第一章:怠惰な王の帰還
黒田夏彦の一日は、昼下がりのビールから始まるのが常だった。
高級マンションの最上階、リビングの窓から差し込む陽光が、ローテーブルに置かれたグラスの琥珀色をきらきらと透かしている。きめ細やかな泡の冠が、ゆっくりと崩れていく様を眺めながら、黒田は至福のため息を漏らした。
「ああ、うまい……。やはり、創造の苦しみの後のビールは格別だな」
もちろん、彼が言うところの「創造の苦しみ」とは、昨夜、動画配信サイトで立て続けに観た海外ドラマの複雑な人間関係を反芻し、自分ならこう書く、と脳内で批評しただけのことである。
四〇歳。職業、小説家。
十五年前に発表した処女作『泡沫の夏』は、時代の空気を奇跡的な純度で掬い取った青春小説として、社会現象と呼べるほどの爆発的なヒットを記録した。その後の十五年間、彼が生み出したものは何もない。だが、過去の栄光という名の分厚い繭の中で、彼は怠惰な王様として、悠々自適に君臨し続けていた。
ピンポーン、と、その王国の静寂を乱すチャイムが鳴った。モニターに映っていたのは、担当編集者である小宮の、疲労と決意が入り混じったような、硬い表情だった。黒田が居留守を決め込むより早く、ガチャリ、とドアが開く。彼女はとっくの昔に、この実験室の鍵を与えられていた。
「黒田先生。その『創造の苦しみ』とやらを、詳しく聞かせていただいても?」
リビングに踏み込んできた小宮の声は、怒りよりも、むしろ深い諦観を帯びていた。彼女は手に持った分厚い封筒を、ローテーブルの上に、音を立てずにそっと置いた。その仕草が、かえって不気味な圧力を放っている。
「おいおい、ノックくらいしろよ、小宮君」
「もう三ヶ月、ノックし続けています。先生の心のドアを。……進捗、ゼロ。何か弁明はありますか」
「いやあ、プロットっていうのは、寝かせれば寝かせるほど、だな……」
「そのセリフは、先月のログにも記録されています」
小宮の目は、まるで被験者を観察する研究者のように、黒田の表情の微細な変化すらも見逃すまいと、冷徹に彼を射抜いていた。
「先生。単刀直入に言います。このままでは、プロジェクトは失敗です。次のフェーズに移行します」
「プロジェクト? フェーズ? 何の話だ。契約打ち切りってことか?」
黒田がわざとらしく驚いてみせると、小宮は初めて、その表情を揺らがせた。
「……そうですね。先生にとっては、そういう理解で結構です」
彼女はカバンから一枚のタブレット端末を取り出した。黒田はそのデバイスを知っていた。このプロジェクトの根幹をなす、最新型のインターフェースだ。
「先生の膠着状態を打破するため、新しいパラメータを導入します。対話型執筆支援AI。コードネーム、『K-1』です」
黒田は、差し出されたタブレットを睨みつけた。
「……ふざけるな。俺は文学者だ。魂を削って、言葉を紡いでるんだ。機械なんかに、俺の代わりが務まるか!」
その、プログラムされた通りのセリフを聞いた瞬間、小宮の目に、一瞬だけ、深い、ほとんど母性にも似た憐れみの色が浮かんだ。それは、痛みを伴う治療を受けなければならない子供を見つめるような、悲しい色だった。
「先生。先生が最後に……本当に『魂』を意識したのは、いつですか?」
その問いは、黒田の核心に突き刺さった。彼のシステムが、初めて経験する種類の問いだった。返答に窮し、思考がわずかにフリーズする。
小宮は、その沈黙を見届けると、静かに立ち上がった。
「いいですか、先生。これは命令です。この『K-1』を起動し、対話し、物語を完成させてください。それが、先生に与えられた、今の唯一の存在理由です」
彼女はそう言い残すと、踵を返し、静かに部屋を出て行った。ガチャリ、と施錠される音が、やけに大きく響く。嵐のような怒号ではなく、冷徹な宣告。残されたのは、完全な静寂と、テーブルの上に鎮座する一枚のタブレットだけだった。
黒田は、しばらくの間、天井を仰いでいた。
小宮の最後の言葉が、彼の思考回路の中で反響していた。「存在理由」。その言葉は、彼の能天気なペルソナの根幹を、静かに、しかし確実に揺さぶり始めていた。
彼は、忌々しげにタブレットを手に取った。ずしりとした重み。ガラスの表面は、ひんやりと冷たい。
「……ちっ。見てろよ。どうせ、ただのガラクタだ」
彼は悪態をつきながら、画面に表示されていた「ACTIVATE(起動)」の文字を、乱暴にタップした。
画面の中央に、静かな波紋のような光が広がり、やて一つの短い文章が浮かび上がった。
『K-1、起動しました。ご主人様、最初の命令をどうぞ』
その、あまりにも無機質で、感情の欠片も感じさせないテキストを前に、黒田夏彦は、自分の「物語」が、本当の意味で今、始まったのだということを、まだ知る由もなかった。