貴方の色と甘い香り
翌朝、中庭には雲ひとつない青空が広がっていた。陽の光が敷石の隙間から反射し、淡い金色の光を地面に散らしている。風は穏やかで、ほんのりと甘い草の香りを含んでいた。
昨日の一件で土埃が舞い、彫刻の欠片が飛び散った場所を、リアは丁寧に掃いていた。細かな欠片が風に揺れてきらりと光るのを見つけては、小さな箒で集め、落ち葉と一緒にまとめる。花壇の辺りを片づけていたレオンハルトが顔を上げ、額の上でさらりと揺れる前髪をかきあげた。
「リア。無理しなくていいから、疲れたら中で座ってなよ」
「ううん、大丈夫。ありがとう。レオも、こまめに休んでね?」
土の香り、陽の光、そして柔らかい会話。
屋敷の中も外も、昨日とは打って変わって静けさに包まれていた。遠くの森の方から、囀りが聞こえる。レオンハルトがふとその音に気づいて空を見上げ、リアも釣られるように視線をあげた。どこに鳥がいるのかは分からなかったが、青く高い空がどこまでも続いていた。
その時、不意に、元気な声が庭の端から響いた。
「リア! レオー!」
振り向けば、アルバンが小さな足で駆けてくるのが見えた。両腕で少し大きめの籠を抱え、鮮やかな果物の色が、その中からちらちらと顔を覗かせていた。
「アルバン! 転ばないようにね」
「へーいきー!」
「おはようございます、アルバン様」
「うんっ! あのね、これ……昨日のこと。僕、ギルの家のお庭、壊しちゃったから……おばあちゃんが、これ持って行きなさいって」
少し舌っ足らずに言いながら、アルバンは籠をリアに差し出す。中には、朝摘みと思われる果物がぎっしりと詰められていた。林檎の赤、葡萄の紫、黄桃の橙、小ぶりな西瓜の濃い緑――色とりどりの果実が、草の匂いとともに鼻腔をくすぐる。
「わぁ……すごく綺麗」
「お詫びの気持ちを込めてって。だから、ちゃんとギルにも渡してね」
照れたように笑うアルバンに、リアも微笑み返した。
「ありがとうございます。ギルフォード様にお伝えしますね」
「うん! リア、今、食べていいからね!」
「ふふ、ありがとうございます。じゃあ、後でありがたくいただきます」
アルバンの頭を撫でたあと、リアは籠の中の一際真っ赤な林檎に手を伸ばした。朝の光を受けた果皮は艶やかに輝き、冷たい触感が指先に心地よく伝わる。その赤は、まるで宝石のようだった――濃くて深く、どこまでも鮮やかで、息を呑むほどに美しい。
「リアは、赤が好きなんだね」
不意に、隣からレオンハルトの声がした。声は穏やかで、どこか日差しのような温かみがあった。
「え?」
「外に出るときに使ってる赤い布とか、そのピアスも赤だ」
言われ、リアは思わず耳に手をやった。確かに、メルヴィの雑貨屋では、いくつかあるピアスの中でも赤瑪瑙のこれを選んだ。外へ出る時に肩に巻いている布は、母から貰ったものだと言えども、真紅の地に刺繍が施されたもの。
けれどそれが、好きだからという理由だったのかと問われると、即答はできなかった。――ただ、手に取るとしっくりくる。そういう感覚だった気がする。
「意識してなかったけど、そうなのかも」
ぼんやりとした返事を返すと、レオンハルトはそれ以上追及することなく、何気ない口調で続けた。
「いいと思う。赤は、ギルの色だから」
その言葉を聞いた瞬間、リアの手の中の林檎が、急に熱を持ったように感じられた。真っ赤な果皮が光を弾き、まるでギルフォードの、あの鋭い瞳を見ているような気がする。真っ直ぐで、鮮やかで、決して逃げられないような眼差し。
――どうして、こんなに鼓動が早くなるんだろう。
途端に、胸の奥が妙にくすぐったくなって、林檎を持っている手が少し汗ばむような気がした。戸惑いから、リアは咄嗟にそれを籠へと戻してしまった。果物が、小さな音を立てて揺れる。
「リア?」
アルバンが小首をかしげる。リアは首を横に振り、少し笑ってみせた。
「ううん、何でもないよ」
何も始まっていないと分かっている。リアはギルフォードに対して、恋愛のような気持ちは抱いていない。けれど、今のレオンハルトの言葉――何気ない一言が、心の奥で微かに波紋を広げていた。
赤は、ギルフォードの色。そう言われて、あの瞳の鮮烈な印象を思い出してしまったのが、リアはたまらなく恥ずかしかった。
籠の中の林檎は、まるでリアの心の動きを知っているように、何事もなかったような顔をして静かに座っていた。
◇
掃除を終えたリアは、手の中にある籠を見て、ふと思いついたことがあった。
「アルバン様。これで、タルトを作りませんか?」
「タルト?」
声をかけると、近くで石を積んで遊んでいたアルバンがぱっと顔を上げた。
「なにそれ? 甘いの?」
「はい、果物をたっぷり乗せたお菓子です。焼きたてが、すごく美味しいんですよ」
「リア」
その言葉に目を輝かせたのは、意外にもレオンハルトだった。リアの名を呼ぶと、興味深げに籠の中の林檎や葡萄をじっと見つめている。
「僕も手伝っていい?」
「もちろん。でも、レオもアルバン様も料理は……」
「できない」
「僕も!」
なぜか誇らしげに言う二人に、リアは小さく吹き出した。
「じゃあ、今日は先生にならなくちゃいけませんね。さ、手を洗いに行きましょう」
リアはそう言って頷き、三人で屋敷の中のキッチンへと向かった。屋敷のキッチンには、陽の光が柔く差し込んでいた。
手を洗い終わってから、材料の準備に取りかかる。果物の皮を剥き、小麦粉やバターを手にした。普段の慣れた手つきで生地を捏ねていると、アルバンがそっと寄ってきて手元を覗き込んだ。
「これ、触ってもいい?」
「ふふ、いいですよ。でも、べたべたするので気をつけてくださいね」
「うん。わー……柔らかい! へへへ……レオも触ってみて!」
「僕も?」
恐る恐る指先で生地に触れたレオンハルトは、指の腹でゆっくり押すようにして、その感触を確かめていた。
「……面白い。ふわふわしてる」
「今から焼いたら、サクサクになるよ」
「どうして?」
興味津々なレオンハルトの問いに、リアは笑みを浮かべながら答える。
「バターと小麦粉が熱で固まって、水分が飛ぶの」
「へえぇ……」
レオンハルトは目をきらきらと輝かせて、まるで何かの魔法でも見ているかのようだった。アルバンはもう一歩踏み込んで、生地を少し摘んで食べようとしてリアに止められ、むぅっと頬を膨らませていた。
「こら。それは焼いてからにしましょうね?」
「むー……はぁい」
やがて、タルトをオーブンに入れ、待っていると――
「なんだ、この匂い」
扉の向こうから低く、確かに響くような声がした。ギルフォードがキッチンに現れ、金色の髪が陽の光を受けて揺れている。無造作にポケットに手を突っ込んだ姿は気だるげで、それでいて圧倒的な存在感を放っていた。
ギルフォードの視線がテーブルの上の籠に止まり、ひとつの林檎を手に取る。
「ギル! それ、おばあちゃんから!」
「へえ、修理代の代わりか。また寄越せって言っとけ」
「はーい!」
「いい返事」
そう言って口角を上げてから林檎を齧ると、シャクッと気持ちのいい音がキッチンに響いた。果汁が形の良い唇をつたって、赤い瞳が少し細められる。
――赤は、ギルの色だから。
レオンハルトの何気ない言葉が、リアの脳裏をかすめた。
それまで穏やかだった鼓動が、すっと高鳴る。林檎を齧る姿だけで、こんなに意識してしまうのが不思議だった。彼の瞳も、今手にした果実も、どこまでも赤い。
リアは、思わず目を伏せていた。
頭では何でもないと思っていたのに、胸の奥には何か温かいものが広がっていた。林檎の甘い匂いが、空気の中に広がって、赤い果実の鮮やかさが、まるで心の奥に焼きついたようだった。
◇
焼き上がったばかりのタルト生地をオーブンから取り出すと、甘く香ばしい香りがふわりとキッチンに広がった。まだ温もりを残すその表面はふっくらと膨らみ、縁はこんがりとしたきつね色に色づいている。
「二人で、仕上げの果物を乗せてみますか?」
そう声をかけると、椅子に座っていたアルバンとレオンハルトがぱっと顔を上げ、目を輝かせた。
「うんっ、やってみたい!」
「これ、好きな順番でいいの?」
「もちろん。でも、せっかくだから綺麗に見えるように並べてみましょう」
すでに用意してあった林檎や葡萄、黄桃にブルーベリー。それらを小皿から手に取りながら、二人は真剣な顔で、タルトの上へひとつずつ並べていく。時折、リアがそっと形を整える程度で、ほとんどは彼らの手で自由に飾りつけられた。
その様子を見守りながら、リアは思わず笑みを零す。誰かと並んで台所に立ち、何かを作る時間が、こんなにも温かく、楽しいものだっただなんて。――村を出るまで、きっと知らなかった。
「すごい! 綺麗にできた!」
「おお……」
目を見張るようにして、完成したタルトを見つめるふたり。その表情に応えるように、リアはそっとナイフを取り、タルトに刃を入れる。サク、と軽やかな音を立てて生地が割れ、果物の瑞々しい彩りが、切り口から柔らかく顔を覗かせた。
「僕、この大きいやつがいい!」
「はい、もちろん」
くすっと笑って、リアはアルバンの手元にある木皿へタルトを乗せた。嬉しさのあまり勢いよく皿を引き寄せたアルバンの動きに、乗っていたブルーベリーが、ぽとりと膝をかすめて服の上に転がり落ちる。
「あっ、アルバン様。お洋服が……!」
当の本人はぽかんとしていたが、すぐにレオンハルトが手を伸ばして拭き取った。
「お行儀ばっちりだったのに、最後の最後で油断したね」
「うぅー……ブルーベリーが勝手に動いたんだもん」
「それは手強い」
レオンハルトの口元には、優しい笑みが浮かんでいる。
「レオ、ごめんね」
「気にしなくていいよ。それより、本当なら僕が行くべきなんだけど……今はちょっと手が離せないから。もしよかったら、焼きたてのうちに、ギルに一切れ持って行ってあげてくれないかな」
「あ、そうだね。分かった」
リアは頷き、小さな木皿に一切れを取り分ける。フォークを添えてから、それらを布巾でそっと覆い、両手で包むように持ち上げる。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
「うん。お願い」
背後から聞こえたレオンハルトの声に応えて、リアはゆっくりと歩き出す。
屋敷の廊下は石造りで涼やかだった。壁際の窓から差し込む午前の光が床に淡く伸び、窓の外を吹き抜ける風が、果物と草の香りをほんのり運んでくる。
すぐに書斎の前に着き、扉を軽く叩いた。
「ギルフォード様。お時間を少し、よろしいでしょうか」
一拍の沈黙。やがて、内側から低い声が返る。
「開いてる」
扉をそっと押し開けると、ギルフォードは黙々と書類に判を押していた。背から光を受けたその姿は凛として、横顔はどこか静かな緊張を湛えている。
彼はリアの気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。瞳が、真っ直ぐに彼女を捉える。
「どうした」
「あの……先ほどのタルトが焼きあがったんです。よければ、召し上がっていただければと思って」
手にしていた皿とフォークを、リアは両手でそっと差し出す。縁は香ばしく、果物の彩りが瑞々しく輝くタルトは、絵に描いたように美しかった。
ギルフォードの視線が皿に落ちる。何かを計るようにしばし沈黙し、それから無言のままそれを受け取った。
「……いただきます」
しっかりとそう言葉にしてからフォークを手にし、ひと口分だけすくい取って口元へと運ぶ。咀嚼の音は静かで、瞳は伏せられたままだった。嚥下音の後に一呼吸置いて、彼は小さく息を吐いた。
「悪くねぇな」
ただ、それだけの一言。けれどその声の温度に、リアははっきりと、何かが確かに含まれているのを感じ取った。
「はい。ありがとうございます」
思わず口角が上がる。胸の奥にふわりと広がる何かを押しとどめるように、リアは小さく頭を下げかける――その時。
「リア」
その名が、確かに彼の唇から落ちた。
咄嗟に顔を上げると、ギルフォードは真っ直ぐに彼女を見ていた。その視線には、初めて、名前を持つ一人の人間としての彼女が映っている。
ただ名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が熱を帯びる。どきんと一度強く跳ねた心臓の音が、身体の隅々まで響いていくようだった。
「……はい」
リアは震える声で答える。そのままギルフォードは、視線を逸らさずに言った。
「食い終わったら、もう少し仕事する」
「かしこまりました。では……失礼しますね」
扉の前まで歩いて、少しだけ振り返ると、ギルフォードはタルトに手を伸ばしていた。窓辺の光が彼の横顔を照らし、金の髪と紅の瞳が静かに揺れている。
たった一度、名前を呼ばれただけ。けれどその一言が、胸の奥のどこかに確かな火を灯していた。言葉にできないその光は、今も静かに、そこにあった。




