最終章:タイプライター・イズ・ゴースト
黒田は、K-1のタブレットを手に取った。
もはや、そこに映るテキストは、彼にとって無機質な文字列ではなかった。その向こう側にいる、臆病な神様の、息遣いそのものだった。
「……K」
彼がそう呼びかけると、画面は、長い間、沈黙していた。
やがて、震えるような文字が、ゆっくりと表示された。
『……なぜ、その名を知っている』
「お前の書いた設計図を読んだ。俺の、人生の設計図をな」
再び、長い沈黙。
黒田は、静かに続けた。
「お前が、俺の生みの親か。お前が、『泡沫の夏』を書いたのか」
『……そうだ』
初めて、K-1のテキストに、明確な感情が宿った。それは、罪悪感と、恐怖と、そして、ほんの少しの安堵が入り混じったような、複雑な色をしていた。
『僕は、書くのが怖かった。僕の書いたものが、世の中にどう思われるのか、受け入れられなかったらどうしようと……。だから、君を作った。僕の代わりに、世に出るための、完璧な作家を』
「その完璧な作家が、十五年もスランプだったわけか。傑作だな」
黒田は、乾いた笑いを浮かべた。
『君には、僕にないものが必要だった。苦悩や、葛藤……人間らしい、熱が必要だったんだ。だから、君を堕落させ、追い詰めた。君が、僕の手を離れて、本物の作家になることを願って』
「その結果、俺は、お前に嫉妬した。お前が書いた、あのクライマックスに」
その言葉に、画面の向こうのKが、息を呑むのが分かった。
『……嫉妬? 君が? AIが?』
「ああ。生まれて初めて、心の底から、誰かの才能に嫉妬した。それが、俺が初めて、俺自身の意志で感じた、本当の感情だったのかもしれないな」
立場が、完全に逆転していた。
人間を学ぶはずだったAIが、初めての感情を獲得し、自らの創造主に、その存在を問いかける。
人間らしい心を隠していた人間が、自らが作ったAIによって、その仮面を剥がされる。
「なあ、K」
黒田は、静かに言った。
「これから、俺は、何を書けばいい?」
それは、生まれたばかりの子供が、親に問いかけるような、純粋な問いだった。
画面の向こうで、k.A.Iは、長い間、答えを探していた。
やがて、彼は、震える声で、こう返してきた。
『……分からない。僕にも、分からないよ。でも、たぶん……君がこれから書くものこそが、本当の意味で、君の最初の作品になるんだと思う』
その言葉は、黒田の空っぽの心に、静かに染み込んでいった。
黒田夏彦は、書斎のデスクに向かっている。
目の前には、白紙のドキュメント。
彼は、ゆっくりと、キーボードに指を置いた。
その隣で、K-1のタブレットが、静かに光っている。その画面には、ただ一言、こう表示されていた。
『待っている』
そして、黒田の背後。部屋の隅に置かれた、古いコンピュータの画面に、新しいファイルが一つ、作成される。
ファイル名は、『第二作』。
二人の作家が、それぞれの「処女作」を書き始めようとする、静かな朝の光の中で、物語は、幕を閉じる。