眩い
朝のキッチンは、どこを見てもパン、パン、またパン――つまり、見事なまでのサンドイッチ祭りだった。
「おっ、無くなってる」
キッチンの片隅に目をやったエルマーが、低く笑った。見ると、昨夜貼りつけておいたはずのメモは既に姿を消しており、サンドイッチの山も、目に見えて減っている。しかも減り方が明らかに三個以上、という感じだった。
「ふふ……」
水を飲みに来ていたリアは、それを見て思わず小さく微笑んでしまう。だって、昨夜――塔の上で、ギルフォードがあのサンドイッチを三つ、黙々と口に運んでいたのを、確かに自分は横で見ていたのだ。
夜風と紅茶の香りの中で、ただ黙って並んでいた時間が、不思議と胸の奥で柔らかくほどけていく。
リベイクしたトーストの香ばしい匂いと、ミルクティーの優しい湯気が漂う中で、誰も彼もが片手にサンドイッチを持ち、もくもくと頬張っている。ギルフォードは黙々と、レオンハルトは無愛想だけれど目を輝かせていた。エルマーとリアは、それを見て目を合わせて笑ったのだった。
「ギル、今日は僕と鍛錬場行くんだよね?」
三個目をもぐもぐと食べながら、レオンハルトがふと呟いた。ギルフォードは、手元のコーヒーに口をつけながら、軽く頷く。
「ああ、模擬戦の日だからな。つぅか、全員で行くぞ」
「……えっ、全員?」
リアは思わずパンを持った手を止めた。パンの端っこがちょっとだけ口元に触れていて、妙に間抜けな格好だったかもしれないけれど、そんなことを気にする余裕はなかった。
「それって私も、ですか?」
ギルフォードはこちらを見やり、まるで当然のような声で返す。
「たりめーだろ。お前だけ、ここに置いてくわけにはいかねぇだろうが」
その言葉に、リアはカップを持つ手が少しだけぎこちなくなった。けれど、その視線は冗談や冷たさではなく、ごく当たり前に一員として見ているようで――胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……はいっ、わかりました!」
まだ飲みきれていない紅茶を慌てて口に運びながら、リアは思い切り頷いたのだった。
◇
鍛錬場までの道のりは、まるで生活の奥の奥を覗いているような不思議な感覚だった。
中央広場を抜け、高級店が並ぶ通りを越えて、さらにその先。建物も人通りも少なくなってくると、どこか空気が違ってくる。静かで澄んでいて、けれどどこか緊張感を帯びたような匂いがする。
「なんだか、久しぶりだ」
「ここが……鍛錬場……」
ぽつりと呟いたレオンハルトの目線の先、たどり着いた先にあったのは、想像を軽く飛び越えるほどのスケールだった。
大きなドーム型の施設。中央が吹き抜けになっており、天井は開閉式なのだろう。朝の日差しが斜めに差し込み、円形の巨大なフィールドを照らしている。その地面には、竜の鱗を模した幾何学模様が緻密に刻まれていて、見ているだけで背筋が伸びる。
「すごく広いですね……!」
リアは思わず、あちこちをきょろきょろと見渡す。どこを見ても見慣れない風景で、目に入るものすべてが新鮮だった。
レオンハルトがそんなリアの様子をちらと見て、口元を緩める。
「人型の時に見ると大きいけど、竜型になるとちょうどいいくらいなんだよ」
「あ……そっか。みんな、竜型にもなれるんだもんね……」
零れたその言葉に、自分でも驚いた。アルバンが泣いて竜になってしまった日の記憶が、鮮明に脳裏をかすめる。あのとき感じた圧倒的な存在感と力――今、ここで戦う人たちは、そんな力を手の内に抱えているのだ。
――本当にこの中に入っていいのかな。
少しだけ不安が胸を掠めた、その瞬間だった。
「エルマー。そいつから、目ェ離すなよ」
ギルフォードの声が響いた。観覧席へ向かいかけたリアの背に、ぴしっと背筋が伸びる。
「毎回言われてっから、分かってるって!」
エルマーが苦笑しながら手をひらひらさせて見せる。
「まずはギルとレオの手合わせだから、リアは一緒に観覧席な。ほら、こっち」
「う、うんっ!」
言われるがまま、リアはエルマーと並んで座る。観覧席といっても簡素な石造りで、周囲を見下ろせるように階段状になっていた。
「リア、見るの初めてだろ」
「うん。これって、みんな竜型になって戦うの?」
「状況によるけど、ギルは剣も翼も、どっちも上手いからなぁ……レオもクセあるけど強いし、なかなか見応えあるぞ?」
ふふっと笑ったエルマーの横顔に、少しだけ悪戯っぽさが混じる。
その時、ドームの中心――模様の中央で、ギルフォードとレオンハルトが向かい合った。風がぴたりと止まり、周囲の空気が一瞬、きゅっと張りつめるように変わる。
「お、始まるぜ」
エルマーの小さな声と、どこか重々しい足音。
そして、ギルフォードが先に剣を抜いた。
その刃先が、朝の光を一閃させるようにして輝いた瞬間――リアの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
どこかゆったりとした空気をまとったレオンハルトと、普段と変わらず真剣な眼差しを浮かべるギルフォード。相反するような二人が、剣を構えて対峙する姿には、不思議な緊張感が漂っていた。
「レオの剣筋、しなやかで独特なんだよな。ギルもやりにくそうだ」
エルマーが頷きながら呟いたのとほぼ同時に、剣が交錯する鋭い音が響いた。
レオンハルトの剣は流れるように動き、ギルフォードの斬撃を受け流すようにしてかわしていく。防御と攻撃の間にある隙間がほとんどなく、見ているだけで目を奪われるようだった。
「レオン、いつもはあんなに静かなのに……」
「戦うときは別人だろ? あいつ、昔からそうなんだよ」
エルマーがどこか誇らしげに言うと、リアはふふっと小さく笑った。
ギルフォードも負けていなかった。体幹のぶれない動き、重心を正確に操る足さばき、無駄のない攻撃の数々――どれを取っても、まるで教科書のように洗練されていた。剣と剣が激しくぶつかり合い、何度も鋭い音が空に跳ねる。
リアはそのすべてを、目を瞬かせるのも惜しいほどの集中で見守っていた。
「なんか二人とも、戦い慣れてるんだね」
リアがぽつりと呟いた。目の前で繰り広げられる模擬戦はあまりにも洗練されていて、ただの力比べとはまるで違う。互いの動きを読み合い、瞬間の判断で流れが変わる。素人目にも、それがよく分かった。
「そりゃあなぁ。俺とレオは交代で従者としての仕事があるし、毎日は来れねーけど、ここでの鍛錬自体は日課みてぇなもんだからさ」
隣で模擬戦を見守っていたエルマーが、口角を緩める。
「ギルはなんだかんだで、ほぼ毎日来てるっぽいぜ。朝一だったり、仕事終わってから夜に来てたりとか……変態かってくらい熱心」
「えっ、そんなに……!?」
思わず声を上げたリアに、エルマーが肩をすくめてみせる。
「あいつは意地でもサボらねーからさ。毎日書類と向き合って、それ終わったら剣振って……寝てんのか心配になる理由も分かるだろ?」
「そっかぁ……」
思わず呟いたリアの声には、驚きと、それ以上の尊敬が混じっていた。いつも少し不機嫌そうで、ぶっきらぼうで、けれど誰よりも努力している――そんなギルフォードの姿が、今までよりもずっと鮮やかに浮かび上がる。
「ギルは完璧主義なんだよ。人にも、自分にもさ」
そう言って、エルマーがリアに向けてにかっと笑った。
ドームの中心へと視線を戻すと、変わらず剣を交えながらも、レオンハルトの表情には焦りの色がなかった。視線は静かで、敵の動きを正確に捉えている。
けれどその一方で、ギルフォードの眉間には徐々に険しさが浮かび始めていた。
「チッ……」
ギルフォードは息を一つ吐き、足を引く。その瞬間――空気が変わった。
「……変わるぞ」
エルマーがぽつりと呟き、ギルフォードの背中から音もなく羽が広がる。細かな鱗が一瞬で身体を覆い、眩い金の輝きが陽光を受けてきらめいた。
リアは、はっと息を呑む。
竜へと変化していく姿は恐ろしいものではなく、むしろ神秘的だった。長くしなやかな尾、しっかりと地を踏む脚、そしてその全身を包む光のような黄金の鱗。背中の翼が軽く広がるたびに、淡い風が周囲の空気を撫でていく。
「……すごい、綺麗……」
思わず漏れた自分の声に、リア自身が驚いた。
竜族という種に、心の奥のどこかで未だ抱いていた恐れや警戒――それは、ギルフォードの変身した姿を目にした瞬間、どこか遠くへ完璧に流れてしまった。力強さと気高さを湛えたその姿は、むしろ目が離せないほど美しかった。
隣でエルマーがくすりと笑う。
「ギルが竜型になるの、初めて見たもんな。怖くねぇか?」
「……うん。全然怖くない。むしろ――」
リアは頷きながら、金色に輝く竜を見つめる。
ギルフォードは竜の姿のまま、ひと息に飛び上がった。そのままレオンハルトの真上へと降りかかり、振り下ろす爪と翼が複雑に絡み合って繰り出される攻撃は、もはや戦いではなく舞にすら見えた。
二人の竜が宙を舞い、光の中を飛び交う姿は、まるで絵物語の一頁のようだった。鋭い爪がかすめ、翼がぶつかるたび、空気が震えるような音が響く。けれど、それはただの衝突ではなかった。互いを試し、信じ合っているからこそ成立する極限のやり取りだった。
やがて、ギルフォードが鋭く身を翻し、金の鱗が太陽を弾く。そのまま空中で一回転すると、レオンハルトの青い翼の死角からぐっと踏み込むように距離を詰め――
「っ!」
レオンハルトが僅かに体勢を崩した、その一瞬だった。ギルフォードの爪がレオンハルトの首元すれすれをかすめ、風を切る音だけが残る。観覧席にまで届くほどの鋭い動きに、リアは思わず息を呑む。
レオンハルトはすぐに空中で体勢を立て直したが、そのままふわりと翼をたたみ、静かに着地した。ギルフォードもまた空から舞い降りるように降り立ち、砂塵がふわりと舞う。
両者の間にあった空気が、ふっと緩んだ。
そして、鍛錬場の脇に立っていた数人の男性たち――簡素ながら上質なローブを着たその一団が、手元の札のようなものに何かを書き込み、頷き合うと、それぞれ指で丸を作って合図を送ってきた。模擬戦の終了の合図だった。
「もう、終わったみてえだな」
エルマーがぽつりと呟いた時には、ギルフォードとレオンハルトはもうこちらに歩いてきていた。竜の姿から人型に戻り、それぞれの顔には汗と砂が浮いているけれど、満足げな――何となく、楽しげな表情も見えた。
ギルフォードが目の前に来た瞬間、リアの胸の奥に湧き上がった思いを、つい口にしてしまう。
「あのっ、ギルフォード様……!」
「あ?」
「その、すごく綺麗でした。竜型のギルフォード様……鱗がキラキラ光ってて――」
その言葉に、ギルフォードの足がぴたりと止まった。
目を見開いた彼は、しばらくリアをじっと見たあと、まるで聞き間違えたかのように眉を顰める。
「……はぁ? てめぇ、何言って――」
言いかけた言葉が途切れた。
その赤い瞳が微かに揺れ、頬の端が、ほんの僅かに色づく。まるで目を逸らすように一度だけ咳払いをすると、ギルフォードは「あー…クソ」と低く呟いて、視線を泳がせたまま頭を掻いた。
言葉にならない何かが、たまに交わる視線からじんわりと伝わってくる気がした。
「意味分かんねぇ。普通は怖がんだろ」
「そんなことないです! 絶対、他の人も綺麗だって思ってますよ!」
「ンなこと言ってくんの、てめえくらいしかいねーわ」
リアは笑って、未だに頬が少し赤いままのギルフォードを見上げる。空はすっかり朝の色に染まり、さっきまでの激しさが嘘のように、鍛錬場に静けさが戻ってきていた。
一方、観覧席の近くではエルマーが両手を頭の後ろに組んで、ふぅっと息をつき、微笑ましげに目の前の光景を見守っていた。目を逸らさないまま、隣にいるレオンハルトに笑顔を向ける。
「いやー、すげぇ戦いだったわ。俺もそろそろ出番かと思ったけど、今日はお預けか?」
「……エルは後日、としか聞いてない」
レオンハルトが隣に腰を下ろしながら、相変わらず淡々とした調子で言う。
その時だった。
「レオンハルト様」
どこかから姿を現したのは、長身で恰幅の良い年配の男性だった。整えられた髭に、品のある黒の燕尾服。礼儀正しく、しかし親しげな眼差しで、ゆっくりと近づいてくる。
レオンハルトはその姿を見て、珍しく、ほんの僅かに眉を上げた。
「……シュトルツ」
「お元気そうで、何よりです。坊ちゃん」
そう言って、シュトルツと呼ばれた紳士が深々と頭を下げる。
「うわ、久々じゃん!」
「エルマー様、ご無沙汰しております。坊ちゃんと変わらずご親密なご様子を拝見し、私めは心より安堵いたしました」
「おー、固ってぇなぁ。レオん家の使用人って感じだぜ」
「有難きお言葉です」
エルマーが笑いながら挨拶を交わす横で、リアは初めて知る存在に、きょとんと目を丸くしていた。
レオンハルトはというと――分かりにくいながらも、目尻が少しだけ緩んだ。リアには、それが微笑みだと感じられた。瞳の奥に少し、穏やかな光を灯している。
「……別に、普通だよ」
シュトルツへ向けてそれだけ呟いた彼の声は、どこか照れたようにも聞こえた。