七 ギムナジア《ロディス》 1/2
窓の形に切り取られた青空に、白い雲がふわりと浮かんでいる。
じっと止まっているように見えるそれは、よく見ると流れていて、目を放さずにじっと見続けていると、じんわりと動いている様子を確かめることが出来た。
それはもちろん、至極当たり前のことであり──
「ふあぁ……」
二つ並んだ机の隣で、気の抜けたユリウスのあくびがひとつ。
「……平和だね」
他の友人たちが未だ戻らない、静かな寮での昼下がり、二人は、ぼんやりと雲の観察をして過ごすくらいには、退屈だった。
「なぁ、何か、面白いこと無いかい? ロディ」
「あったらここで雲なんか眺めてないよ」
「……そうなんだよなあ」
「宿題も全部仕上げてしまったしね」
「じゃあそれ、僕の分もやってくれて構わないよ」
「読みたかった本はだいたい読んじゃったし……」
「……無視かい。つまらないなあ」
口を尖らせるユリウスの文句さえ気だるげだ。ロディスはゆったりと流れる雲から目を離さず、やっぱり眠そうな声で返した。
「とりあえず先に宿題だけ仕上げてしまいなよ」
「それとこれとは話が別さ。それに、そもそも面白い課題がひとつもないんだぞ。そういうのは、教師の怠慢というものだろう」
ユリウスの言い分は尤もらしいが、課題が面白くないということは、課題をやらない理由にはならないのではないだろうか。そういうのは生徒の怠慢というもので、つまり……――ああ、だけども今は、言葉をまとめて皮肉でかえすのも面倒だ。
「じゃあ、暇つぶしにもう一度鐘楼に行ってみる?」
ロディスが投げやりに鐘楼の話題を出した途端、ユリウスは青くなって言葉をのむ。
「僕はそれでもいいよ。もう一度確かめてみたい。あの女の……」
「ロディ!」
強がりなユリウスは、嫌だとも駄目だとも言わないが、この様子では彼を再び鐘楼探検に連れ出すのは難しそうだ。
あの夜はロディスだってもちろん怖かったが、どうやらユリウスは心底恐ろしく思ったらしい。あれから一週間、鐘楼でのことを話題に出そうとするとこんな調子なので、あの幽霊らしき人影が本当は何だったのか、未だ話し合うことが出来ずにいた。
落ち着いて考えれば、あれは幽霊なんかではなかった気もする。
はっきり見えていたし、足もあった。
だけど……だとしても、あんなところで人に会うこと自体、どう考えても普通じゃない。
やっぱり気になる。アレは一体、何だったんだろう。
「……とりあえず、そろそろお昼だし、食堂降りようよ」
興味を引っ込めて無難な提案を差し出すと、ユリウスはあからさまにホッとしたように口元を緩め、わかったと頷いた。
正午少し前の廊下は静かで、二人分のくぐもった靴音が、やけに広く響く。けれど、休暇はもうじき終わるのだ。そうしたら生徒達が皆帰ってきて、この寮も寂しくなくなる。
食堂は相変わらず貸し切り状態だった。そして、二人が鐘楼に忍び込んだ次の日から、ヤコフは遅めの休暇をとっているらしく姿を見ない。代わりに来ているコックは普段別の寮を担当しているそうで、知らない顔だ。
二人は向かい合って座り、ヤコフの味と少し違うパスタを口に運んだ。
「ユーリ、午後から図書館にでも行こうよ。僕はあと一週間分の本を探したいし」
ロディスが切り出すと、ユリウスは首をかしげる。
「図書館? どうして?」
「君、まだ宿題が済んでいないんでしょう」
「……その話かい」
「そうだよ。いい加減、今代の王子はボンクラだって有名になっても知らないよ」
「あ。……君までそういう言い方をする」
王子よばわりが嫌いなユリウスは、眉間にしわを寄せてロディスを睨む。この場合、決してボンクラと言われたことに気分を害しているわけではないのだ。
「王子って?」
ロディスは僅かに苦笑して確認した。
「そう。子供っぽくて、歓迎しないね」
「そうかもしれないけど、もう君のニックネームみたいなものだから、仕方ないよ。それに……実際そのようなものなんだし。君と、バート家(君の家)は」
トッカル自治区では、大統領一家は人々から親しみと尊敬を集める存在だ。彼らを王のように呼び慣らすのは、トッカル人のバート家への愛情の表れともいえる。
「納得いかないなぁ」
けれど、あくまでユリウスは不満顔だ。
「君のところみたいに、ほんとに王様がいるなら別だけどさ」
「……エウロにも王はいないけど」
自分も同じく言葉のあやに引っかかっているのに気付かず、ロディスも言い返した。往々にして、他人から見れば似たようなものでも、自分のこととなると訂正したくなるものだ。
「皇帝だって似たようなものじゃないか……っていうかさ、エウロっていつまでああなんだい? ちょっと時代遅れだと思うんだけど」
故郷に対するユリウスの大ざっぱな言いように、微かに憤慨しつつ皿のパスタをフォークでまとめる。
「……僕に聞かれても困る。それに、時代遅れどころの話じゃないよ。千年遅れてるって、父上は……」
「へぇ、君の父上は先進的なんだな……って、あれ?」
話しながら窓の外に目をやったユリウスが、そのまま手を止めた。何だろうとロディスも同じように外を見た。
「どうしたの?」
「子供がいる。珍しいな」
ユリウスが指したのは庭の方だった。学校で子供が珍しいわけがないのだが、生徒のことではないらしい。庭師だ。
「ほんとだ。子供だね」
学内の芝生や植木の手入れはこまめに行われているので、庭師を見かけることは珍しくない。だけど、今日芝を刈っているのは、背格好からしてどうやら子供のようだった。
「僕らと同じくらいかな?」
遠く見える少年は、ロディス達と似たような年ごろに見える。粗末な服を着て、つぎはぎの鳥打帽を目深に被り、黙々と仕事をこなしている。
「あんなちびっ子なのに、偉い奴だなあ。声かけてみようか」
一瞬前の話題を忘れたように、ユリウスは目をキラキラさせ、窓の方へ身を乗り出す。
「でも彼、仕事中だよ?」
「休憩くらいするだろ」
いつ休憩をするかなんて分からないのだからと言って、止めようとするロディスの言葉は、暴走する興味のアクセルを踏み込んだユリウスにはもはや届かない。
「いいからいいから。面白そうだろ。ごちそうさま!」
「あ、ちょ、ちょっと!」
いつの間にかユリウスのパスタ皿は空っぽで、ニコニコ笑いながら食堂を出ていってしまう。この迷惑と紙一重の行動力には、呆れてよいものか感心してよいものかいつも悩まされる。
窓の外に目を戻すと、少年は変わらず仕事をしているようだ。
本当に話しかけるつもりだろうか。仕方なく慌てて残りのペスカトーレを詰め込んで、ロディスも後を追うことにした。
「なあ、君!」
明るい庭で、突然呼び止められた少年がゆっくりとこちらを向く。ロディスがユリウスに追いついたのは、丁度そのタイミングでのことだった。
(い、いきなり声かけるんだ。ユーリってば……)
ユリウスは人見知りをしない。大らかで、あけすけで、遠慮が無く、でも悪意もない。育ちのせいというより、生まれ持った気質だと思われる、自然な陽気さだ。
「……何?」
呼び止められた庭師の少年は、小さな肩をギクリと震わせて振り返った。
「何してるんだい?」
「何……って」
少年は少し迷ったように黙り込んでから、おずおずと口を開く。
「お前、見て分からないのか。芝刈りだ」
「それは分かるけどさ、どうして君みたいな子供がそんな仕事を?」
遠慮の無い物言いはさすがに失礼だろう。けれど、口を挟むと余計ややこしいことになりそうなので、ハラハラしながら見守る。
「……余計なお世話だ」
帽子を目深に被っているせいで、少年の表情はよく見えないが、不審そうな口ぶりだ。無理もない。
近くに立ってみると、少年はロディス達よりも背が低い。同い年くらいかなと思ったけれど、年下だろうか。兄弟のお下がりかなにかだろうか、来ている服を少し余らせていて、大きな帽子からは明るいアッシュブロンドの前髪が覗いている。
これは、ロディスによく似た髪の色だ。
「しかし君、働いているのだったら偉いなあ。この街に住んでいるのかい?」
少年が発した【これ以上話しかけるな】の空気を全く察知せず、ユリウスは明るく続ける。
「僕は芝刈りなんて、やったことないぞ。難しい?」
少年は黙り込んだまま答えない。見ているロディスの方がハラハラしてしまう。彼にとって芝刈りは遊びじゃないのだ。
子供の身で大人に混じって労働に従事していること自体、何か事情があってのことかもしれない。ねぎらうにしても、せめてその辺りのことにもう少し心を配って言葉を選べばいいのに。
「ちょっと僕にもやらせて欲しいな。こーゆーの、前から興味が……」
ロディスの心配をよそに、ユリウスは興味津々で少年の手にある芝刈り機に手を伸ばそうとする。
「え……うわっ、触るな馬鹿!」
逃げる少年をユリウスが追いかけ回す。機械を引っ張ってもたつく少年は、すばしっこいユリウスから全然逃げられなくて、何だか可哀想だ。
「いいじゃないか、壊したりしないから。手伝うって言ってるんだよ。三人でやればすぐ終わるよ!」
(三人?)
勝手に自分を頭数にいれないでほしい。
あきれ顔で彼らの鬼ごっこを眺めるロディスの前で、ついに少年を追い詰めたユリウスは、彼の手から業務用の芝刈り機を奪い取ると、おもむろに操作盤を覗き込んだ。
「や、やめ……」
「へぇ、結構重いなあ。このスイッチを……うわっ!」
スイッチに手を伸ばそうとしたユリウスに、堪え兼ねた少年が体当たりした。
「あっ」
意外な展開に、ロディスも思わず声を上げた。こういうのが、窮鼠猫を噛むというやつだろうか。小さな身体がくりだした決死のタックルに、ユリウスがよろめいた瞬間、少年はすばやく芝刈り機を奪い返すと、目深に被ったキャスケットの奥から、怖い目で睨み付けた。
「やめろって言ってるのが、聞こえないのか! このあんぽんたん!」
「へ?」
こうまで言われてようやくユリウスは目を丸くする。やっぱり、彼が怒っているのに気付いていなかったみたいだ。
「とにかく、駄目だ! 消えろ、阿呆!」
少年の怒鳴り声が、木漏れ日の庭に響き渡った。
結局その後、庭で仕事を続ける少年に何度かユリウスが声をかけるもとりあってもらえず、名を聞くことすらできなかった。
「うーん。わからない。どうしてあんなに怒ったんだろう、彼……」
たまった課題を抱え、当初の予定通り図書館へと向かいながら、ユリウスは心底分からないといった様子で首をかしげる。
「……ユーリがいきなり馴れ馴れしくするからだよ」
「僕が?」
「そうだよ」
「普通に話しかけたぞ?」
「……そりゃあ、僕は分かってるけどね」
ロディスは優しい調子で頷いた。
「君の普通ってのは、君のことをよく知っている人間でないとわからないんだから」
少年を追いかけ回すユリウスを呆れて見ていたロディスだったが、このルームメートに悪意が皆無なのは分かっているのだ。
「それに、ああいう風に怒らせては可哀想だよ」
「何で?」
「だって、君と喧嘩したとかって話が他に知れたら、彼……」
言いながらロディスは、ユリウスが全く自分の立場を分かっていないことに気付く。
「ロディ、何か面白いのかい?」
突然言葉を途切れさせたロディスがクスクスと笑い出したので、ユリウスはきょとんとして首をひねる。
「ふふ、いや、ごめん。君ってやっぱり、変わってるよね」
ひとりで納得するロディスの言葉が意図するところを、、ユリウスはさっぱり分からない。
ここの生徒は裕福な家の子供が多いが、中でもユリウスは「特別」だ。
なにしろ、トッカル自治区では彼は【王子】だ。我が侭や傍若無人な振る舞いを周りから許されてしまう。
今回のようなことだって、たとえ非礼がこちらにあったとしても、咎められるのはあの少年であるのが自然な流れで──けれど、当のユリウスは、暴言を吐いて自分を邪険にした少年に少しも気分を害してはいないようだ。
「全く! 僕は普通に話しかけたってさっきから言ってるだろ?」
言葉尻だけ優しげで少しも正解を教えてくれない友人に業を煮やし、静かな廊下でユリウスは喚いた。
「分からない。何が悪かったのか、全く分からないっ! どうすればいいのか分かってるなら、教えるのが友情ってものだぞ、ロディ!」
「え? ああ……あはははは。そうだね、ごめん。ユーリ」
やっぱり全然分かってないなと思って、分かっていないのは自分の方なのかもしれないと思い直す。
ユリウスは特別扱いもされているけれど、普通の子供としても遇されている。寮でヤコフやハンナが自分に対してそうしてくれるのと同じように。
あの少年とユリウスの身分差に気を回してしまうなんて、自分の方が間違っていた。
「ホントにもう、冷たい奴だなあ、君は」
「ごめんごめん」
少しの違和感と、温かな心地よさ。
――ああ、でもそんなこと、今はどうでもいいか。
「でも、教えるって君、もしかしてもう一度あの子に話しかけるの?」
「当たり前じゃないか!」
「懲りないねえ」
「でも、さっきみたいな調子ではいつあの芝刈り機を貸してもらえるかわからないから、教えて欲しいんだよ」
真面目な顔で助けを乞う友人の顔を見ていると、なんともいえず満たされた気持ちになった。身分社会であるエウロから来た自分はここではどうしたって異分子だけど……ここにいても良いのだ。
少なくとも目の前のルームメートは、そんなこと、爪の先ほども気にしていないのだから。
「そうだねぇ……とりあえず、仕事の邪魔をしないように控えめに話しかければいいんじゃない?」
「控えめに、か……ふむふむ。僕だって控えめにしてるつもりなんだけどなぁ」
「あと、芝刈り機は諦めた方がいいと思うよ」
「ええええ」
「庭が変になっちゃったら、怒られるのは君じゃなくて彼なんだからね」
ロディスがそう指摘すると、ユリウスはハッとして顔色を変える。
「そ……そうか。気付かなかった。それは悪いことをした」
素直に反省の弁を述べる、この友達は本当にいいやつだ。
「とにかく、彼は君のこと、よく知らないんだから。そこの所を考えなよ」
「……うん。わかった。次見かけたらその精神でやってみよう」
ユリウスは力強く頷いた。
午後の日差しが遠く、窓の外の庭を照らしている。古くてよく磨かれた木製の広いデスクに、ユリウスがノートと一緒に長い腕を投げ出す。
「あー。もう駄目だ。わからない」
先刻から、一体何度目の挫折宣言だろう。
ユリウスのこの、興味の無いことに集中力が全く続かない様子は、まるで幼い子供のようだ。
隣で見張りつつ読書をしていたロディスが、ため息をついて本から目を離し、ぐったりしたまま足をばたつかせる友人の方を見る。
「わからないって……それ、建国宣言全文を書き写すだけの課題だよ?」
「どうしてそんなものを書き写す必要があるのかわからない」
全く、呆れた友人だ。確かにガイア連邦共和国建国宣言といえば、映像では四十分以上もある演説で、全部書き写すと結構な量である。けれど、こういう宿題に意味を問うこと自体そもそも、意味がないことだ。それは大抵、生徒の忍耐力を養うための材料であるだけで、書き写すという行為に意義があるわけではないからだ。
とはいえ、教師も色々と考えて題材を選んでいるのだろう、ロディスには中々興味深い課題だった。
有名な演説なのでもちろん映像では見たことがあったが、原稿の文言をひとつひとつ写してみると、それがいかによく考えて選び抜かれた言葉達であるのかがよく分かる。
「飽きたなら素直にそう言えばいいのに」
「飽きた……わけじゃないぞ」
「七年でも同じ課題が出てたけど、僕は面白かったよ? それ」
ロディスが言うと、ユリウスは机に突っ伏したまま、手に持ったペンをクルクルと回す。
「うーん……やっぱり飽きたかも」
「あれ、あっさり認めたね」
「だって、建国宣言なんか、今更ノートに写してどうするんだ」
「よく読んでみなよ。すごく面白い……」
「我々は――」
ロディスの言葉を遮って、ユリウスが唐突に口を開く。
「――我々自身に存する神聖なる権利、すなわち平和と自由と繁栄を求める正当な権利に基づき、また、それらを実現し未来永劫に渡って維持し続けるための崇高なる義務を我々ひとりひとりが平等に負うことを誓い、また、地球に存在する生態系と自然環境の保全並びに人類が築き上げてきた文化の保持と発展に対する責任を我々ひとりひとりが自覚し、ここにガイア連邦共和国の建国を宣言する」
薄い唇から淀みなく流れ出たのは、まさに建国宣言の一節だった。
「え?」
「我々ガイア連邦共和国国民は、我々と我々の子孫によって構成されるこの国家が、世界をあまねく統治する唯一の国家であること、また、その統治が全て公正なる法に基づいて為されることを認識し、その最高規範としてガイア連邦共和国憲法を定め、これを承認……」
「すごい」
思わず簡単の声をあげていた。ユリウスはむくりと起き上がって、眠たげな目を親友に向けた。
「……あと旧地域言語版も、ロシア語とドイツ語と、フランス語なら全文いける」
今は殆ど使われることのない旧地域言語版の建国宣言なんて、ロディスは見たことすらない。
「……いつ覚えたの?」
「小さい頃、家で。……母上に」
「あ……あはは、そっか。君のお母様ならやりそうだね」
「はぁ……もー何百回読まされたかわからんぞ。何で今更こんな……」
「仕方ないよ……。というか、なら、さっさと写してしまいなよ。そらで言えるんだから、簡単でしょう」
「ううう、この労力の意味がわからないっ!」
ユリウスはその後も、十五分に一回はもっともらしい文句を言っていたような気がする。だらだらと他のことでも考えながら進めていたのだろう。その後、ロディスが本を一冊読み終えても写し終えていなかったのにはさすがに言葉がなかった。