。
「月仁」
強い調子に我に戻った。
月仁は喘ぎ、顔を上げる。いつの間にか握りしめていたカッターが落ちた。かたかたと音を立てて転がっていく。誰かに手首を掴まれている。
行きがけにコンビニで買ったことを思い出した。何故買ったのかは思い出せない。必要なんてないのに。誰かを傷付けたかったのかもしれない。全部自分のものにしてしまいたい笑也を? それとも、邪魔な美愛を?
それともただ単に、この惨めな人生に決着をつけたかったのか。
手首を強く掴んでいるのは奈多だった。まっさおになって、カッターを蹴る。カッターはどこかに消えた。月仁は喘いで、瞬く。涙がこぼれる。「ごめん」
奈多の手は力強くて、はなれていかない。
「ごめん、メイク崩れるね」
「そうじゃないだろ」
「ごめん、なかないから、うたえるようにするから」
「月仁!」
奈多はなにか云おうとしたらしいが、ひゅっと息を吸い込んだ。月仁の鞄のなかに、煙草のケースを見付けたのだ。
奈多の灰色の瞳がこちらを見る。
恐怖がわいた。
「ごめんなさい。もうしないから。だからやめさせないで。えみやといっしょにいさせて」
「落ち着いて」
奈多は息を吐き、月仁から手をはなす。それから哀しそうな目をした。「月仁。君はまだ、子どもだろ」
子どもじゃない。子どもだったことなんてない。
「なた、スタッフさん呼んでる……どしたの? なた、つきちゃん?」
美愛が廊下から、覗きこんでいる。奈多は月仁を見て、美愛を見た。「美愛、笑也を呼んでほしい」
「どうして?」
「あいつの不手際だから」
美愛は小首を傾げ、それから微笑んだ。わかった、と云って居なくなり、すぐに笑也がやってくる。
笑也を見たら、呼吸が楽になった。月仁は立ち上がり、彼へ駈け寄る。衣装だとか、メイクのこととか、なにも考えずに飛びついた。笑也は抱きしめてくれて、それでもうよかった。
笑也と奈多が話している。それを聴きながら、月仁は目を瞑って、これから歌う曲のことを考えていた。笑也の作曲した、甘ったるいラヴソング。失敗する訳にはいかない曲。だって笑也のつくったものだから。笑也にきらわれたら生きていけないから。
「月仁」奈多の優しい声がする。「少し、休もっか」
いやだ。笑也の曲を歌う。それで笑也に誉めてもらう。全部認めてもらう。妹のことも親のこともいやなことは全部忘れる。笑也さえ居れば忘れられる。
笑也がゆっくり、頭を撫でてくれた。
「つき、眠ろう。今日は、頑張らなくていい」
月仁は泣きながら、頭を振った。