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親愛と切望の狭間②



 廊下を抜けて、自室へ戻ろうとした時だった。


 リアの足がふと止まる。

 視線の先にあったのは書斎の扉で、明かりが薄らと漏れていた。扉の向こうには、まだギルフォードがいるのだろうと分かる。


 彼から借りた恋愛小説の中にあった、一文が頭を過ぎった。


 ―― 『眩い瞳に映る我こそ、初めての真の自分であった』

 あの言葉の意味が、今夜は深く胸に染みる気がした。ギルフォードの目に映る自分は、どんなふうに見えているのだろう。


 そのとき、ふいに中から微かな物音がした。何かが落ちたような、紙の擦れる音。しかし、その後に、人が動くような気配はなかった。


「……失礼します」


 扉をそっとノックし、小さな声でそう言ってから、リアは静かに中を覗いた。


 ギルフォードは椅子に深く座り、腕を組んだまま眠っていた。いつもの鋭い眼差しではなく、少し眉間に皺を寄せて、それでも疲れを纏ったままの顔をしている。


 窓が少しだけ開いていて、冷たい夜気が入り込んでいた。そのせいで書類のいくつかが風に煽られ、床に舞い落ちているのが見えた。


「……っ」


 リアは、彼が無防備なまま眠っている姿を見るのは初めてだった。急いで部屋に戻り、予備のブランケットを手に取ってから、再び書斎へと駆け戻る。


 そっとギルフォードの肩へブランケットをかけ、書類を手早く集めてデスクの上に置いていく。ほんの少しだけでも――彼の役に立てた気がして、リアの胸は静かに満たされた。


「あっ……」


 けれど、彼の肩にかけたブランケットがずり落ちそうになって、思わず手を伸ばした時だった。


 ――すっと伸びてきた彼の手が、リアの手を捉えて、そのまま体が引き寄せられる。リアは、椅子に腰掛けたままのギルフォードの上に倒れ込みそうになるも、彼の肩に額をぶつけるような体制で踏み留まった。

 ギルフォードはまだ起き抜けで意識がはっきりいないのか、もう片方の手をリアの腰に回した。ツンと尖ったその鼻先を、何かを確かめるかのようにリアの掌にそっと付ける、


「――お前…」


 そして、聞こえてきたのは低く掠れた声。

 固く閉じられていたはずのギルフォードの目がゆっくりと開かれ、美しい赤い瞳が、まっすぐにリアを射抜いた。


「あいつの匂いがする」


 息が止まる。その一言で、リアの鼓動が跳ね上がった。

 あいつ、というのは、先ほどまで一緒にいたテオのことだろうか。竜族であれば、人間よりも鼻がいいのだと言われても、何ら不思議なことではない。


 リアがそんなことを考えている間にも、ギルフォードは目を伏せ、スンっと小さく鼻を鳴らす。


「っ……」


 ――何も言葉が出てこない。動けない。指一本さえ、動かせない。

 彼がこの距離にいるだけで、呼吸の仕方さえ分からなくなる。鼓動の音が耳を打って、自分の心臓の音しか聞こえなかった。このまま近くにいられたら、そのうち心臓が止まってしまうかもしれない。


 リアがそんなことを思った次の瞬間、意識が覚醒したらしいギルフォードの瞳が、一瞬だけ揺れた。

 感情を捨てたはずの男の中に、微かな動揺――いや、焦燥にも似たものが、確かに浮かんでいた。けれど、それもすぐに打ち消すように瞼を伏せ、彼は静かに手を離した。


 その衝撃でブランケットが床に滑り落ち、場に静寂が戻る。


「……悪りぃ」


 珍しくばつが悪そうな表情をしたギルフォードは、気まずそうに首の後ろを掻いた。


「私こそ、すみません。勝手に入ってしまって」

「いや……いい。勝手に来いっつったのは俺だからな」


 彼はそう言って、目を逸らすように髪を掻き上げた。

 その仕草すら、どうしようもなく格好よく見えてしまう自分に、リアは戸惑いを覚える。胸がバクバクと煩く騒いでいて、冷たい夜気が肌を撫でているはずなのに、どうしてか身体の芯が熱かった。


 さっきまで、あんなに温かかったテオとの時間。なのに今、ギルフォードの何気ない一言と指先の感触が、全部をかき乱して熱くしていく。

 テオの温もりは、安心で満たされた。けれどギルフォードの瞳に射抜かれたとき、胸の奥に灯った火は――名前のない熱だった。


 リアはそっとブランケットを拾い直し、改めてギルフォードの膝上へと掛ける。そして静かに、目を伏せて一礼した。


「おやすみなさい」


 その声は、微かに震えていた。ギルフォードの返事はなかったが、彼の瞳が幾らか優しく瞬いたのを見て、リアはそのまま部屋を出た。


 廊下に出ると、夜の空気が一層冷たく感じられる。それでも胸の奥は、火がついたように熱かった。


「……どうしちゃったんだろ、私」


 呟いたその声さえ、夜に吸い込まれていく。

 リアの心の中には、はっきりとした答えはまだなかった。けれど――確かに、今までとは違う感情が芽生え始めていた。



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