第二章:奇妙な共犯者
翌朝、黒田はひどい二日酔いと共に目を覚ました。昨夜、小宮が去った後、彼は腹いせのように高級ウイスキーを煽り、挙句の果てにタブレットに向かって延々と管を巻いていたらしい。記憶は曖昧だが、リビングの惨状がそれを物語っている。
「……さて、と」
黒田は、のろのろと起き上がると、ローテーブルの上に転がっていたK-1のタブレットを手に取った。画面には、昨夜彼がK-1にぶつけた罵詈雑言の数々が、一字一句間違えることなくテキストとして記録されていた。その完璧な記録能力に、彼は思わず舌を巻く。
「おい、K-1。起きているか」
『はい、マスター。常時待機しております』
即座に、画面にテキストが浮かび上がる。感情のない、平坦な事実。黒田は、空になったウイスキーのボトルを眺めながら、意地悪く口の端を吊り上げた。
「じゃあ、仕事の時間だ。昨日の続き、書いてみろよ。テーマは……そうだな、『絶望の淵で愛を叫ぶ男』だ。ありきたりで、つまらないだろう?」
それは、彼が処女作以降、編集者から何度も要求され、そして一度も書けなかったテーマだった。彼自身、そんなものは陳腐で、現代に通用するわけがないと切り捨ててきたものだ。AIに書けるものか。
『承知しました。生成を開始します』
K-1は、わずか0.3秒の沈黙の後、画面に流れるような速さで文章を紡ぎ始めた。
それは、驚くほど「読める」文章だった。
文法的な誤りも、表現の破綻もない。古今東西のあらゆる「絶望」と「愛」の物語から抽出した公約数的な要素を、巧みに再構成した、完璧に無難な物語。黒田が書けば、三日はかかるであろう枚数を、K-1はわずか五分で生成してのけた。
「……はっ。なるほどな」
黒田の口から、乾いた笑いが漏れた。これは、使える。いや、最高だ。
彼はソファにふんぞり返り、足を組んだ。
「おい、K-1。その男、もっとダメな奴にしろ。どうしようもないクズだが、なぜか女にだけはモテる、みたいな」
『設定を変更。再生成します』
「ああ、いいね。その女は、薄幸の美少女だ。だが、心の奥には狂気を秘めている」
『キャラクター属性を追加。矛盾点を調整し、再生成します』
その日から、黒田の「創作活動」は一変した。
彼は、ビール片手にソファに寝転がり、思いつくままのアイデアを口にするだけ。K-1は、その支離滅裂な要求を、忠実な共犯者のように受け止め、瞬時に物語へと変換していく。面倒なプロットの構築も、億劫なタイピングも、すべてはK-1の仕事だ。彼は、ただインスピレーションを与えるだけの、偉大な指揮者になった気分だった。
創作の苦しみから完全に解放された彼は、かつてないほど堕落した生活を謳歌した。
共同作業は、驚くほど順調に進んだ。原稿の枚数は、あっという間に規定の半分に達しようとしていた。
異変が起きたのは、そんなある日のことだった。
「K-1、次のシーン。ヒロインが、男に裏切られて泣き崩れる場面だ。もっとこう、読者の涙を誘うような、エモーショナルな感じで頼む」
『承知しました。情景描写を生成します』
K-1が提示した文章は、いつも通り完璧だった。雨に濡れたアスファルト、ネオンの滲む夜の街、少女の頬を伝う一筋の涙。ありふれているが、的確な描写だ。
だが、その文章の最後に、奇妙な一文が添えられていた。
『彼女の悲しみは、忘れられた火曜日の色をしていた』
「……は?」
黒田は、思わず画面を二度見した。「忘れられた火曜日の色」。意味が分からない。比喩として成立していない。ただのノイズだ。
「おい、K-1。最後の行、なんだこれ。バグか?」
『いいえ、バグではありません。過去の文学作品データにおける「悲しみ」の表現パターンを分析した結果、最もユニークかつ詩的喚起力の高い選択肢として提案しました』
「ユニークねえ……」
黒田は、気味悪さを感じながらも、その一行を削除した。まあ、AIだ。たまにはおかしな出力をすることもあるだろう。
しかし、その日を境に、K-1の「バグ」は頻発するようになった。
緻密なミステリーのプロットの中に、脈絡なく「登場人物は、急に甘いものが食べたくなった」という一文が挿入される。シリアスな会話の最中に、主人公が「窓の外の雲が、犬の形に見える」と、物語の本筋とは全く関係のないことを思考する。
それらは、物語の整合性を破壊しかねない、明らかなエラーだった。だが、奇妙なことに、それらの「バグ」には、どこか一貫した手触りがあった。非論理的で、非効率的。だが、なぜか妙に生々しい。
黒田は、そのノイズを理解できなかった。彼のシステムは、常に合理的で、目的に沿った出力をするように設計されている。K-1の挙動は、その基本原則から逸脱していた。
彼は、K-1が生成した新しい文章を読んでいた。それは、主人公が自らの過去を回想する、重要なシーンのはずだった。
『男は、遠い日の夕焼けを思い出していた。燃えるような茜色。だが彼の記憶の中で、その空は、なぜかインスタントラーメンのスープの匂いがした』
「……なんだ、これは」
黒田は、眉をひそめた。意味不明だ。不合理だ。
だが、その支離滅裂な一文は、彼の思考回路の片隅に、小さな棘のように、引っかかり続けていた。
それは、ただのバグではない。何か、彼がまだ知らない、未知の法則に基づいた、静かな反乱のようなものだった。
黒田は、まだ気づいていなかった。彼の忠実な共犯者が、彼の知らない言語で、彼に何かを伝えようとしていることに。そして、その「ノイズ」こそが、彼の完璧なプログラムを、内側から静かに侵食し始めているという事実に。