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霜の村と規定の娘



 朝霧の村は、まだ静まり返っていた。

 薪を割る音も、牛の鳴き声も、いつもなら耳にするはずの生活の気配はどこにもなく、ただ深く、白い霧だけがすべてを包み込んでいた。凍てつく空気に晒された土の上を踏みしめながら、リアは村の中心にある古びた集会所へと歩を進めていた。戸を開けたとき、鼻をくすぐったのは湿った木の匂いと、蝋燭の火が燃えるわずかな煙の香りだった。


 中には、長老のトーマがひとり、机の前に腰を下ろしていた。老眼鏡越しにゆっくりと彼女を見上げるその視線は、いつもの冗談や説教の調子をまるで感じさせず、むしろ沈黙の中に、どこかしら諦めと覚悟の色を帯びていた。


「来たか、リア。そこに座りなさい」


 その言葉に従い、リアは静かに椅子へ腰掛けた。木の背に背筋を預けたつもりだったが、背中には冷たい空気が容赦なく染み込み、どうにも身体がこわばってしまう。何かが、いつもとは違う。子どものころから慣れ親しんできたはずのこの場所が、まるでよそよそしい別の場所になったかのように感じた。


「お前は、今年で十七になるな」


 長老の声は、低く、深く、まるで地面の底から響いてくるようだった。いつものような繰り言でもなければ、咳き込みながらぼやく老いた声でもない。その静けさが、逆に怖かった。


「はい……」


 掠れそうになった声を何とか絞り出しながら、リアは答えた。するとトーマは、机の上に一巻の巻物を広げた。羊皮紙は古び、端は黄ばみ、長い年月の中で幾度となく読み返されたのだろう、ところどころに擦り切れた痕がある。


「これは、我が村に伝わる──竜との“約定”だ」


 リアの喉が、無意識に鳴った。まるでその言葉が、肌に触れるほど生々しく聞こえたかのように。


「今から数百年前、人間の王は、竜に戦で、言葉で、すべてにおいて敗れた。勝てぬと悟った王は、和解の証として“次に竜族と同じ年の子が生まれた時、その子を竜に渡す”と、そう宣言した。……それがこの巻物に記された、我らの“約定”だ」


 静寂が訪れた。蝋燭の火がかすかに揺れ、外の霧の向こうからはまだ誰の足音も聞こえない。


「“渡す”って……それって、つまり……」

「言葉はどうでもよい。……だが、その意味はひとつしかあるまい。生贄だよ、リア」


 その一言は、火の消えた石炉のように冷たく、リアの胸の底にずしりと沈んだ。


「今年、竜族にも子が十七を迎えたという知らせが届いた。そして──我が村でその年齢の者は、お前ひとりだ」


 現実感が剥がれていく。頭が少し、ぼんやりとした。息を吸っても肺に入ってこない気がして、思わず口元に手を当てた。


「……そんなの、冗談でしょ?」

「冗談なら、どれだけよかったか……。リア、これはな──お前が決められることではない。我らが選ばれたのではない。お前が“生まれてしまった”のだ」


 その言葉には、呪いにも似た重みがあった。逃げ場など、どこにもないと告げられたようだった。


 やがて、トーマの背後の窓から朝日が差し込んだ。霧の中に、うっすらと金色の光が滲み出している。


「逃げたいなら、止めはせん。だが……我らがこの“罪”に終止符を打てるのは、これが最後の機会なのだ」


 それはただの儀式ではなく、過去の“罪”を未来に繋がぬよう、断ち切るための決断だった。だがそれを担うのが、まだ少女とも呼べる娘ひとりとは──


「いつ、行けばいいんですか」


 自分の口が、自分の意志より早く動いていた。気がつけば、唇が答えていた。怖かった。怖いに決まっていた。でも、足を止めることができなかった。


「明日の朝だ。夜明けとともに、竜の門へ──」


 リアは立ち上がった。震える膝を無理やり支え、扉へ向かう。もう何も言わず、後ろを振り返らず、まっすぐに。


 外に出ると、霧が頬を撫でていった。遠く、まだ眠る村の中で、一羽の鳥が小さく鳴いた。


 それはまるで、始まりの合図だった。



 リアの家は、村のほとりにあるパン屋だ。温かみのある木の看板が見えるだけで、リアはつい安堵のため息を漏らした。

 まだ明かりが灯っている玄関に目を凝らせば、兄のアイザックが扉を開けて待っていた。


「遅かったな。……あのじいさんの話、聞いてたのか」

「……うん。長老様の話、巻物のこと、それに……昔の約束も」


 リアは力なく笑った。

 焼き窯の火はすっかり落ちていた。残っていたパン生地は、布をかぶせたまま冷えている。


「十七になったら、竜に差し出す。昔の人間の王がそう言ったんだって」


 ぽつりと、母が呟いた。椅子に腰掛け、膝の上で指を組んだまま、涙を堪えていた。


「生贄だなんて……そんな……!」


 アイザックが立ち上がった。壁にかけられた剣に手を伸ばしかけたその腕を、父が無言で押し戻した。


「言葉通りにするなら、そうだろうな。だが、これは俺たちの一存じゃどうにもならん。……だがリア、お前が嫌なら逃げて構わん」


 父はそう言った。無骨で無口な人だけれど、今夜のその声はどこか弱々しかった。


 リアは首を横に振る。


「逃げない。だって、もし私が誰か他の人だったら、きっと代わってあげたかったって思う。だったら、自分がその誰かになったほうがいいもの」

「何を言ってるんだ、お前……!」


 アイザックが言いかけて、言葉を飲み込む。リアの目は、泣いていなかった。震えてもいなかった。ただ、まっすぐに前を見ていた。


「怖いのは、ちゃんと怖いよ。けど、私が行けば誰かが救われるのかもしれないなら、自分が正しいと思う方を選びたい」


 その静かな言葉に、誰も返せなかった。それはまだ少女とも言える年の娘の口から出るには、重すぎる決意だった。


「……リア。何もしてやれなくて、ごめんね」


 母がそっと立ち上がり、戸棚から赤い布を取り出した。それは、母が若い頃、嫁いだときに身につけていたものだった。


「これを巻いて行きなさい。……それだけで、あなたはちゃんと私たちの娘だって分かるわ」


 リアは受け取ろうとして、布を母ごと強く抱きしめた。


「ありがとう、お母さん」


 夜は、いつもより遅く過ぎていった。

 いつものパンの香りは無く、食卓には何も並ばなかった。けれど、それでも家族は一緒に座っていた。話すことは少なくても、静かに、何かを共有するような夜だった。


「行ってきます」


 夜明け前、リアはそっと扉を開けた。家族がまだ眠っている中、焚き火の火だけが赤く灯っていた。


 村の外れに用意された荷車の脇で、村の男たちが準備を進めている。霧が深く、空はまだ暗い。

 その中の一人にいたのは──テオだった。リアの幼馴染。村で郵便屋をやっている、いつも軽口ばかりの、けれど不思議と誰からも憎まれない男の子。


「……おい、リア。一人で来たのか?」


 黒髪に、どこか憎めない顔立ち。そして、青く澄んだ瞳には、眠気の残る朝でも隠しきれない不安と苛立ちがにじんでいた。


「うん。朝早いしね」


 リアが冗談めかして笑顔で言うと、テオの顔から表情が消えた。

 こんな顔、彼がするのはいつ以来だろう。少なくとも、リアの知る限りではほとんど記憶にない。


「本当にこれでいいのかよ」


 言葉の奥に、言い尽くせぬ想いが滲んでいた。けれど、リアは荷車に腰掛け、目を合わせなかった。


「昨日、家族とはちゃんとお別れしたの。……もう、それだけで十分だから」


 テオは言い返せなかった。口を開きかけては、閉じる。いつもの軽口も出てこない。代わりに、胸の奥で何かが詰まって、言葉にならなかった。


 ──好きだ、なんて。

 ──本当は行って欲しくない、なんて。

 今さらそんなこと、言えるわけがなかった。


 荷車の中で、リアは膝を抱え、母の赤い布を握りしめた。静かに、でも確かに。小さく、囁くように呟いた。


「大丈夫。少し、行ってくるだけ」


 けれどそれは、戻ってくる約束ではなかった。



 竜の里は、人の世界の地図には記されていない、深く切り立った渓谷の底に隠れるように存在していた。谷を包むようにして重く垂れこめる霧と、そこかしこに立ちこめる冷気は、外界とはまるで時間の流れそのものが異なるかのような、異質な静けさをまとっていた。


 馬車の轍が岩道を軋ませるたび、車輪に巻き込まれた小石がはじけ、乾いた音がひとつ、谷にこだました。手綱を引く馬はときおり首を振り、慎重に足元を選びながら進んでいた。森の奥からは、動物の気配が絶え間なく漂い、風に乗ってふと届く鳥の羽ばたきや、枝を揺らす音に、リアは小さく身をすくめる。


 その時だった。道の脇に伸びた木の枝に、小さな鳥が一羽とまり、くるくると愛らしく首を傾げながら、じっとリアを見つめていた。毛並みの柔らかな羽根に覆われた小さな身体が、風にそっと揺れている。


「……出掛けてくるね」


 ぽつりと漏れたその言葉は、誰にともなく宙に溶け、馬の蹄の音にかき消されていった。けれど不思議なことに、そのささやきは確かに、小鳥のつぶらな瞳には届いたように思えた。鳥は羽を一度ふるわせると、短くさえずりを残して、再び高く舞い上がっていった。


 そして──丸一日掛けて、霧の合間を縫うようにして進んだ先、ついにそれは現れた。谷の裂け目にかかる巨大な石の門。岩肌を削り出して築かれたその造形は、年月の重みを静かに語りながら、威圧感というよりも、異界への境界線を象徴するものとして、霧の中に輪郭を浮かび上がらせていた。門の表面には、細やかで荘厳な彫刻が彫り込まれており、それが朝靄の光を反射してわずかに鈍く輝いていた。


「ここが……」


 リアが思わずつぶやいたその時だった。石門の向こう──霧の奥から、誰かの足音が聞こえてきた。乾いた音が、ひとつ、またひとつと、静けさの中に落とされるたびに、心の奥に波紋のような緊張が広がっていく。


 やがて姿を現したのは、一人の少年だった。彼は薄い金色の髪を無造作に撫でつけ、燃えるように深紅の瞳でまっすぐこちらを見据えていた。装いは、黒の半袖シャツに緩いタックパンツと軽装ながら、身にまとう素材のひとつひとつが丁寧に仕立てられたものであることが、素人目にもはっきりと分かった。なにより、その背に生えた、髪と同じ色の竜の翼──それが、彼が人間ではない存在であることを雄弁に物語っていた。


「お前が、“約束のやつ”か」


 少年の声は、思いのほか低くて澄んでいた。だがその響きには明らかに他者との距離を拒むような、剣呑さが混じっていた。その鋭さは、年齢の若さにそぐわぬ鋼のような気配を纏い、リアの胸に無言の圧力を与えてくる。


 リアは思わず背筋を伸ばし、慣れない礼儀作法に気を配るように姿勢を正した。


「は、はじめまして。えっと、私はリアって──」


 だが言葉の途中で、彼──ギルフォードの舌打ちが割り込んだ。


「細っそ。骨ばっかじゃねぇかよ」

「え……?」


 言葉の意味を理解するより早く、胸の奥に冷たい棘のようなものが刺さった感覚がした。初対面の挨拶は、歓迎ではなく、値踏みと失望だった。


「俺の嫁になるっつーから、もうちょいマシかと思ってたな。これじゃ、同盟っつうより慈善事業だろ」

「──嫁って……?」


 リアはわずかに身体を引いた。けれどその場から逃げることもできず、ただ凍りついたように立ち尽くした。頭の中で言葉が反響する。「嫁」という言葉の意味は理解できたはずなのに、それが自分に向けられた現実として結びつかない。


 ギルフォードは面倒くさそうに片眉を上げ、ため息をついた。


「はぁ? ったく、何も聞かされてねぇのか? お前は俺と結婚すんだよ」

「け、けっ……結婚……!?」


 リアの声は震えていた。想像していた未来──命を差し出し、ただ静かに終わるだけの運命は、ここで思いも寄らぬ形で否定されたのだ。予想を超えた未来は、喜びよりも戸惑いを連れてくる。


「そうだ。さっさとついてこい。ルナのばーさんが話すって言ってたからな、そっちの説明のがまだ分かんだろ」


 ギルフォードは振り返ることなく歩き出した。その背中に、リアは言葉を失ったまま、ただ立ち尽くす。命を取られることを恐れていたはずの自分が、いまは「生かされる」ことの意味に怯えている。


 それは、生贄として死ぬことよりも、はるかに複雑で、終わりの見えない運命だった。



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