隔絶の地
アルバンの涙がようやく落ち着いたのを見計らって、リアはそっと声をかけた。
「何か、温かいものでも淹れましょうか」
「本当? 紅茶がいい!」
「はい。そうしましょうか」
涙の跡がまだ残る顔を上げて、アルバンは元気に頷く。リアは手を引きながら、二人で静かな廊下を歩き、キッチンへと向かった。
夕食前のキッチンはすっかり片付けられていて、今はしんと静まり返っている。窓の外には夜の帳が降り始め、ほの暗い空に星の瞬きがひとつ、ふたつと灯っていた。
リアは棚からティーポットとカップを取り出しながら、小さく問いかける。
「ミルクは入れますか?」
「うんっ。ジャムも入れたいな!」
「ふふ、いいですよ」
いつもの調子が戻りつつあるアルバンの声に、リアも自然と微笑みがこぼれた。静かに湯を沸かし、紅茶の葉をポットに落とす。くるくると広がる香りに包まれながら、二人分のカップに濃い琥珀色の液体が注がれていく。
ふわり、と甘く柔らかな匂いが立ち上ったそのとき――
「……僕も、もらっていい……?」
どこか魂の抜けたような声とともに、レオンハルトがキッチンに現れた。目の下にはうっすらとクマができ、片手にはまだ未整理の資料を何枚も持っている。
「もちろん。すぐに用意するね」
リアは慌ててもうひとつカップを用意しながら、レオンハルトの前にも紅茶を差し出した。
「お仕事、落ち着きそう?」
「……まだ三割……」
うめくように答えて、カップに口をつけるレオンハルト。その疲労困憊ぶりに、アルバンも「レオだいじょうぶ……?」と小声で心配そうに覗き込んでいた。
「私に、何か手伝えることはあるかな?」
そう申し出ると、レオンハルトはしばらく考える素振りを見せたが、やがて首を振って静かに笑った。
「ううん。……これで十分。ありがと……」
湯気を立てる紅茶の香りに僅かに目を細めながら、レオンハルトはカップを持ち、ふらふらと片腕に資料を抱えて部屋を出て行った。少しだけ気力を取り戻したような背中を見送って、リアとアルバンは顔を見合わせて小さく笑う。
「多めに淹れててよかったですね」
「うん。リアの紅茶、あったかくておいしいもん!」
ほっこりとした時間が流れる中、ふたりはゆっくりとカップを傾けた。
紅茶を飲み終えると、アルバンは空になったカップを丁寧に置き、くるりと体を向けて「そろそろ帰るね」と微笑んだ。
「またね、リア」
「送って行かなくて大丈夫ですか?」
そう問いかけると、アルバンは少しだけ胸を張って、しっかりとした声で答えた。
「うん! ちゃんと、一人で帰れるよ!」
そう言って、リアにぎゅっと抱きついてくる。あたたかいその体を包むように、リアは優しく頭を撫でた。
「……あの、アルバン様。一つだけ、お聞きしてもいいですか?」
「いいよ。どうしたの?」
少しだけ真剣な声音に、アルバンは小さく首を傾げた。リアは躊躇いがちに、けれどはっきりと尋ねる。
「さっきの方って……この辺りに住んでいらっしゃるのでしょうか?」
問いかけたのは、また出会したらどうしようという恐怖からではなかった。ただ、あの老人は、今まで出会った誰とも違う風貌をしていて――それが単純に気になったのだ。
アルバンはリアの腕の中からそっと身を離すと、少し考えるように視線を泳がせた。
「たぶん、前の里に住んでる人だとおもう……」
「前の、里……?」
リアが首を傾げると、アルバンはコクリと頷いた。
「うん。たまにね、おばあちゃんが様子を見に行ってるんだよ。今はみんなこの里にいるけど、王宮の奥の方に“前の竜の里”があるの」
その言葉に、リアは思わず目を見開いた。そんな場所が存在することなど、今まで一度も聞いたことがなかった。
けれど、アルバンの様子は嘘をついているようには見えなかった。彼は言葉を続ける。
「そこに残ってる人たちはね、こっちには来たくないんだって。たまにおばあちゃんとか王様が説得しに行くけど、みんな昔の暮らしのままがいいって」
「……そう、だったんですね」
リアはそっと頷きながら、その言葉の一つひとつを心の中に丁寧に落としていく。
「アルバン様は、物知りですね」
感心したように微笑むと、アルバンはちょっと得意げに鼻を鳴らした。
「えへへ。だって、おばあちゃんにいっぱい聞いてるからね!」
その笑顔を見た瞬間、リアの中にずっと重く残っていた何かが、やわらかくほぐれていくような気がした。ようやく、あの子らしい笑顔が戻ってきた。その事実が何より嬉しかった。
「また来るねっ!」
「はい。気を付けて帰ってくださいね」
大きく手を振りながら、アルバンは門へと駆け出していく。
リアはその後ろ姿を、しばらくのあいだ見つめていた。彼の銀色の髪が、夜の光の中できらきらと揺れていた。
◇
アルバンを見送ったあと、リアはゆっくりと屋敷の奥へと歩を進めた。まだ夕食までには少し時間がある。身体も心も落ち着いてきた今、少し自分の中の疑問に向き合いたいと思った。
向かったのは、あの重厚な扉のある書斎だった。ギルフォードの私室のような扱いでもあり、共用の資料部屋でもあるそこには、びっしりと本が収められている。
ノックをして、返事を待つ。
けれど、扉の向こうからは何の気配も感じられなかった。
「失礼します……」
そっと扉を開けると、中は静まり返っていて――珍しく、ギルフォードの姿がなかった。どこかに出ているのか、それとも他の場所にいるのか。緊張の糸がふっと緩んで、リアは小さく息を吐いた。
棚に並ぶ本の背表紙の文字は、来たばかりの頃よりもだいぶ読めるようになっていた。ひとつ、またひとつと指でなぞりながら、目を細めて眺めていく。
「……あった。歴史の本……」
タイトルに『竜族史略』と刻まれた、その本は比較的新しい装丁だった。内容も比較的現代寄りのものだろうとあたりをつけて、丁寧に抜き出す。
その隣にあった『地勢と系譜』『王権の記録』といったタイトルの本も合わせて数冊、腕に抱える。
少し重たいそれらを持って、リアはそのまま自室へと戻った。
◇
カーテンを半分だけ開けて、自然光が差す机の上に本を並べると、リアは椅子に腰を下ろし、ひとつずつページを繰り始めた。
最初は分かる単語を拾うようにゆっくりと。けれど読み進めるうちに、古い言葉や竜語の注釈にも少しずつ慣れ、想像よりもずっと多くのことが読み取れるようになっていた。
そして、ようやく一冊の中盤――リアは思わず手を止めた。
そこには、はっきりとこう記されていた。
“王宮の裏手、さらに奥深い山岳地帯に存在する旧竜族の集落。岩肌を削って作られた洞窟や、苔むした石造りの家屋が点在する。”
リアは息を呑んだ。
“その地には、人間の言葉を話すことが困難な、生粋の竜族の長老たちが多く住まう。現在の里から移住せず、古い慣習と因縁を守り続ける彼らは、王宮からも一定の距離を取っている。”
アルバンが言っていた通り、ルナルディが年に数度その集落を訪れ、口伝される歴史や出来事を記録しているともあった。
“庭には原種のフルーツや薬草が自然に自生しており、交易に頼らぬ生活が今なお保たれている。商業の要素はなく、言葉も風習も、古のままに――”
淡々とした記述の奥に、どこか神秘と隔絶の匂いがあった。
リアはしばらく黙ってページを見つめたまま、指先でそこに描かれていた石造りの家屋のスケッチをなぞった。湿った土の匂い、翳る木々、低く流れる霧のような空気。書かれていないそれらの感覚が、言葉の隙間からじわじわと滲んできた。
「……王宮の、裏……?」
ぽつりと声に出して、リアはそのまま机に突っ伏すように両肘をついた。
「っていうか、そもそも王宮って……どこ?」
この地に来て以来、そういえばリアは“王宮”と呼ばれる場所を一度も見ていなかった。エルマーたちが時折口にするものの、明確な場所としては聞かされていなかった気がする。
ぎゅっと頭を押さえながら、リアはひとりで唸る。
そのときだった。
コンコン――
短く、軽いノックの音がして、続いて青年の声が響いた。
「リア、メシ出来てんぞ?」
エルマーだった。
「あっ……ごめんっ、今行く!」
「おう。今日はレオの焼きすぎたステーキだぜ」
「ギルフォード様が怒りそうだね……?」
「それなぁ」
慌てて立ち上がり、読みかけの本を丁寧に閉じて重ねる。椅子を戻しながら、もう一度だけ机の上を見て、思わず呟いた。
「……夢の話じゃ、ないんだよね」
小さくそう確認して、リアは食堂へと足を向けた。




