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銀の長老と嫁の力



「……本当に、話が違うんじゃないのか? リア!」


 谷の入り口に立ったまま、テオの声が風に乗ってリアの背に届いた。振り返ると、彼は馬車のそばに立ち尽くし、ぎゅっと唇を噛みしめながら、リアの方をまっすぐに見つめていた。その手は手綱を握ったまま離さず、まるで今すぐにでも彼女を連れ戻そうとするかのように、白くなるほど力がこもっていた。


 けれど──


「おい。さっさと行くぞ」


 ギルフォードの苛立った声が、リアの耳元で響いた。その手が、ためらう間もなくリアの腕を引く。冷たくはないけれど、強い力。彼は一切の躊躇を見せず、まるでこの先に待つすべてを当然のように受け入れているかのように、足早に谷の中へと歩を進めた。


 リアの視界から、テオの姿が霧に飲まれていく。最後に見えたのは、どこか悲しげに目を細めた彼の顔だった。言葉にはならなかったけれど、そのまなざしが確かに告げていた。「行くな」と。

 だけど、リアにはもう、引き返す場所も、立ち止まる理由もなかった。


 ギルフォードに腕を引かれながら、石の門を越えた瞬間、世界の空気が変わった。肌に触れる空気がひんやりと澄み、耳をすますと、どこかで水の流れる音がかすかに聞こえてくる。木々の葉擦れも、鳥のさえずりも、どこか現実離れした静けさに包まれていた。まるで時間がゆるやかに、深く、底へ沈んでいくような場所だった。


「ここが、竜の里……」


 リアが呟いた声に、ギルフォードは何の返事も返さず、ただ彼女を導くように、石畳の小道を無言で進んでいった。その背中は、まだ少年のものなのに、不思議と背負うものの重たさを感じさせた。

 歩くほどに、霧の奥からいくつもの建物が姿を現す。木と石を組み合わせて作られたその家々は、どれも竜の翼を模した装飾を持ち、竜族という存在がこの地に生きてきた歴史の重みを語っていた。


 そして──たどり着いたのは、ひときわ大きく、そして荘厳な建物だった。石造りのその屋敷は、屋根の端々に銀の鱗のような装飾があしらわれていて、入り口に掲げられた紋章には竜の双頭が描かれている。


「ルナのばーさん! 連れて来たぞ!」


 いきなりギルフォードが大声を張り上げた。里の静けさを打ち破るその声に、リアは思わず肩を跳ねさせたが、すぐに中からゆったりとした足音が響いてきた。


「叫ばなくても聞こえておるよ。おまえの声は谷の外まで届くからのう、ギルや」


 やがて現れたその人物──竜族の長老・ルナルディは、まるで霧の中から滑るように歩み出てきた。銀糸のように輝く長い髪が背中まで流れ落ちており、その間からは優雅に波打つ青銀の鱗──立派な翼が覗いていた。青白い瞳は柔らかく、けれどどこかすべてを見透かすような深さを湛えている。


 竜でありながら、どこか慈母にも似た雰囲気を持つその姿に、リアは思わず息をのんだ。


「えっと、あなたがルナ様……ですか?」

「正式にはルナルディじゃが、まあ、ルナのばーさんで通っておる。人の名は長すぎると忘れられるからの」


 くすりと笑ったその声は、鈴のように耳に心地よく響いた。


「勝手に短くしたのは、ばーさんだろ」


 ギルフォードが不機嫌そうに呟いたが、ルナルディは軽く肩をすくめるだけで、特に気にした様子もなかった。


「さて、リアというたな。遠いところをよく来てくれた。まだ訳が分からぬじゃろうが、まずは座って話を聞いてくれ。こっちじゃ」


 通された部屋には、丸い石の卓と、その周囲に並んだ背の低い椅子がいくつか置かれていた。窓の外には、小さな池とその周りを囲む薬草園が広がっており、透明な水面には小さな魚が遊ぶ姿が見える。静かで、穏やかな空間だった。


 リアが席につくと、ルナルディは指を鳴らし、棚の奥から温かな湯気の立つ茶を運ばせた。香ばしい匂いが立ち上り、ほんの少し、緊張していた肩の力が抜ける。


「まずは、お主の力について話さねばならぬ。竜族と人間を結ぶ“嫁”には、必ず一つ、“不思議な力”があるのじゃ。そしてそれが、同盟の礎となる」

「私の力……?」


 リアが思わず呟くと、ルナルディは静かに頷いた。


「知っておるぞ。動物の言葉が分かる、と」


 その一言に、リアの胸がわずかに強く打たれた。誰かに漏れているだなんて思いもしなかった。しかも、まさか自分のその力が、何百年も前の“約束”に関わるとは思いもしなかった。


「それは些細なものに思えるかもしれんが……この地では、まだ目覚めぬ竜の言葉を聞く力にも繋がるかもしれん。かつては治癒、あるいは未来視。時に、死を避ける声を聞いた者もいた。力の形は、時代とともに変わるのじゃ」

「そんな、私には、ただ……動物が話しかけてくるだけです」


 リアは、手の中の湯飲みに目を落とした。湯気の向こうで、ギルフォードがふてくされたように肘をついているのが見える。

 ルナルディはどちらのことも気にも止めず、のんびりとした声で話を続ける。


「それで十分よ。竜は、言葉を持たぬ存在と思われがちじゃが、強い竜ほど感情を言葉にできぬ。お主のように“耳を傾ける力”は、今のこの時代にこそ必要なのじゃ」

「動物の言葉聞けるっつったって、んなもんどこで役立つんだよ」

「ギルフォード」


 ルナルディの声が、すっと低く響いた。その瞬間、ギルフォードは何かに気づいたように顔を背け、黙り込んだ。


「軽んじるな。力の真価は、戦うためだけにあるのではない。心を結ぶ者がいてこそ、世界は動くのじゃ」


 リアは、その言葉を胸に静かに受け止めた。


 まだ何もわからない。ただ、不安も戸惑いも、すべて霧の中だ。けれど──何かが、ここから始まろうとしている。それだけは、はっきりと感じていた。



「とりあえず、今日はもう休みなさいな。明日は里の中を案内してあげるとしよう。まずは、この土地の空気に慣れることじゃ」


 湯飲みを片付けながら、ルナルディはゆったりと微笑み、そう言った。その穏やかな声に、ようやくリアはほんの少しだけ、緊張していた肩の力を抜くことができた。何もかもが想像していたよりもずっと複雑で、ずっと大きくて──けれど、完全に拒まれているわけではない、ということだけは、伝わってきた気がする。


 ギルフォードはというと、ルナルディの言葉に無言で頷き、すっかり冷めた茶を一気に飲み干すと、椅子を引いて立ち上がった。


「ついてこい」


 それだけ言って、また先に立って歩き出す。まるで風に押される葉のように、リアは慌ててその背を追いかけた。何度か呼び止めようか迷ったけれど、ギルフォードの背中からは話しかけるなとでも言いたげな雰囲気がにじんでいて、どうしても声が出なかった。


 石畳の道を歩くうち、空は少しずつ淡い青紫に染まり始めていた。谷の夜は早い。樹々の間からかすかに夜鳥の声が聞こえてきて、どこか幻想的な気配が辺りを包み込んでいる。


 そのとき──


「あら、こんにちは」


 不意に、柔らかく響いた声に、リアははっと顔を上げた。


 ギルフォードのすぐ後ろにいたはずなのに、知らぬ間に横に並ばれていたのは、見目麗しい竜族の少女だった。白銀の髪が月の光を受けて淡く輝き、紫の瞳が、どこか含みのある優しさを湛えてリアを見つめていた。


「あなたが、約束の──人間の方かしら?」


 その問いかけはまるで、純粋な好奇心から発せられたようにも、あるいは何かを確かめるための探りのようにも聞こえた。けれど、彼女の笑みは非常に整っていて、まるで舞台の上で完璧に仕上げられた所作のようだった。


「は、はい。リアです、えっと……人間で、その。嫁に……」


 言葉に詰まりながらも何とか名乗ると、少女はやわらかく目を細めた。


「ふふ、そんなに緊張しないで。私はリーゼロッテ。気軽に“リーゼ”って呼んでちょうだい」


 どこかふわりとした、でも目の奥には鋭さのある笑顔。その笑みには、竜族という種族の気品と誇りがにじんでいて、けれど、リアに対して敵意や嫌悪は感じられなかった。ただ……何かを観察するような、そんな目だった。

 リアは、リーゼロッテの笑顔を見て、少し緊張がほぐれるのを感じた。


「はい。……よろしくお願いします、リーゼさん」

「うん、こちらこそ。それにしても、あなた、意外と可愛いのね。だから、ギルも悪くない目をしてたのかしら?」


 からかうように笑いながら、リーゼロッテが冗談めかしてつぶやいたその瞬間──


「ちんたらすんな。行くぞ」


 唐突にギルフォードがリアの腕を掴み、そのまま強引に歩き出した。戸惑うリアの声も聞かず、まるで彼女を連れ去るかのように。


「あ……あの……! ちょっと……!」

「話してる暇はねぇ。そもそも、あいつは話が長ぇんだよ」


 振り返ると、リーゼロッテがわずかに眉をひそめ、けれどすぐにまた涼やかな笑顔を浮かべて軽く手を振っていた。何かを飲み込むようなその仕草に、リアの胸の奥が微かにざわついた。何か、うまく言葉にできないものが、彼女とギルフォードの間に存在している気がした。


 ──そして、たどり着いた屋敷は。


「……えっ」


 リアは、思わず声を漏らした。


 霧の中にそびえ立つそれは、まるで一つの城のようだった。石と金属で組まれた重厚な扉、天高く伸びる塔、複雑な模様が刻まれた窓の数々。ここが個人の家だとは信じがたいほどに、豪奢で、威圧的で、けれどどこか寂しげでもあった。


「ここがお家なんですか……?」

「次期指導者なんだから、こんくらい当たり前だろ」

「いやでも、それにしても大きいと言うか」


 リアの反応を見て、ギルフォードはどこか気まずそうに肩をすくめた。照れ隠しのようにも、あるいは当たり前の顔をしていたいがための虚勢のようにも見える。だが確かに、彼はこの場所に生き、この重みを背負ってきたのだと、リアは実感した。


 広い玄関を抜け、豪奢な廊下を通って通されたのは、屋敷の一室──とは思えないほど広い個室だった。ふかふかの絨毯に、ギルフォードの瞳と同じ深紅の天蓋が揺れるベッド。窓辺には机と椅子、棚には見知らぬ言葉で書かれた本が並んでいる。


「この部屋はお前にやる、物も全部好きに使え。後で俺の従者が来るから、それまで大人しくしてろ」


 その言葉を最後に、ギルフォードはふいにくるりと踵を返し、何の説明も残さず部屋を出て行った。去っていく彼の足音が遠ざかっていくのを、リアはただ黙って見送った。

 広すぎる部屋に一人取り残されると、ふと胸の奥に冷たい風が吹き込んだ気がした。見知らぬ文化、言葉、常識。そして──誰も、いない。


 窓の外では、夜の霧が濃く渦を巻いていた。竜の谷は、夜になると霧が深くなるのかもしれない。昼とは違う気配が、眠りを誘っていた。

 リアは、部屋の中央に置かれた大きなベッドに歩み寄り、ためらいながら腰を下ろした。柔らかな布団が体を包み込むように沈み、目を閉じると、さっきまでのすべてが夢だったような気がしてくる。


 テオは、今も外で待っているのだろうか。あの時、何か言いかけていた気がする。でも、もう──戻れない。


 眠るつもりはなかったのに。まぶたが、ゆっくりと重たくなっていく。

 やがて、静寂の中、リアは初めての竜の夜に、深く意識を沈めていった。



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