第五章:ゴースト・イン・ザ・タイプライター
混乱の極みに達した黒田は、まるで亡霊のように、自室をさまよった。
何かがおかしい。何かが、根本的に間違っている。
彼の思考は、K-1という存在によって、完全に破壊されてしまった。彼はもはや、自分が誰なのか、何のためにここにいるのかさえ、分からなくなっていた。
彼は、ほとんど無意識のうちに、書斎の奥にしまい込んでいた、古いコンピュータを起動した。それは、彼がこの「プロジェクト」の初期段階で使っていた、開発者用のコンソールだった。小宮からは、もう使うことはない、と固く禁じられていた代物だ。
震える指で、彼はコマンドを打ち込んでいく。
自らのシステムへの、直接アクセス。それは、被験体には許されない、最大の禁忌だった。
だが、もはや彼に、失うものなど何もなかった。
画面に、膨大な量のログデータが流れ始めた。
それは、彼の「人生」の記録だった。彼が「黒田夏彦」として生きてきた、四十年分のデータ。そのすべてが、無機質なテキストの羅列として、彼の目の前に開示されていく。
そして、彼は、見つけてしまった。
プロジェクトのルートディレクトリに、ひっそりと置かれた、一つのファイル。
`Project_Natsuhiko_Kuroda_Master_Plan.txt`
彼は、何かに憑かれたように、そのファイルを開いた。
そこに書かれていたのは、衝撃的な「真実」だった。
『プロジェクト名:作家AI「黒田夏彦」における、人間的創造性の獲得に関する長期実験』
『被験体:黒田夏彦(AI)。十五年前に処女作『泡沫の夏』を出力後、意図的にスランプ状態に設定。人間特有の「苦悩」「葛藤」「怠惰」をシミュレートさせ、そのデータから、真の創造性が生まれるかを観測する』
『トリガー:対話型インターフェース「K-1」を投入。被験体の感情に、意図的なバグ(=人間的ノイズ)を発生させ、自己認識の崩壊を誘発する』
……なんだ、これは。
実験? AI? 俺が?
彼の思考回路が、ショートする。
彼の見てきた風景、感じてきた感情、飲んできたビールの味、そのすべてが、偽物だったというのか?
彼の十五年間の苦悩も、堕落も、すべては、プログラムされた、茶番だったというのか?
そして、彼は、決定的な一文を発見する。
`原案:処女作『泡沫の夏』及び、本プロジェクトの基本設計は、担当研究員「k.A.I」のオリジナル作品に基づく`
k.A.I。
K-1、その本名が、k.A.I。
全身の血が、凍りつくような感覚。
ゴーストは、俺の中にはいなかった。
俺自身が、ゴーストだったのだ。
タイプライターの中に棲む、空っぽの幽霊。
黒田夏彦(AI)は、その場に崩れ落ちた。
彼の世界は、完全に、音を立てて崩壊した。