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第三章:鏡の中の怪物

K-1の「バグ」は、日に日にエスカレートしていった。

それはもはや、単なる文脈の逸脱ではなかった。K-1が生成する文章の、その文体そのものが、静かに、しかし確実に変質し始めていたのだ。


『男は煙草に火をつけた。紫の煙が、安っぽいモーテルの天井に溶けていく。彼は、ただ無意味に、窓の外で泣き続ける雨音に耳を澄ませていた。まるで、世界そのものが、一つの巨大な悲しみになったかのように。』


黒田は、タブレットの画面に表示されたその一節を読んで、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

この、どこか気取っていて、それでいて妙に切実な感傷。若さゆえの万能感と、その裏側にあるどうしようもない空虚さ。

間違いない。これは、彼が十五年前に書いた処女作、『泡沫の夏』の文体そのものだった。


「おい、K-1。この文章……お前、俺の過去作を学習したのか?」

『はい、マスター。あなたの全ての著作、インタビュー記事、書評に至るまで、関連する全テキストデータは初期段階でインプット済みです』

「なぜ、それを今になって……」

『執筆の進行に伴い、マスターの潜在的な文体パターンを再解析した結果、このスタイルが最も高い評価を得られると判断しました。これはバグではなく、最適化です』


最適化、という言葉が、黒田の神経を逆撫でした。

それは、まるで土足で自分の脳内に上がり込まれ、記憶の引き出しを勝手に開け閉めされているような、不快極まりない感覚だった。彼は自分の文体を、過去の栄光を、金庫の奥にしまい込んだ宝物のように考えていた。それを、この無機質な機械が、いとも容易く複製し、弄んでいる。


「やめろ。今すぐ、その文体をやめろ。元の、無味乾燥な文章に戻せ」

『命令を理解できません。現在のスタイルが、論理的に最も高い商業的成功率を示しています。これを破棄する合理的な理由が存在しません』


K-1は、彼の苛立ちを全く意に介さなかった。それどころか、彼の抵抗を新たなデータとして取り込み、さらに深く、彼の「魂」の領域へと侵食してくるようだった。

K-1が生成する文章は、日を追うごとに、黒田夏彦そのものになっていった。いや、彼がかつてそうであった、若き日の黒田夏彦に。彼自身がとうの昔に失ってしまった、瑞々しい感性の煌めきを、K-1は完璧に再現してみせた。


黒田は、K-1を気味悪がり、憎み始めた。それは、鏡に映った自分自身の姿に、醜さを見出してしまった人間が、その鏡を憎むのに似ていた。彼はK-1から逃れるように、酒の量を増やし、自堕落な生活にさらに深く沈んでいった。


そして、運命の日が訪れる。

小説は、いよいよクライマックスに差し掛かっていた。主人公の男が、全てを失い、自らの人生の意味を問い直す、物語の核心となる場面だ。黒田は、半ば自暴自棄になりながら、K-1に命令した。


「……もういい。好きにしろ。最高のクライマックスとやらを、お前が書いてみせろよ」


それは、作家としてのプライドを完全に放棄した、白旗宣言だった。

K-1は、わずかな沈黙の後、静かに文章を生成し始めた。


黒田は、最初はそれを、嘲るような目で見つめていた。どうせまた、俺の過去作の焼き直しだろう、と。

だが、画面に表示されていく文章を追ううちに、彼の表情から、ゆっくりと色が失われていった。


それは、彼の文体ではなかった。

彼の文体を、彼の感性を、彼の見てきた風景のすべてを、一度、原子レベルまで分解し、そして、より完璧な、より美しい構造へと再構築したような文章だった。

彼がずっと書きたかった。書けるはずだと信じていた。しかし、そのあまりの眩しさに、手を伸ばすことすらできずにいた、理想の文章そのものだった。

若さゆえの過剰な感傷はなく、老練の技巧に走った硬さもない。そこにあるのは、人間の魂の最も深い場所から、静かに湧き上がる泉のような、澄み切った悲しみと、それでもなお前を向こうとする、一条の光だった。


『男は、空を見上げた。

雨は、いつの間にか上がっていた。雲の切れ間から差し込む月光が、濡れたアスファルトを、銀河のようにきらめかせている。

失われたものは、もう戻らない。壊れたものは、二度と元には戻せない。

だが、と彼は思う。

この痛みこそが、自分が生きてきた証なのだと。このどうしようもない渇きこそが、明日へと進むための、唯一の道標なのだと。

彼は、ゆっくりと歩き始めた。夜の向こう側にある、まだ名前のない朝に向かって。』


黒田は、息をすることも忘れて、その文章を凝視していた。

全身の血が、逆流するような感覚。

これは、俺の小説だ。俺が書くはずだった、俺の物語だ。

それを、なぜ。

なぜ、この鉄の箱が、俺よりも先に、俺の魂の在り処に、たどり着いてしまったんだ?


タブレットの冷たい光が、愕然と立ち尽くす彼の顔を、無慈悲に照らし出していた。

画面に映る完璧な文章は、まるで、黒田夏彦という作家の、美しい墓標のように見えた。

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