薄氷の視線
陽が高くなりはじめた頃、鍛錬場の隅に立っていた影がゆっくりと動き出す。
「近日中に、またちゃんとギルフォードの屋敷へ顔を出すよ」
そう言って、軽やかに笑ったのはヴィルヘルムだった。日差しを浴びて銀髪が柔らかく揺れる。隣に立つシュトルツもまた、静かに頷いて見送る気配を見せている。
ギルフォードは、少し肩をすくめるようにして片手を挙げた。気怠げなその仕草は、けれどどこか名残惜しさを滲ませている。
「さっさと行け。土産とかいらねぇからな」
「はいはい、分かっているよ」
苦笑を浮かべながらも、ヴィルヘルムの瞳には温かいものが宿っていた。鍛錬場の風に裾を揺らしながら、彼はゆっくりとリアの方へと視線を向ける。
「……じゃあね、リア。それまで元気で」
「はい……ありがとうございました、ヴィルヘルム様」
リアは、そっと一歩踏み出し、小さく頭を下げる。彼の真っ直ぐなまなざしに、ほんの少し胸が温かくなる。柔らかな見送りの声に、ヴィルヘルムはにこりと目を細め、まるで風のように背を向けた。
その後ろ姿を、シュトルツが静かな一礼をもって追いかけていく。
残された空気には、訪れていた客人の気配がまだ微かに残っていたが、それもやがて風に流れて消えていく。
鍛錬場に、再び静けさが戻った。
ギルフォードは片方の肩をぐるりと回しながら、ぼそりと呟く。
「……俺、エルマーはいつ模擬戦やんのか聞いてくる」
「お、おう。よろしく」
「あぁ。お前らは、そこで待ってろ」
エルマーが軽く返すと、ギルフォードはそれ以上は何も言わず背を向けて、鍛錬場の奥へと歩いていった。歩き慣れた足取り。けれど、その背中には少しだけ、さっきまでとは違う重みがあったように見えた。
そして、その姿が視界から消えた瞬間、鍛錬場の端には三人分の気配だけが取り残された。
エルマーと、リアと、レオンハルト。
石畳に跳ね返る日差し。どこか遠くで鳥のさえずりが聞こえる。けれど、三人の間には妙にぎこちない沈黙が広がっていた。
言葉にするには少しだけ勇気がいる。けれど、何も言わずにいるには、心の重さがわずかに勝る――そんな空気だった。
それを破ったのは、レオンハルトの低く、控えめな声だった。
「……ごめん。僕、ずっと、あのことをリアに言わなくて……」
彼の眼差しはまっすぐではなく、足元の影を見つめるように落とされていた。
“あのこと”。それが、リアにはすぐに分かった。先ほどギルフォードが言った、レオンハルトと結婚する未来もあった、というあの事実のことだ。
リアはほんの少しだけ肩をすくめ、それからすぐに首を横に振った。
「レオは、何も悪くないよ。言えなかったっていうか……過ぎたことだし、言う必要もないって思ってたんだよね?」
「……うん」
レオンハルトの返事は、どこか息を詰めたように短かった。
リアは、小さく息を吐いてから、言葉を継いだ。
「私は、ただ……なんか不思議だっただけだよ。私の未来が、知らないところでいくつも用意されてたんだなって。それが、ちょっとだけ、変な感じがしたの」
レオンハルトは拳をぎゅっと握っていた。その手の震えはほんの僅かだったけれど、リアにはその細かな揺れが、痛いほど伝わってきた。
「それでも、僕は……結婚のことも、家のことも、言うべきだったって思う。こうして、リアにとっての他人から聞かされるくらいなら、たとえ言いにくくても、自分から言った方が良かった」
「レオ……」
「……ごめんね」
二度目の“ごめん”は、まっすぐに、空気の中にすっと溶けていった。
リアは何かを返そうと唇を開きかけたが、言葉が追いつかなかった。代わりに、そっと一歩、彼の隣へと歩み寄る。
そして、薄らと笑って言った。
「……じゃあ、これからは何でも教えてね。レオのこと、もっと知りたいって思ったから」
その言葉に、レオンハルトは一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに照れ隠しのように視線を逸らし、髪をかき上げるようにして静かに息を吐く。
「……うん。じゃあ、まず僕の嫌いな食べ物から……」
「そこからかよ!?」
「ふふ、うん。でも、確かに気になってたの」
思わず横から突っ込んだエルマーも合わせて、ふっと三人の口元に笑みが浮かぶ。その笑いはとても小さくて、けれど確かに心をほぐすような、あたたかいものだった。
目が合った二人の様子を、少し遠巻きに見ていたエルマーが、気まずそうに頬を掻いた。
「あー、なんか……解決して良かったな?」
「うん。……エル、いつもありがとう」
レオンハルトの返答に、エルマーがわざとらしく胸を撫で下ろす。大げさな仕草が可笑しくて、リアの唇にもまた笑みが戻った。
その時。
「おい、お前ら。飯でも食ってから帰るか」
奥から戻ってきたギルフォードの声に、全員が反応した。
「――ギル! 待ってました!!」
「は? うるせぇ」
弾けるような声で即答したエルマーに、リアとレオンハルトが同時に吹き出して笑い声が広がる。それは僅かな時間のことだったけれど、確かに重たかった空気が、少し解れていくのを感じた。
通り抜けた風が、鍛錬場の石畳の上を軽やかに流れていく。冷たくも、熱すぎもしない。ちょうどいい温度の、優しい風。
たった数刻の会話の中に、確かに変化はあった。それはまだ“特別”には遠く、言葉にするには拙いものだけれど、間違いなく、誰かを理解しようとする気持ちが芽吹いた証。
――きっとこれから、少しずつ育っていく。そんな予感を、三人の間に感じていた。
◇
鍛錬場を後にして、四人は里の広場を通り抜け、少し外れた場所にある古びたレストランへと足を運んだ。
「ここにすっか」
「お! いいじゃん! ここ、昔からあるよな」
「あぁ。ガキの頃からずっと変わんねぇ」
嬉しそうなエルマーの声に、ギルフォードが淡々と応じる。二人の言葉の間には、どこか懐かしさの滲む響きがあった。
石造りの建物は、年月の重みをそのまま纏ったような佇まいだった。蔦が壁面を這い、年季の入った木製の看板には、かすれながらも優しげな筆致で店の名が記されている。
近づくにつれて、ふんわりと香ばしい香りが鼻をくすぐった。パンが焼ける香り。ジュウ、と油の上で肉が焼ける音。リアは思わず足を止め、お腹の奥が小さく鳴るのを感じた。
「……わぁ、いい匂い」
「だろ? ここのパン、焼きたてが絶品なんだぜ」
「ふふ、そうなんだ。楽しみ」
店の扉を開けると、木の軋む音と共に、温かな空気が流れ込んでくる。木の柱と梁がむき出しになった内装は、どこか田舎の家のような素朴さがあり、客席はすでに昼時の賑わいで埋まりかけていた。
「こっちだ。お前は奥に座れ」
ギルフォードの言葉に、リアは「はい」と頷いて、一番奥の席へと歩を進めた。テーブルの上には素焼きの花瓶が置かれ、さりげなく野の花が挿してある。少しひんやりした木製の椅子に腰を下ろすと、その隣にギルフォードが無言で座り、向かいにはエルマーとレオンハルトが並んだ。
「じゃあ、僕は……魚のハーブ焼きにする」
「私はスープと、このお肉の料理にしようかな」
各々が好みのメイン料理を注文し、ギルフォードがアラカルトを手慣れた様子で数品選ぶと、店の老夫婦が手際よく皿を運びはじめた。
パン籠、香草バター、スープ、グリル肉、薄切りの魚の前菜――テーブルの上が、あっという間に香りと湯気で満たされていく。
「いただきます」
四人の声が揃った、その時だった。
――チリン。
扉の上の鈴が、小さく澄んだ音を響かせた。食事に向かいかけていたリアの手が、その音に自然と止まる。
「――あら、偶然ね」
涼やかな声が店内に届き、リアは思わず振り返った。
そこに立っていたのは、白銀の髪をきちんと結い上げた少女。立ち姿からして整いすぎていて、どこか空気の流れすら変わったように感じた。
リーゼロッテ。
隣には、柔らかな笑みを湛えた初老の男性――彼女の父がいた。
「ギルフォード様。お久しぶりでございますな」
「……ああ、お元気そうで」
ギルフォードはそっけなく答える。会釈を交わす二人の間に、過去の婚約という事実を思い出し、リアの胸の奥が少しざわついた。
リーゼロッテと父は軽く言葉を交わしたあと、リアたちとは少し離れた空いたテーブルに腰を下ろした。けれど、その距離は物理的には離れていても、空気の中にはどこか、かすかに緊張が漂っていた。
最後に会ったときの、あの言葉。
―― 『好きじゃないのなら、私にギルを返して』
涙に濡れた声が、リアの記憶に蘇る。あれから一度も会っていなかった。言葉を交わしていないのに、あの一言だけが、ずっと心のどこかに棘のように残っていた。
「……どうした」
低く投げられた声に、リアは我に返った。ギルフォードだった。
見ると、彼は無言でパン籠に手を伸ばし、焼きたてのパンを一つ、リアの皿にそっと置いた。
「へ? あ、ありがとうございます……」
戸惑いながら礼を言うと、今度は水差しを取って、リアのグラスに静かに水を注いでくれる。
「そんな、わざわざギルフォード様が……!」
「あ?」
慌てて小声で言うと、ギルフォードは面倒くさそうに眉をひそめた。
「こんなもん、誰がやったっていいだろ。……つぅか、そこからじゃ手ェ届かねぇだろうが」
ぶっきらぼうな言い方なのに、どこか優しさが滲むその仕草に、リアは小さく息を呑んだ。
「お前、意外と世話焼きだよな~。なぁ、リア。よかったな」
エルマーが茶化すように笑うと、リアは「も、もう……やめてよ!」と真っ赤になりながらも少し笑ってしまう。
「はは、ごめんごめん!」
彼の明るい笑い声に釣られて、向かいのレオンハルトも静かに笑った。
「ギルは、昔からそういうところあるよね。不器用ってやつ?」
「……てめぇら全員、うっせぇ!! 黙って食え!!」
耳を薄らと赤くしながらテーブルを叩くギルフォードに、三人は笑い声を重ねた。空気は少しずつ、柔らかく、あたたかくなっていく。
その瞬間だった。
リアは、ふと誰かの視線を感じて、反射的に顔を上げた。
――リーゼロッテ。
遠くの席から、彼女がこちらを見ていた。
食事中のふりをして、口元には柔らかな笑みさえ浮かべている。けれどその瞳だけが、まるで凪いだ湖面に張った薄氷のように、静かに、冷たく、揺れていた。
リアはすぐに目を逸らした。けれどその視線の温度だけは、確かに心に残っていた。
その後も、食卓はにぎやかだった。エルマーがパンを頬張って感想を述べ、レオンハルトが相槌を打ち、ギルフォードは黙ってナイフとフォークを動かす。何気ないひととき。それでも、だからこそ愛おしい。
――たとえ不確かな未来が待っていようとも、今は、こうして一緒に笑っていたいと思った。
「ここのパン、本当に美味しい……!」
「だよな!? 俺が言った通りだろ?」
「フン」
どこか得意げに鼻を鳴らすギルフォードの横顔を、リアは静かに見つめた。
するとその視線を追うように、もう一つの視線がゆっくりとリアに向けられていた。
――遠くの席で、リーゼロッテがまた一つ、ゆっくりと瞬きをした。
その眼差しは、何も語らず、何も問いかけてこない。けれど、そこには確かに、見ているという気配だけが漂っていた。
焼きたてのパンの匂いが、ふと遠のいたように感じた。