夜の灯と二つの背中
あの日を境に、リアの中で何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。
毎日のように屋敷のどこかで顔を合わせるギルフォードは、いつも仏頂面で、何かにつけて不機嫌になるし、口の利き方も粗野だったが、不思議とそれに不快感は残らなかった。むしろ心の奥に染み込むような温度が、ほんのりと安心感を連れてくる。
「今日も手ェ空いてんのか」
「はい。また少し書物を読んでから、何かしらお手伝いに行きたいと思ってます」
「そうかよ。……なら、これ使え」
言ってギルフォードが差し出したのは、一冊の薄い冊子だった。綴じられた表紙には、見慣れた竜族の文字と、その下に小さく人間の言葉が添えられている。
「え!? これ、対訳ですか?」
「出所は知らねぇが、レオンハルトが持ってきたらしい。俺がいなくても、これがありゃどうにかなんだろ」
そっけない言い方だったが、気遣いが嬉しかった。彼は、先日のやりとりを気にしていたのだろうか。あるいは、怒鳴ったことへのフォローのつもりかもしれない。
「ありがとうございます。本当に、助かります」
素直に頭を下げると、ギルフォードは小さく舌を鳴らしたように聞こえたが、それもどこか照れ隠しのように感じられた。
夜、リアは部屋の机に向かい、冊子を片手に分厚い歴史の書をもう一度開いた。最初は一文字ずつ拾うだけでも精一杯だったが、中庭でギルフォードが指で示してくれた文字たちを思い出しながら、一語一語に意味をつけていく。
「“はじまり”……これは、“炎”……?」
竜族の歴史は、炎と空の記憶から始まっている。そういう一文が、確かにそこにはあった。――例えその道が遥かであっても、理解したいと願う心がある限り、進めるはずだ――そんな一文を読みながら、昨日のギルフォードの言葉に感じたのは、遠回しで不器用な優しさだった。
リアの胸の奥に、小さな灯火がともる。いつか、もっと深く話が出来るようになりたい。
頁を捲る手は止まらない。音のない夜の中で、ただ紙と紙が擦れる音だけが響いていた。
◇
読み始めた時点で、すでに陽は傾いていた。けれど、静まり返った夜の空気に包まれてページを捲る感覚が心地よくて、リアは気がつけば深夜の帳にすっかり呑まれていた。今さら時計を見て驚いても、時間が戻るわけでもない。小さくあくびを漏らしながら、本を閉じて立ち上がる。
「……お茶でも淹れてから寝ようかな」
喉を潤したいのと、少し気分を切り替えたい気持ちとが重なって、リアはそっと廊下を歩き出した。屋敷の中はすでに夜の静寂に包まれていて、足音が妙に大きく感じられる。
キッチンの近くまで来たところで、ふと灯りがついていることに気がついた。
「あれ、消し忘れかな?」
首を傾げながら扉の前に立つ。中に人の気配を感じて、そっとノックをした。
――コン、コン。
控えめな音が、木の扉を通して部屋に届く。すると、少ししてがたんと椅子を引く音が聞こえ、ばさりと誰かが振り返る気配がした。
「……あ!? お前、何でこんな時間まで起きてんだ」
目を丸くしてこちらを見ていたのは、ギルフォードだった。普段よりも乱れた髪の隙間から見える目元に疲労の色が浮かんでいて、右手には淹れたばかりのブラックコーヒーのカップが握られている。左手には何かの書類の束。彼は椅子に腰かけていたらしく、今も身体を伸ばすようにして背筋を反らしていた。
「……そっくりそのままお返ししますよ……!? もしかして、いつもこんな時間までお仕事されてるんですか?」
思わずそう尋ねると、ギルフォードはばつの悪そうに眉をひそめた。
「仕事っつーか……まあ、そういうもんだろ。俺がやんなきゃ回んねぇし」
「でも……この時間って、もう夜中の――」
「分かってる。だけど、今くらいしか手が空かねぇからな」
ギルフォードは面倒くさそうに目をそらし、コーヒーを一口啜った。苦味の強い香りがふわりと鼻を掠める。リアはそっと中に入り、扉を静かに閉じた。
「つーか、ここに何しに来た」
「……私は、ただお茶が飲みたくて……」
「だったら勝手に淹れてけ。お前の分の茶葉はそこの棚。カップはその隣」
手慣れたように場所を示すギルフォードの横顔を見ながら、リアはゆっくりとキッチンの中を歩いた。立ち位置が自然と彼に近づいていく。カップを選びながら、ふと尋ねる。
「ギルフォード様、いつもこんなに遅くまでお仕事してたんですね。なんて言うか、全然そんなふうには見えませんでした」
湯を沸かす間、背を向けたままリアが呟くと、ギルフォードは一拍だけ間を置いた。
「別に、お前らに言う必要ねぇだろ。忙しいなんざ、口に出したところで何も変わんねーわ」
「でも……誰かが知ってたら、少しは違いませんか? あの、本当に無理だけは、しない方がいいかなって……」
真っ直ぐに言葉を向けると、ギルフォードは視線を逸らすようにして、またコーヒーに口をつけた。だが、その仕草にどこか緩みがある。
「うるせぇな。真面目か、お前は」
「……ギルフォード様の方が、ずっと真面目だと思います」
つい本音をこぼすと、ギルフォードの肩がわずかに揺れた。
やがて湯が沸き、リアはそっとカップに茶葉を落とし、熱湯を注いだ。静かに香る茶の湯気が、張り詰めた空気をやわらげる。
「これ……飲みますか? おかわり、みたいな……」
「いや、もう十分だ」
「ですよね」
二人で軽く笑ったその空気が、妙に心地よかった。リアはそのまま、カップを両手で包み込むようにして椅子に腰を下ろす。隣にはギルフォード。コーヒーと書類に向かう姿は、昼間よりも少しだけ影を落としているように見えた。
「……さっき読んでた本、ギルフォード様が教えてくれた単語が出てきて、嬉しかったです」
「へぇ」
「何となく意味も分かってきて……少しずつでも、理解できることが増えてきたのが、すごく楽しいなって思います」
頷くようにギルフォードはまた一口、コーヒーを口にした。カップを置く音が、夜の静けさに優しく響く。
「覚えた知識を無駄にしねえのはいいことだ。続けろ。できる限りな」
「……はい。ありがとうございます」
頷きながら、リアはそっとギルフォードの横顔を見つめた。疲れているはずなのに、誰にもそれを悟らせず、黙々とやるべきことをこなしている。何も言わないけれど、きっとずっと、誰かのために動き続けてきた人なのだろう。
「……あの」
「んだよ」
「本当に、無理はしないでくださいね」
リアがもう一度、静かにそう告げると、ギルフォードは一瞬だけリアを見た。鋭さの裏に隠された柔らかさが、その目の奥にちらりと浮かんだ。
「お前に言われなくても、分かってるつーの」
呟かれたその声が、まるで本当は誰かにそう言ってほしかったかのように、夜の空気の中に染みていった。
静かなキッチン。夜の灯に照らされて、ふたつの背中が並んでいた。
やがてリアは、温かい茶を飲み干すと、静かに立ち上がる。
「じゃあ……私、そろそろ寝ます。おやすみなさい」
「ああ」
扉を開けて出て行こうとする背に、ギルフォードの低い声が追いかけた。
「ちゃんと寝ろ」
振り返ったリアは、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろんです」
扉が静かに閉じる。
残された部屋には、カップの湯気と、ページを捲る音だけが、静かに夜を満たしていた。
◇
扉が静かに閉まる音がして、キッチンに再び静けさが戻った。
ギルフォードは持っていたコーヒーカップを一度テーブルに置き、ゆっくりと背もたれに身体を預けた。わずかに首を傾けて、天井を仰ぐ。さっきよりも、ずっと深く息を吐いた。喉の奥で、くぐもったような声が漏れる。
「……気張ってても、見られてんじゃ意味ねぇな」
思わず自嘲するように笑いそうになったが、その声はすぐに喉の奥で消えた。誰もいない空間は、余計に自分の思考を鮮明に浮かび上がらせてくる。
リアが、ああして気遣いの言葉をかけてくれることが、ありがたくないはずがない。けれど同時に、それをありがたく思っているなどと、表に出す器用さは自分にはない。
ふと、脇に置いた資料に目を落とす。項目ごとにびっしりと書き込まれた数字、地図、家名、流れゆく氏族の記録。誰がどこに、何を、いつから仕切るか。各所の資源の配分、伝承の扱い、新しく入ってくる異血の管理――。決めるべきことは、数えきれない。
これが、跡継ぎとして背負うべきものなのだと、誰に言われずとも分かっていた。
「そもそも……あいつと結婚すんだっけか、俺」
呟いた言葉が、夜の空気に溶けていく。苦笑すら浮かばなかった。ただの事実確認のように、乾いていた。
家の者たちは、すでに周囲へとそれを伝え、細やかな準備に取りかかっているという。ギルフォードのもとには、式の形式案や披露の順番、古いしきたりを踏襲するかどうかといった細かな文書が次々と回ってきていた。もちろん形式ばかりで、本人の心情など、誰も問うてこない。
「面倒くせぇ」
だが、その面倒くさいを理由に投げ出せるほど、自分は自由な身ではなかった。この名前を背負ってから、ずっとそうだ。
幼いころ、まだ外の世界を何も知らなかった頃――
祖父の広い背中を見上げながら、己もいつか竜たちの中心に立つのだと、周囲は勝手に決めていた。そしてその通りに鍛えられ、学ばされ、周囲を指導する立場として、歩かされてきた。
文句を言えば、それは甘えだと返された。
立ち止まれば、誰かが追い越すと脅された。
笑えば軽いと指摘され、黙れば冷たいと言われた。
何ひとつ、自由な選択など許されていない。それはわかっていた。
「……今さら、何言ったってしょうがねぇだろ」
声が掠れる。気の抜けたような語調は、誰にも届かないからこそ、素直に出たものだった。
現実的に見ても、今の竜族の里の状況は、傍目に安定しているように見えて、その実は綱渡りの連続だった。外との関係、内の対立、次代への橋渡し――。自分がここで手を離せば、その均衡は一気に崩れる。だから、やるしかない。誰にも言わずとも、自分はそれを知っている。
資料に視線を戻す。眠気は、もうとうに通り過ぎていた。
リアが言っていた。「誰かが知ってたら、少しは違うかもしれません」――と。そんなこと、あるものか。
心のどこかで否定しながらも、さっき感じた僅かな安堵の正体を、ギルフォードはまだ上手く言葉にできずにいた。
コーヒーはすっかり冷めていた。けれど、もう一杯淹れ直すほどの余裕もない。
「今日の分、終わらせっか」
小さく呟いて、資料を広げる。灯りの下、ペンを握り直す指先に、迷いはなかった。
それが、王子としての宿命なのだと、彼は、もうとっくに覚悟していた。