七 ギムナジア《ロディス》 2/2
次の日も、その次の日も、毎朝いちいち嫌がるユリウスを説得して、ロディスが図書室に連れて来ることになった。呆れたことに、各教科の課題全部、殆ど手を付けていなかったようだ。
真面目にやればすぐ終わるし、終わらせた方がのびのび休暇を過ごせると思うのだが……面倒ごとを後回しにする気持ちは、ロディスには理解できない。全く、優秀なくせに。
だらだらと途切れがちに宿題を続ける友人の隣で、ひたすら本を読んで過ごす。小説でも、旅行記でも、哲学書でも、実用書でも、それこそ目に付いて気になったものは何でも手を出していた。
本は良い。この部屋にずらりと並んだ背表紙のひとつひとつが、全て未知の世界への扉なのだ。
昼食を食べてから図書館に入って、そろそろ二時間。
ユリウスはいつの間にかノートに突っ伏して昼寝を決め込んでいる。安らかに上下する制服の肩を見て、ロディスは小さくため息をついた。
ひやりとした室内から、窓の向こうの庭を見やる。
眩しい光に溢れた、夏の緑が目に入った。日差しが強くて、外は少し暑そうだ。
「……あ」
何となく外を眺めていると、先日ユリウスが怒らせたあの少年がいた。他の庭師が午前中にやった、剪定の後片づけをしているようだ。
ロディスはチラリとユリウスの方を見て、それからそっと席を立った。
別に、ユリウスのようにあの少年に興味があるというわけではなかったが、この間驚かせてしまったことは申し訳なく思っていたし……第一、その時のロディスは、読みかけていた本が丁度終わって――かといってもう一冊手を出してしまうと夕方までかかってしまうのだ――ちょうど、退屈しかけていたところだったのだ。
庭に出ると、やはり少しだけ暑い。けれど、空調の効いた部屋で冷えていた身体には逆に心地よかった。
新雪がフワリと溶けるように、手足に暖かさが戻るのを感じながら、こちらに気付かない、少年の小さな背中に近づく。
「やあ、今日は芝刈りじゃないんだ。仕事」
「え? ……あっ」
なるべく驚かせないように話しかけたつもりだったが、少年はロディスの顔を見るとサッと表情を堅くした。どうしてこんなに頑ななんだろうと不思議に思ったが、とりあえずそれは気にせず続けることにした。
「この間はごめんね」
ロディスが詫びると、少年は何か言いかけて俯く。
「あ……の、その……」
彼は迷っているようだった。しばらくごにょごにょと言いよどみ、やがて、
「その……この間は……悪かった」
「え?」
「って、言えって、言われた! から……」
怒ったような、困ったような顔をして、ぶっきらぼうに言い放った。
一瞬、誰に何を言えと言われたのか意味が理解できなかったが、少年の様子からそれはすぐに察することが出来た。
「……ああ、誰かに怒られた?」
「ここの生徒の親はみんな偉い人ばかりだから、失礼の無いようにって……」
納得できないというように、少年は唇を噛む。可哀想に、理不尽に叱られて悔しい思いをしたのだろう。
「あからさまなことを言うね。こないだのは僕たちが悪いのに」
「そ、そうだ!」
「うん。だから謝ってるでしょう」
「う……うん」
少年のくりくりした大きな目が、落ち着かない様子で揺れている。けれど、もう敵意は感じられない。話くらいは聞いてくれそうにみえる。
小動物みたいな挙動不審っぷりで、何だか可笑しく思えてしまう。
「ふふふ、じゃあ、改めて。僕はロディス。君は?」
まっすぐ少年を見て微笑むロディスの目を、戸惑ったようにチラチラと何度か見上げて、それから、少年は照れたように俯いて呟いた。
「……ジル」
目深に被った帽子の奥の青い瞳が、少しだけ笑ったような気がする。
「よろしく、ジル」
にこりと笑って手を差し出すと、ジルは驚いた表情をロディスに向けた。それから、恐る恐る握手にこたえる。
小柄な体つきと同じように、小さな手だった。
暗くなってから部屋に戻り、何気なく窓を開けると、並びの部屋の明かりが増えていることに気がついた。
「ああ、そうか。もうみんな戻ってきているんだね」
ロディスが身を乗り出すと、風呂の支度をしていたユリウスも寄ってくる。
「何……? ……ああ、他の部屋の連中か」
「うん」
今日は休暇の最終日、明日からは授業が始まるのだ。寄宿舎の生徒が戻っているのは当たり前のことだった。
「ま、僕は宿題を全部片づけているからな。新学期といえど、恐れるものは何もないぞ」
スッキリした顔で偉そうに言う。
「それが誰のおかげか、よーく考えてほしいものだね」
「ふふ、もちろん僕の努力のたまものだ」
「……まぁ、いいけどさ」
苦笑しつつ、明日必要な教科書の類を用意して、机の下に置きっぱなしだった鞄を引っ張り出す。中のものを詰め替えて明日の支度を済ませてしまおうと思っていた。
「…………あ」
鞄を開けて、すっかりそれを忘れていたことに気付く。
こちらに来る途中成り行きで買った、銘柄不明のワインだった。
「何だ……酒?」
「忘れてたよ」
「飲むのかい?」
「まさか。ここに戻る列車に土産屋が売りに来てさ」
「ははぁ、買わされたんだな」
「な。そういうわけじゃ……」
そんな風に言われるとまるで自分の気が弱いみたいじゃないかと、抗議の声をあげようとしたロディスだったが、背後からぬっと伸びてきたユリウスの手に酒瓶を奪われ、面食らって言葉を途切れさせる。
「へーえ、安酒だ」
「わかるの?」
「いや、全然。でもこのラベルの印刷のいい加減さを見たら、何となく」
「……そうだよね」
今更ながら、どうせなら堂々と土産に出来るくらい良いのを買えばよかったかと思う。線路ばたに怪しい女が売りに来た知らない銘柄のワインなんて、世話になっている人への土産になどできはしない。ちゃんとしたものを持参しなければ、最悪父にまで恥をかかせることになる。
「ヤコフあたりなら、酒なら何でも喜んで飲むだろう」
ロディスの考えを読んだように、ユリウスが言う。
「えー……でも……」
気さくなヤコフなら許してくれそうだ、とは確かに思うけれど、それは世話になっている彼に対して失礼というものではないだろうか。
「あ。でも、あいつ今休暇中なんだよな。タイミングの悪い奴だな、全く」
「どっちにしても人に贈るならもっとちゃんとしたのを用意するからいいよ」
「そうか」
「うん」
「じゃ、僕が頂いてもいいかい?」
「え?」
「今夜、飲んでしまおう」
ボトルに顔を寄せたユリウスは、声を潜め、悪戯っぽく笑う。
「ええっ!?」
「うん。それがいい」
突拍子もないことを楽しげに言い切ると、ユリウスはぴょんと立ち上がってベッドにのぼる。
「ユーリ、何言って……っていうか、開ける道具も無いし」
「大丈夫。ある。」
枕元に積み上げた私物の山から、ユリウスがひょいととり出したのはまさしくワインオープナーで、ロディスは二度驚くことになった。
「だ、駄目だって!」
トッカルで果実酒の飲酒が認められるのは十二歳からだが、十八歳までは家庭内で、親の監督下でのみ認められることになっている。つまり、寄宿舎での飲酒は当然禁止である。見つかればそれこそ大変だ。
「赤だからぬるくて丁度よかったなあ」
「そういう問題じゃない……って、わ! 駄目だって!」
行いのやましさから大きな声を出せないロディスの制止に、ユリウスは全く聞く耳を持たず、慣れた手つきてコルクを抜いてしまった。
「ユーリ……!?」
「ま、グラスなんかあるわけないしな。これで我慢するとしよう」
ニコニコ顔のユリウスが差し出したのは、この部屋に置いてある唯一の食器である、二つのマグカップだった。
楽しげににやにや笑うユリウスが妙に大人っぽく見えて、なぜか言葉が続かない。無茶な提案をいつも結局断れないのは、たぶん、彼の思いつきがいつも新鮮で、魅力的だからだ。
夏休みの終わりの夜に内緒で、御法度のワインを飲むなんて、どうしようもなく面白いじゃないか。
嫌だとは言わずカップを受け取ったロディスに、いたずら者の王子は告げる。
「宿題の、完成祝いだぞ」
開け放した窓から、ひやりとした夜の空気が遠慮なく部屋に入り込む。ふわふわと、浮いているように上気した身体に、夜風が心地良い。
消灯時間を過ぎた暗い部屋からは、星空がやけに澄んで見えた。
「安物でも、エウロのワインは美味いな」
大きなカップを片手にコーヒーでも飲むかのような格好で、ユリウスが言う。ロディスも、なみなみと注がれた渋い赤ワインを少しづつ啜っていた。
ユリウスは美味いなんて言うが、ロディスには到底そうは思えない。
食前に少しだけ口をつけることのあるワインは、もっとふくよかで香り高くて、こんなに雑な味じゃなかった気がする。
「……君、大酒飲みになるよ」
「そうかなあ」
「ほんとにもう、僕は信じられない」
ユリウスはさっきから平気にすいすいと飲み進めていて、気付くとカップを開けて注ぎ足している。
聞けば、前々から実家では時々、母親につき合って飲んでいるらしい。
「瓶はそのうち僕が処分しておくから、安心するといいぞ」
「処分って?」
「街まで持っていって、酒場の裏にでもこっそり置いてくるのさ」
「そ、そんな……」
「ばれないばれない」
「だけど、君、下の街には詳しくないでしょう?」
「そりゃ、そうだけど……」
敷地に隣接する田舎街に、この学校の生徒はあまり明るくない。遠方から入学する生徒が圧倒的に多いからだ。
自由時間に街に行くことは禁止されてはいないが、学校生活を送る上での用事は全て、広い校内でまかなえるようになっている。そういうわけで、わざわざ坂を下りて街まで出る者は少なかった。
「そうだよ……でも、そうだなあ、一度行ってみるのも、面白いかもね。
「え?」
「だから、下の……キリエフの街だよ」
ちっとも美味しくない赤ワインが、少しだけ自分を朗らかにしていることを自覚しながら、ロディスは独り言のように呟いた。
「証拠いんめつ、しないとね」
「ロディがそんな風に言うなんて、珍しいぞ」
「そう? ……うん。まぁ、ね。飲んじゃったものは仕方ないし」
「ああ、そうしよう」
珍しく悪巧みに乗ってくれた親友に、ユリウスは嬉しそうに頷いた。
ともあれ、明日からは新学期だ。そのうち瓶を処分しに街まで行くにしても、当面の隠し場所は考えておかなければいけない。そんなことを考えながら、床に置いた問題の瓶に手を伸ばし、いつの間にか美味しいような気がしてきた葡萄酒をマグカップに注ぐ……が。
「……あれ?」
逆さにしてもワインは一滴も出てこない。
いつの間にか空になっていた。
「おや? あはは、無くなってる。君、さては酔っぱらってるんだな」
「…………そうみたい」
堅い床の上に座り込んでいるはずなのに、何だか分厚い雲の上で揺られているようだ。全てが曖昧で、面倒で、気持ちが良くて、そして……ぐるぐるとかき混ぜられた思考の中から、プカリと不思議な言葉が浮かんでくる。
酔うと、人はいつもと違うことを考えるのだろうか。
だけど、何もかも億劫なので、とりあえず口にしてみることにする。
「ユーリ、あのさ……」
「何?」
「君って、大人になったらやっぱり大統領になるの?」
「え……」
驚いた友人の声がいやに遠く響く。
いや、これは、いつも考えないことではなくて、いつでも本当は気になっていることだ。酔うと、普段口にしないことをついこぼしてしまうというだけなのだろう。
もう消灯時間を過ぎて随分になる。
ゆっくり、流れ込むようなそよ風に、軽いカーテンがゆらゆら揺れていた。
大統領になるの? なんて、子供っぽい質問で笑われるかと思ったが、ユリウスは静かに、カップに落ちる夜の影を見つめているようだった。
「……わからないなぁ」
真面目な声でポツリと落として、それから、はぐらかすように笑う。
「っていうか、考えてないだけかもしれない。まあ、僕がなろうと思っても、一応、議会の了承がいるわけだし……」
「トッカルの大統領選は形式的なものなんだから、君が了解すれば……」
「そうかもしれないけど。何だか面白くないだろ、それってさ」
「そう?」
「うーん……」
こう見えて、一応バート家の一人息子であることを自覚しているのか、面白くないと言いつつも、難しい顔で言いよどむ。空になったマグカップを持つ手は、ロディスより一年分大人びていて、彼が年上であるということを思い出させた。
「そういう君はどうなんだい?」
「僕は別に……だいたい決まっているようなものだし。父上の後を継いで……」
「カスタニエ公爵になって、その後は?」
「後?」
「そうそう。公爵だろうと伯爵だろうと、それって別に職業じゃないだろ。何か、やりたいことは無いのかい?」
痺れた脳に、ユリウスの言葉がするりと入り込む。
改めて問われると、それについて考えるのは不思議な感じがした。
歩まねばならない道ははっきりと見えているのに、行く手はまるで闇。
迷うことなど無いはずなのに、この線路がどこへ続くのか、まるで分からない。
そう思うと、学生でなくなってしまう未来のことが、唐突に怖くなった。
「ふむ、まあいいか」
考え込んでしまった様子のロディスを気遣って、ユリウスは気を取り直して、いつもの笑顔を引っ張り出す。
「お互い考えすぎても始まらないからな」
「ユーリ……」
「人生はこれからだ」
「…………うん」
時計の針は今、どの辺を指しているのだろうか。
たゆたう二人の意識が、ぬるい夏の闇に溶けて――明るい夜が、ゆっくりとふけていった。