生臭い市場と香辛料
朝――目が覚めた時、まだ部屋の中は仄暗く、外の光は薄い靄のように窓辺に滲んでいた。昨夜の出来事が夢でなかったことを、肌に触れる寝具の柔らかさや、胸の奥に残る不思議な緊張感が静かに証明している。
リアは、しばらくの間、天井をぼんやりと見つめていた。
ここは里。もう、自分は村にはいない。帰れるわけでも、迎えが来るわけでもない。――けれど、だからといって、村に残してきた家族や、パン屋を手伝っていくれていた仲間たちの心を悲しませてはいけない。ここで泣いてばかりいるわけにも、立ち止まっているわけにもいかないのだ。
「できることから、やってみよう」
そっと浮かんだのは、小さな決意だった。見知らぬ地であっても、自分にできることがあるなら、それをひとつずつ積み重ねていけば、きっとなにかが変わっていくはずだ。
そう思いながら、朝食の席についたリアは、出された生肉に添えてある青菜を齧りながら、ふと首をかしげて尋ねた。
「……あの」
「んあ?」
「食材って、どこで買えるんでしょうか?」
その場に問いかけると、向かいに座っていたエルマーが、ちょうど口をもぐもぐと動かしていたのを飲み込んでから、ぱっと表情を明るくする。
「食材なら、市場に行きゃ大体そろってるぜ! 俺、ちょうど当番で買い出し行く予定だったし、見てみてえならこの後一緒に来るか?」
「本当に? エルがいいなら行きたい……!」
「おう、任せろ!」
気持ちが浮き立つように、リアが身を乗り出して答えると、エルマーは満足そうに笑った。
けれど、案の定というべきか、すぐ横でむすっとした声が割り込んできた。
「は? 却下」
ギルフォードだった。腕を組んだままじろりとこちらを睨むその顔には、不機嫌という名の文字が堂々と刻まれている。
「いやいや、俺ついてんじゃんか。市場くらい平気だって!」
エルマーがいつも通りの調子で返すと、ギルフォードは眉をひそめて言い返す。
「昨日も見失ってただろうが。あん時だって俺がいなかったら――」
「いやいやいや! 見失ったんじゃなくて、楽しんで欲しくて目を離しただけだって!」
「それを見失ったっつうんだろうが、このバカが」
通し問答がはじまり、リアは思わず苦笑した。ギルフォードの言葉は厳しいけれど、その奥にはちゃんと、心配の色が見える。それを素直に出せないのが彼なのだろう、と少しだけ分かるような気がした。
「何かあったら俺の責任になる。エルマー、絶対目ぇ離すんじゃねえぞ」
結局、そのギルフォードの譲歩で市場へは行けることになった。
騒がしい朝食を終えて、リアが自室でパウダーをはたいていると、控えめなノックが部屋の扉を叩いた。
開けて顔を覗かせたのは、意外にもレオンハルトだった。水色の髪が朝の光を受けてほのかに輝いている。
「エルマーが、急な用事で出ることになりまして。代わりに僕が、ご案内します」
「あ、はい……お願いします」
言葉少なにそう告げられ、リアは少し緊張した。レオンハルトとは、まだほとんど言葉を交わしていない。彼の表情は静かで、何を考えているのか掴みづらい。けれど、拒まれているわけではないことだけは、なんとなくわかった。
昨日訪れた場所よりも、もう少し奥まった場所にある市場は、開けた空間にいくつもの屋台や店が立ち並び、異国の空気と熱気に包まれていた。
そんな市場の一角。布を掛けた粗い木の棚には、様々な香辛料や乾燥した葉、粒状の白い塩が並んでいた。通りの端では、まだ赤い血の色を帯びた肉の塊が風に晒され、時折、ぬるりとした生臭さが鼻先をかすめる。
リアはその匂いにほんの少しだけ顔をしかめながら、迷うように棚の前に立ち止まった。そして、ややためらいがちに、小さな紙袋に詰められた粗塩や香辛料を手に取る。その動作を隣で見ていたレオンハルトが、視線だけをそっとこちらに寄越した。
「……それ、何に使うんです?」
静かで、しかし興味を隠しきれない声だった。
リアは驚いたように顔を上げると、手の中の袋を軽く持ち直して、少し照れたように笑った。
「あ、えっと……ちょっと、塩気が欲しくて。あと血の匂いが残っていると、人間は食べにくいというか……」
言い淀みながらも、どうにか言葉を選んで伝えようとするリアに、レオンハルトはわずかに目を細めた。
「血の匂いが好ましくない、ということは……つまり、あの状態――生では、食べれないということですか?」
その言葉に、リアはしっかりと頷いた。言いながら視線を斜めに落とし、少しだけ唇を引き結ぶ。
「はい。普通は、火を通してから食べるんです。生のままだと、お腹を壊してしまうので」
どこか申し訳なさそうにそう付け加えると、レオンハルトは目を見開いたまま、しばらく言葉を失っていた。
「……そうなのですか……」
やがて漏れた声には、純粋な驚きがはっきりと滲んでいた。自分たちにとって当たり前すぎる習慣が、まったく異なる相手には、まるで未知の概念だったのだと気づかされたように、彼の表情がわずかに揺れる。
リアはそんなレオンハルトの横顔を見つめながら、思ったよりもこの里では、自分が“異分子”であるということが当たり前に受け入れられているわけではないのだと、あらためて感じていた。
レオンハルトはしばらく黙ってから、わずかに視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「初日に教えてもらえてたら、もう少し……まともな朝食が出せたかもしれません。申し訳ございません」
その声音には、非礼を詫びるような静かな誠実さと、どこか自身を責めるような色も混じっていた。リアは、首を振るように微笑む。
「そんな、謝らないでください。私が異分子なんですよ。だから、まずは自分でどうにかしてみようって思ってて……。無理だったら、そのときは……相談させてくださいね」
自分の言葉が、どこまで届いているかはわからない。でも、リアはあえて視線を逸らさずにそう告げた。変わろうとしているのは、自分だけじゃないのかもしれない。そう思えたからだった。
しばしの沈黙の後、レオンハルトがふと目を伏せたまま、肩の力を少しだけ抜いた。長い睫毛の影が頬に落ち、その唇がわずかに弧を描く。
「そうですか」
その言葉は、短くて、静かだった。けれど、その響きの奥には確かな理解と、相手を尊重する意志が宿っていた。
市場の喧騒が背後に遠のいていく中、二人は並んで、屋敷へと向かって歩き出す。言葉は交わさなかったけれど、その沈黙は気まずさではなく、互いの距離が少しだけ近づいたという手応えのように、静かに寄り添っていた。
行きと同じ道のはずなのに、帰り道はほんの少し、風の匂いが柔らかく感じられた。