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欠伸と未練を噛み殺す①



 朝の空気には、昨夜の名残が、まだ微かに漂っていた。


 夜遅くまで片付けに追われていたギルフォードたちは、どことなく動きが鈍く、欠伸を噛み殺しながら朝食の席に着いていた。騒がしかった中庭は最低限まで整えられていたが、どこか祭りのあとの余白のようなものが残り、屋敷全体が少しだけ緩んでいた。


 食堂には、温かいスープと少し厚めに切られたパン、炙った野菜と魚の香りが漂っていた。昨夜の賑わいが嘘のように、静かで穏やかな時間が流れていく。


 そんな中、いち早く朝食を終えて、テーブルの端でスプーンを置いたアイザックが意を決したように立ち上がった。そして少し歩を進めてから、ギルフォードの方へと向き直る。


「……あの」


 低く控えめな声に、ギルフォードがスープの器から視線を上げた。声の主を確かめるでもなく、じっと目を合わせる。


「なんだ」


 なぜか、沈黙が落ちた。


 テーブルを囲んでいた者たちが一斉に動きを止め、ふたりの間に漂う微妙な空気を感じ取る。誰かが息を飲み、誰かが口元を手で覆った。


 視線を合わせたまま、数拍。

 アイザックは小さく咳払いをして、気まずそうに視線を逸らしながら呟いた。


「……なんか、俺でも手伝えること、ないか。何もせずに置いてもらうのも……ちょっと、落ち着かなくて」


 口に出すと同時に、肩が少しすくんだ。真っ直ぐに見据えるギルフォードの目は、まるで何かを測るように真剣だったからだ。


 だがその目が、ふいに僅かに見開かれる。

 意外だった、という風でもあり、ほんの少し――柔らかくなったようにも見えた。けれどそれはすぐに、いつもの不機嫌そうな表情へと戻る。


「客が、んなこと気にしてんじゃねぇよ」


 ぶっきらぼうに吐き捨てるように言ったギルフォードの声は、少しだけ熱を持っていた。


 その言葉にアイザックが返事をするより早く、隣でデザートのように果実を齧っていたレオンハルトが、ぽそりと口を挟む。


「あ。それなら、花壇の掃除手伝ってもらえますか」

「今、気にすんなっつー流れじゃなかったか!?」


 エルマーの声が一段階上がった。思わずリアが吹き出し、ギルフォードが手で顔を覆う。


「でも、猫の手も借りたい状態だからなあ」


 のんびりと、レオンハルトがそう呟く。ギルフォードはもう何も言わなかった。ただ、肩を小さくすくめたまま、匙をスープに沈めた。

 その間に、アイザックは無言でレオンハルトの前へと歩を進めていた。


「分かった。よろしく」

「こちらこそ。助かります」


 レオンハルトは淡々と笑みを浮かべると、今度はテオの方を振り返る。


「貴方も、手伝ってもらえますか」


 一瞬、テオは目を見開いたが、すぐに目を伏せ、小さく頷いた。


「あぁ」


 声音は、昨夜よりもさらに沈んで聞こえた。リアの変化を目の当たりにした彼の胸には、まだ言葉にできない何かが残っていたのだろう。けれど、頼られたことを拒むような性格でもない。

 その様子を横目に見ながら、アイザックは黙って彼の肩を軽く叩いた。そして、先を歩き出したレオンハルトの背に、二人して続いていった。


 そうして場に残されたのは、ギルフォード、エルマー、そしてリアだった。去っていく三人の背を見送りながら、エルマーが堪えきれずに吹き出す。


「レオ、あいつやっぱ面白れぇなあ。間合いもタイミングもお構いなしだもんな」


 リアも、苦笑しながら頷いた。


「でも、それで少し空気が軽くなったかも。ありがとうって、あとで言っておこうかな」


 そのとき――


「おい」


 唐突に、ギルフォードの低い声が響いた。

 リアが顔を向けるより早く、彼は椅子を引いて立ち上がり、迷いなく歩き出していた。彼女を待つ様子もなく、ただ真っ直ぐに扉へ向かう。


 リアとエルマーは、思わず目を見合わせる。


「え、ええと……」


 エルマーが肩をすくめる。


「着いて来いってことだろ。ほら、早く行ってこい」


 その言葉に、リアは小さく息をつきながら、慌てて椅子を引いた。


「すぐ行きます」


 ギルフォードの背中が食堂の扉を抜ける寸前、リアはそのあとを追って駆け出した。朝の光の中に、二人の影が連なっていく。



 廊下を抜け、重厚な扉の前で足を止めたとき、リアは一度、小さく息を吸い込んだ。

 ギルフォードが開け放ったその先――そこは、以前タルトを届けたときに一度だけ足を踏み入れた、彼の書斎だった。


 相変わらずの、本の森。

 視線を向けた瞬間、あまりの量に目が眩むほどだ。高い天井まで届く本棚にはぎっしりと書物が並び、隙間を埋めるように革装丁の分厚い本や、古びた地図巻物までが立てかけられている。窓から差し込む朝の光は淡く、書斎全体に淡い金色のフィルターをかけていた。


 ギルフォードはといえば、その光を背に受けながら、すでにひとつの棚の前に立っていた。


 彼の白金の髪が、朝日を浴びてほんのりと光を帯びて見える。その横顔は、鋭い輪郭に長い睫毛が影を落とし、見慣れているはずなのに、ふと息を呑みそうになるほど美しかった。黒を基調とした服が、その端正な顔立ちと無駄のない体の線を一層際立たせている。


「お前、どのくらい文字読めるようになった」


 突然の問いかけに、リアは小さく肩を揺らす。


「え? あ……」


 慌てて彼のもとへ歩み寄ると、ギルフォードはひとつの本を手に取って、無言のままリアへと差し出した。

 革表紙の古びた本だった。受け取ると同時に、彼はもう一歩、こちらに寄ってきて――


「……っ」


 本の頁を開いた瞬間、すぐ隣からギルフォードが身を寄せ、覗き込んできた。


 ――ち、近い……!

 思わず息を詰めたリアの頬が、少しだけ熱くなる。肩が触れるほどの距離。ギルフォードはそんな彼女の緊張など露ほども気にした様子はなく、真剣な顔で本の文字を指先でなぞった。


「これは読めるか」

「は、はい。なんとか」

「じゃ、こっちは?」


 頁を捲る彼の指は長くしなやかで、それでいて節張っており、男らしさと気品を兼ね備えていた。どこまでも丁寧で、余計な動きは一切ない。リアは自分の心臓が、文字ではなく彼の指に反応しているのを自覚してしまい、内心焦りながらも言葉を返す。


「これも……ちゃんと見れば、読めます」

「そうか」


 あくまで落ち着いた声。けれどその頷き方は、ほんの少しだけ満足げだった。

 ギルフォードは再び視線を本棚へと戻しながら、口調は変えずに尋ねる。


「どんな本がいい」

「えっと……歴史とか、文化とか……」

「はぁ? そうじゃなくて、お前の好きなもんを聞いてんだよ」


 冷ややかな声に、リアは思わず頬を掻いてしまう。いつだって彼は、そういう言い方をするのだ。


「好きな……」


 少し考えたあと、ぽつりと口にする。


「それなら、恋物語とか、冒険物語が好きです」


 言葉を聞いたギルフォードは、僅かにリアに目を向けたが、すぐにふいと視線を逸らし、隣の棚に足を向ける。細かく並んだ装丁の中から、何冊かにさっと目を通した。


「なら、ここ。この本棚のなら読みやすいだろ」

「ありがとうございます……」

「好きなの持ってけ。分かんねえ部分とか、追加が欲しけりゃ勝手に来い」


 ぶっきらぼうだが、その声にはどこか柔らかさがあった。


 リアが棚から上下巻の本を二冊選ぶと、ギルフォードは既に部屋の奥、木製の重厚なデスクへと向かっていた。彼の背に合わせたように、椅子も深く沈むような音を立てる。

 彼は書類の束を手に取り、ぱらぱらと捲りながら、手元の判で淡々と印を押していく。その所作は迷いなく、効率的で、けれど気高いものを感じさせた。


 リアはしばらくその音を聞きながら、静かに本を抱えた。


「……あの、これにします」


 声に反応するように、ギルフォードが一瞬だけ目線を上げる。彼の深く澄んだ赤い瞳は光を吸い込むように静かで、どこか凍るような冷たさを秘めながらも、不思議と惹きつけられる。


 その目が、ふと瞬き、頷いた。

 リアは小さく笑いながら、一歩だけ下がる。


「ありがとうございます」


 そう言って、一礼し、書斎を後にする。

 扉が閉まる寸前、まだあの静かな紙の音が、部屋の奥で続いていた。



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