澱む本音と夜空の煌めき
三週間が経った竜族の里での暮らしは、戸惑いと安堵が交互に押し寄せる日々だった。初めのうちは何もかもが新鮮で、見るもの聞くものすべてに身構えていたが、今では少しずつ視線を逸らさずに話せる相手が増えてきた。エルマーはいつも優しく、レオンハルトはふとしたときに気を配ってくれる。ギルフォードとも、表情の奥にあるものを少しだけ読み取れるようになってきた気がする。
そんな、陽が高く昇った真昼間のことだった。
自室の書籍の片づけをしていると、エルマーが戸口から顔を覗かせた。
「リア! 門番から伝言があってよ、お前に客人だそうだ。どうも少し揉めてるみてえで……心当たり、あるか?」
「客人?」
リアは手を拭きながら首を傾げた。こんな山奥の、しかも竜族しか住まない里に訪ねてくる人間など、そうそういない。考えたくない予感がよぎる。――もしや。
「俺も一緒に行くから、とりあえず向かってみるか」
エルマーに促され、里の門へと足を速める。門へ向かう道すがら、リアの胸の奥で何かが小さく軋んでいた。
そして、門が見えてきたそのときだった。
「お? あれ、人間だな」
「あ……っ!?」
遠目にも分かるその姿に、リアは思わず足を止めた。複数の竜族の門番と向き合い、血相を変えて何事かを捲し立てているのは、兄のアイザックだった。そのすぐ隣に、少し気まずそうな表情を浮かべているのは、幼馴染のテオだ。
門番とアイザックが何やら言い合っている最中、リアの姿に気づいたテオが血相を変えて叫んだ。
「リア! 無事か!?」
「……お兄ちゃん、テオ……」
リアの声はほとんど掠れていた。
アイザックが振り返り、リアの姿を見つけた瞬間、目を見開いた。
「リア!」
その叫びとともに、門を抜けて走り寄ってくる。門番が止めようとしたが、リアが慌てて手を挙げて制止した。
「大丈夫です! 知り合いです!」
リアの許可に、門番たちは不承不承道をあけた。
「ちょっと二人とも、なんでこんな山奥に……」
「お前こそ、こんなところで何してんだよ! まったく話が違うだろうが!」
リアが口を開く間もなく、アイザックの怒声が飛んだ。
「生贄だって聞かされて、何がどうなっても良いから乗り込もうとしたら……戻って来たテオは結婚するんだって言うし……どうなってるんだ!? こんなところに連れてこられて、お前……無理やり――」
「ねぇ、一旦待ってよ!」
リアの声が重なり、兄の言葉を遮った。胸の奥が熱くなっていた。会いたかった。だけど、来て欲しくなかった。
言葉がうまく出てこないまま、リアは一歩、兄に歩み寄った。
「……無理やりじゃない、ちゃんと家で話したでしょ。あの時、私は自分の意思でここに来たの」
「だから、そんなのに納得してるのがおかしいだろ……!」
アイザックの声には怒りだけじゃなく、明らかに怯えが混じっていた。大切な妹が、何かに囚われているんじゃないか。連れ戻さなければ取り返しがつかなくなるんじゃないか。――そんな不安が、言葉の隙間に滲んでいた。
その隣で、テオは何も言わない。ただ、ただ黙って、リアを見つめていた。軽口も冗談もない、その目には、まっすぐな想いが宿っていた。
「リア……お願いだから、一緒に帰ろう」
言葉の奥にある、長い後悔と、今の願い。そのすべてが、たった一言に詰まっていた。
「村の奴らは後悔してる。俺だって、今でもお前を――」
「ごめんね」
リアは首を横に振った。頬に当たる風が、やけに冷たかった。
「私は、まだここにいたい。まだ何も出来はしないのに、周りの人にすごく優しくしてもらってる」
「だからって……」
「……それに、私……ずっと、自分の力を隠してきたの」
小さく吐き出すように、言葉を重ねた。
「お兄ちゃんにもテオにも、誰にも言えなかったけど、動物と話すことができるの」
「何、言ってるんだよ」
「それも、ここでは隠さなくていい。動物とも、竜とも……人とも、ちゃんと向き合える」
それは、自分を認めることと同じだった。
兄とテオは、確かに彼女にとって大切な存在だ。けれど、今ここにいる竜族の人々も、リアにとっては大切な存在になりつつある。それに過去に戻ればまた、力を押し殺して、何も聞こえないふりをして生きる日々が待っている――ここでのすべてを捨ててしまうには、この里で過ごした時間があまりにも、あたたかすぎた。
「……置いていかねぇからな」
アイザックが低く呟いた。テオも口を閉じたまま、視線を逸らさない。
「お前がいくら納得してるって言っても、俺たちは納得してお前を送り出したわけじゃない。ここまで来たのだって……リア、お前が生きてるって、信じたかったんだよ」
「お兄ちゃん……」
「それで、今こうして生きてる。なら、戻ってきてくれ」
その言葉に、リアの心が強く揺れた。
この里に居たいと願う気持ちと、二人の想いに応えたいと願う気持ち。その間で引き裂かれそうになりながら、リアはただ――しばらく、何も言えずに立ち尽くしていた。
◇
門前での騒動がひと段落したあと、誰も口を開かずにいた。
重たい沈黙が張り詰めた空気を押しつけてくる中、それをかき回すように、エルマーが気まずそうに前へ出た。
「悪りぃ、えっと……リアの兄ちゃん、だよな?」
頭を掻きながら、声を少し低くして続ける。
「心配なのは分かる。竜族と人間は、今も仲が良いとは言えねえからよ。こうして里に踏み込んでくれただけでも、気持ちは伝わってんだ」
真正面からぶつかるだけでは、きっと何も伝わらない。エルマーの言葉には、そうした場慣れの気遣いが滲んでいた。
アイザックは腕を組んだまま、無言でその言葉を飲み込む。
テオは一歩引いた位置で、視線を地面に落としながら、ゆっくりと頷いた。けれどその目は、リアから離れていなかった。
リアはそっと息を吸い込み、慎重に言葉を紡ぐ。
「一度、ちゃんと話そう。里にいれるように、私からルナルディ様にお願いしてみるから」
「おう、それがいいな」
エルマーが笑って頷き、四人はそのまま里の奥、ルナルディの屋敷へと歩を進めた。
屋敷の空気には、いつもの静けさの中に、どこか鋭い緊張が漂っていた。高い天井から差し込む光が、磨かれた床に淡く映っている。その中央、椅子に腰を下ろしたルナルディが、ゆっくりと口を開いた。
「では、ギルが到着するまで、少し待っていておくれ」
「ギル……って奴は」
アイザックの問いに、ルナルディはあっさりと答えた。
「この里の、次の王。リアの婿になる男じゃ」
それを聞いた途端、テオの顔色が変わった。肩が強張り、ぎゅっと指先が袖を掴んでいるのが見えた。テオは、リアの横で、ギルフォードが到着するまでの時間が酷く長く感じられた。
「つまり、お前たちはリアを連れ戻しに来たということで間違いないな?」
ルナルディの問いは静かだが、圧がある。人間である彼らに対しても、決して感情で揺れることのない長老としての姿勢が、そこにあった。
「……妹が生贄として送られたと聞いたら、兄として黙っていられるはずがないだろう」
「ふむ」
アイザックの声には、怒りと焦りと、それからどこか責任の所在を探すような迷いがにじんでいた。
テオも唇を動かしかけたが、結局言葉にはならず、ただ静かにリアを見た。
「リアは、自分の意志でここに来た。わしらはそう判断しておる」
ルナルディがそう返したとき、扉が音もなく開いた。ギルフォードが現れ、エルマーがどこかほっとしたように名を呼ぶ。
「ギル」
エルマーに名を呼ばれたギルフォードは、ルナルディに軽く会釈し、何も言わずにリアの隣へと歩み寄った。そして、一概するように周囲を見回す姿を見た瞬間、アイザックの目が鋭く細まる。
空気が一気に張り詰めた。リアは思わず息を止める。
沈黙が一拍――そして、ギルフォードが低く言った。
「諦めろ」
その言葉に、場の空気が鋭く震えた。
「……はぁ!?」
即座にアイザックが声を荒げ、立ち上がる。
「規約の通りだ。こいつはもう、俺の嫁になることが決まってんだよ」
ギルフォードの言葉は、まるで鎧のように、無駄な感情を削ぎ落としていた。
「ふざけんな! 人のこと、なんだと思ってんだよ!?」
「……政略結婚なんざ、よくある話だろうが」
吐き捨てるように言いながらも、ギルフォードの声は一瞬だけ揺れる。リアとエルマーには、それが分かった。
きっと、全てを完全に割り切れているわけじゃない。言い聞かせているだけだ。けれど彼は、その揺らぎを押し殺すように言葉を重ねる。
「こっちはとっくに受け入れてんだよ。何も考えずに生きてきた奴が、一時の感情でゴタゴタ言ってんじゃねえ」
瞬間、リアの中で何かが凍る。
ギルフォードの瞳は真っ直ぐだった。けれど、どこか突き放すようで、距離が遠かった。
“政略結婚”――“受け入れた”――“何も考えずに生きてきた奴”。そのどれもが、まるで、自分は感情なんて持たないと言い聞かせているように聞こえたのだ。
リアは思う。ギルフォードにとって自分は、ただの条件の一部なのだろうか。
ここでの暮らしも、感情も、全部を受け入れたように見せかけて、その実、何も信じていないのだとしたら――考えれば考えるほど、目の奥が痛んだ。
「この野郎……!」
アイザックが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。ギルフォードも一歩も引かずに睨み返す。
ぶつかり合う寸前で――
「落ち着け、皆の衆」
ルナルディの声が場を凍らせた。
低く、しかし絶対的な静けさを纏ったその一言で、怒声が飲み込まれる。アイザックは奥歯を噛み締めて拳を下ろし、ギルフォードは何も言わずに目を伏せた。
リアはそのあいだ、ただ拳を握ったまま、ひとことも発せずに俯いていた。
――数時間後、事態の収拾のため、アイザックとテオは一時的な滞在者としてギルフォードの屋敷に泊まることになった。
日が傾き始めた頃、彼らの荷物が運び込まれ、空き部屋の支度が整えられる。客間の窓には、薄い夕陽の光がかかっていた。
エルマーが廊下でそれを見送りながら、ぽつりとつぶやいた。
「こりゃあ……何日かは、胃が痛ぇな」
リアは、返す言葉を持たなかった。
笑おうとして、うまくいかなかった。屋敷の空気が、少しずつ少しずつ、見えない霧のように重くなっていくのを、ただ肌で感じていた。
◇
その日の夕餉は、まるで儀式のように静かに淡々と進んだ。
長い大理石の食卓を囲んだのは、ギルフォード、エルマー、レオンハルト、リア。そして、アイザックとテオだ、
天井の梁から吊るされた灯りは揺れる火の影を壁に投げ、部屋全体を温かく包み込むはずの光は、所在なげだった。
「お召し上がりください」
レオンハルトが用意した食事は、焼いた根菜に薄く切られた干し肉、香草の浮いた澄んだスープ。それだけだった。皿に彩りはなく、香りも控えめで、湯気が静かに立ち昇っているのみ。
「レオ、ありがとう。いただきます」
最初に手を付けたのはリアだった。静かに、あくまで自然な仕草で、誰かがその合図を待っていたかのように全員がそれに倣う。
根菜をひと口かじったテオの眉が、僅かに動いた。アイザックもまた、干し肉を噛みしめながら、視線だけでリアに問いかける。
――これが、普段の暮らしなのか?
気付いたリアは、小さく頷いてみせた。贅沢も飾り気もない、けれど静かで無駄のない食卓。竜たちは、そういう営みの中で生きているのだ。
皿が触れ合う音が、ぽつりぽつりと響く。誰も口を開かない。必要な会話さえ、ここでは後回しにされていた。
重たく沈んだ空気の中で、リアはスープの器を両手で包みながら、自分の呼吸の音すら気になっていた。それでも、時間は過ぎていく。空気が重くても、日々は止まらない。
その不思議な現実感だけが、リアの胸の奥を鈍く揺らしていた。
夕食が終わったあと、後片づけも早々に済まされると、テオがぽつりと声を落とした。
「……少し、外を歩いてもいいか?」
「あまり遠くには行かれないのなら」
レオンハルトの返事を聞き、「俺も行く」と言いながら立ち上がりかけたアイザックを、テオはそっと手で制した。
「リア。少しだけ、話したい」
「うん、いいよ」
短く、それだけだった。けれど、それ以上の言葉は必要なかった。アイザックは押し黙ったまま座り直し、リアは静かに頷いて立ち上がった。ギルフォードは、静かにそのやりとりを見ていた。
外に出ると、空には濃い群青の夜が広がっていた。
竜の里は、夜になると昼以上に静寂が濃くなる。人の営みのような雑踏も、灯りの喧騒もない。白く敷き詰められた石畳に、空から降る月光と星の煌めきが滲むように広がっていた。
二人の足音だけが、微かに小道に響く。時折吹き抜ける夜風が、木々の葉をさらさらと揺らし、竜の屋敷の高い屋根の影が地面に淡く映っている。
「ここ、思ってたよりも静かなんだな」
先に口を開いたのはテオだった。リアは少し首を傾けて、空を仰ぎながら応えた。
「慣れるまでは、怖いくらいだったけどね」
「あぁ……なんか、分かる気がする」
星は驚くほど澄んでいた。
この里が、高い谷の狭間にあるからか、見慣れた地上の星空とは光の強さが違う。竜の息づかいの下にあるこの地だけが、特別な場所として空と繋がっているような感覚すらあった。
「ねえ。食事、驚いたでしょ?」
「ん? まぁ、正直、味があるのかないのかも分からないくらいだった。素材そのまま、って感じで」
リアは、口元をほんの少しだけ緩めた。
「慣れるとね、案外ちょうどいいし、ほっとするの。あれ、ルナルディ様の好物なんだって。塩分は最低限で、体の芯から温まるようにしてるって言ってた」
「へぇ、そうなんだ。……あの、ギルって奴は、味濃い方が好きそうだけど」
「意外と何でも平気だよ。そもそも、好き嫌いとかあんまり無いのかも」
ぽつぽつと交わす会話は、久しぶりに開かれた扉のようだった。心を曝け出すわけじゃないけれど、言葉が互いの存在を確かめ合うように行き来していく。
テオはふと立ち止まり、そっと夜空を仰いだ。
「ここに来てから、元気だったか?」
その問いに、リアは笑いながらも、少しだけ俯いた。
「元気だったよ。でも、……怖かったこともあった。最初の頃は、寝て目が覚めるたび、自分がどこにいるのか分からなくて」
それを聞いて、テオの足が止まった。けれど、何も言わない。リアも、それ以上は続けなかった。思い出を言葉にしてしまえば、過去の弱さがそのまま現実になってしまう気がした。
そのまましばらく、二人は夜風の中を歩いた。
「リア」
不意に、テオが立ち止まり、夜空を見上げながら言った。
「俺、お前に……すごく、会いたかった」
その一言は、夜の空気を切り裂くように、真っ直ぐで偽りが無かった。リアはすぐには返事をしなかったけれど、そっと隣に並び、同じように空を見上げた。
「私も、二人に会いたかったよ」
星々が瞬く。風が木々を揺らす。
言葉の隙間に、過ごせなかった時間が、そっと重なっていた。