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おやすみ、の前に



 湯気を揺らす紅茶の香りが、夜のキッチンにほんのりと漂っていた。


 ギルフォードはカップを手にしたまま、しばらく紅茶に口をつけただけで、目の前のサンドイッチには一向に手を伸ばそうとしない。リアはそんな様子をちらりと見て、首を傾げる。食欲がないわけでもなさそうなのに――と、気にかけていたその時だった。


「まだ、起きてられるか」


 ふいに、ギルフォードが低く静かな声でそう言った。


「え……? はい」


 紅茶を口に運びかけていたリアは、驚いたように瞬きをしてから、意味も分からぬまま、こくりと頷いた。


 ギルフォードはそれを見届けると、ようやく重い腰を上げた。目の前に並ぶサンドイッチの中から三つを選び取り、持ち運び用のホットポットに残っていた紅茶を注ぎ足す。使っていたカップも一緒に、器用に小さな籠の中へ収めていく。


 手際は素早く、どこか慣れた様子だった。籠を軽く持ち上げたその手が、一度だけリアを振り返る。


「来い」

「は、はいっ」


 それだけ言って、すっと背を向けたギルフォードに、リアは慌てて立ち上がり、黙ってついて行く。


「外行くぞ」

「お外ですか? こんな時間から…?」

「この時間だから、だわ」


 向かった先は、再び書斎だった。扉を開けて入ると、ギルフォードは机の脇に掛けてあったブランケットに手を伸ばし、静かに持ち上げる。前回書斎に来た際に、リアが自室から持ち出して、眠ってしまっていたギルフォードへと掛けたものだった。

 彼は少しだけ迷うような仕草のあと、短く言葉を添えた。


「……返すの、遅れて悪かったな」

「いえ、大丈夫です。お気になさらず」


 リアはすぐに首を横に振って笑みを浮かべると、ギルフォードは「そうか」とだけ呟いて、籠の上へとブランケットを乗せる。そして、今度は黙って書斎を後にした。


 リアはその後ろを、やはり無言で追いかける。

 夜の屋敷を静かに歩き、たどり着いたのは最上階だ。今まで来たことのなかった廊下の先に、ひっそりと佇む扉があった。ギルフォードは鍵を外し、その扉を開けると、外気とともに夜の空気が流れ込む。


 広がっていたのは、屋敷の外壁に沿って作られた小さなバルコニーだった。

 そこからさらに、屋外の階段が伸びている。


「すごい。ここから塔に行けたんですね」

「あぁ」


 思わずそう呟いたリアに、ギルフォードは短く応じる。


 石造りの階段は、暗いながらもきちんと手入れされており、苔一つ見当たらない。鉄製の手すりもぐらつきはなく、風の音がかすかに鳴る中、ギルフォードの背を追いながらリアは一歩ずつ慎重に登っていく。


 やがて、塔のてっぺんに辿り着いた。


「わぁ……」


 そこには、まるで誰かのために用意されたかのような風除けのある小さなスペースと、木製のベンチが置かれていた。月明かりに照らされた石床が、ほんのりと青白く光っている。


 ギルフォードはベンチの前に籠を置くと、そのすぐ隣に腰を下ろした。リアも促されるようにして、端の方にそっと腰をかける。少し肌寒さを感じていると、ギルフォードが籠の中から先ほどのブランケットを取り出した。


「羽織れ。この気温じゃ、人間は寒ぃだろ」


 そう言いながら、何の前触れもなくヒラリとそれを広げる。声掛けと同時にブランケットの端を持ってリアの肩にかけ、もう一方を背中から回すようにして、ゆっくりと包み込んだ。


 驚きと戸惑いと、それ以上に込み上げる妙な温かさにリアは言葉を失う。視線を伏せながら、心臓の音を押し殺すようにして、ようやく絞り出すように答えた。


「あ、ありがとうございます……」

「風邪でも引かれたら面倒だからな」


 ギルフォードは何でもない顔でホットポットを開け、紅茶をカップに注ぐ。その香りが夜気の中にふわりと溶けていった。やがて、温かなカップがリアの手元に差し出される。


「ありがとうございます」

「こんなことで、いちいち礼なんかいらねーわ」

「……はい」


 少し笑いながら、礼を言ってカップを受け取り、リアが湯気をふっと吹く。隣ではギルフォードが無造作にチキンサンドを手に取って、気品は残しながらも豪快にかぶりついていた。


 リアはその様子を見て、ほっと胸を撫で下ろす。

 移した視線の先には、くっきりと瞬く満天の星空があった。


「……綺麗ですね」


 ぽつりと洩らしたリアの呟きに、ギルフォードは咀嚼をしながら目線を上げると、無造作に唇をぺろりと舐めた。


「悪くねぇだろ」

「はい」


 夜風に髪を揺らしながら、リアは頷いた。星々が無数に散る空の下、隣にいるその人の気配が、言葉よりもずっと確かに胸に響いていた。


「ここも、来たきゃ好きにすりゃいい」

「えっ、本当ですか…!? 嬉しいです!」

「ただし、防寒はしろよ」

「はい!……やっぱり竜族の方が寒さに強いんでしょうか?」

「そりゃあな。こんくらいの気温なら、別に何ともねえ」


 ぶっきらぼうに言いながらも、ギルフォードは二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。その横顔はどこかやわらかく、いつもよりずっと穏やかな気配を帯びていた。


「ギルフォード様は、ここによく来るんですか?」

「あ? まぁ……たまにな」

「ふぅん……夜だけですか?」

「てめぇは質問ばっかだな」


 紅茶の湯気がゆるやかに空へと昇っていくなか、二人の間に流れていたのは、言葉少なでも心地よい沈黙だった。


「だって、もっと竜族のこと知りたいんです」

「……そのうちな」


 静かで、美しい夜だった。

 その穏やかさは星の瞬きと同じように、胸の奥を優しく照らしていた。


 それからも、やわらかな風が塔の上をゆるりと吹き抜ける。

 リアの手元のカップからは、もう湯気は上がっていなかった。ギルフォードが注いでくれた紅茶も、ゆっくりと少しずつ、体の奥に染み込むようにしてなくなっていく。


 サンドイッチの包みも、いつの間にか軽くなっていた。ギルフォードは手元にあった最後のひと口を飲み込んでから、空になったカップをそっと籠の中へ戻した。


 しばらく夜空を眺めていたけれど、そんな塔の上の静けさに、気まぐれに鳥の声が紛れ込んできた。


「そろそろ戻るぞ」


 ふとしたように口にされたその一言に、リアはわずかに瞬きをして、それから小さく頷いた。


「……はい」


 立ち上がったギルフォードの後を追って、リアも身を起こす。夜気はまだ冷たく、肩に掛けられていたブランケットが頼もしかった。


 ゆっくりと階段を降りながら、二人の靴音が塔の壁に静かに反響する。言葉はなかったけれど沈黙の気まずさではなく、ただ満ち足りた夜の余韻だった。

 屋敷の廊下まで戻る頃には、リアの頬もほんのりと紅くなっていた。冷たさではなく、心に僅かに残っていたぬくもりのせいだ。


 リアの自室の前にたどり着くと、ギルフォードが立ち止まり、何も言わずにリアを見た。リアも、そっと振り返って顔を上げる。


「おやすみなさい、ギルフォード様」


 いつものように丁寧な言葉。でも、今夜のそれには、どこか少しだけ柔らかく笑むような気配があった。


 ギルフォードは一瞬だけ目を細めると、静かに息を吐いた。


「……おやすみ」


 その声も、どこか遠くにかすむように、けれど確かに優しかった。笑っているとは言いがたいけれど、唇の端が僅かながらに持ち上がっていて、それだけでリアは胸の奥にじんわりとしたものを抱いた。


 鍵のかかる音と、静かに閉じられる扉の気配。まだ暖かさの残るブランケットに触れながら、リアは静かにベッドへ向かう。


 そしてギルフォードは、部屋の中の音が止むのを確認してから、キッチンへ通ずる廊下の奥へとゆっくり歩き出した。

 眠るには惜しいほど、やわらかで、温かな夜だった。



 ギルフォードは書斎で書類に埋もれ、頭が重くなる深夜にいつも心が詰まる。そんな時は、こうして塔に登ることは珍しくない。彼は、昔から高い場所が好きだった。風が吹き抜け、規律や王宮の重圧が一瞬遠のく。星空の下の石のベンチに座れば、胸の鈍痛が少しだけ和らぐ気がした。


 普段なら一人で十分だ。静寂が彼の居場所だった。だが、リアの呑気な顔が視界に入った瞬間、胸の奥が騒ついた。面倒だと頭では拒むのに、なぜか「来い」と口が動いていた。


 星空を共に見るなんて、らしくもない。彼女が寒さで震えなければいいと思ったことでさえも、自分が自分ではないように感じた。



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