六 渡り鳥《キリエフ》
財布が無い、と、気付くのは決まって少し後のことだ。
何かの支払いをしようとしてポケットを探るとか、何となく上着が軽くなったような気がして確認するとか……
とにかく、数歩、もしくは数十歩、場合によっては数十分も経ってからやっと、盗まれた事実に気が付くのだ。
そんな事件が、今月に入ってからもう既に何件も起きている。
被害者は男ばかり、しかも、マネー端末ではなくて現金を持ち歩いているタイプの人間ばかりだ。
時間は昼間だったり夕方だったり、被害に遭った場所も様々。なくした財布は出てこないし、犯人は捕まっていないので当然謎のまま。あまり大きな金額を盗まれる事件が起きていないせいか、本格的な捜査を行う気配の無い警察も、実際、手がかりが少なすぎると首を捻っているような状態だった。
そんな中、ひとつ、被害者が口を揃えて言うことがある。
「今日は、珍しく街で黒髪の美人を見た」
すらりと背が高く、腰まである長い黒髪をなびかせて歩く美しい、若い女。人目をひくそんな女を、被害者達は見たというのだ。
いつしかそれは、街の人々の間で、黒髪の女泥棒と噂されるようになった。
けれど、女を見たという話はいつも途中で途切れてしまう。そんな目立つ風貌をしているのに、まるで街の雑踏にかき消えるように、女は姿を消してしまうのだ。
平和な田舎町では、ミステリアスな噂は住民の興味をひく。
しまいには、女は実は幽霊かなにかではないか、と、言い出すものまでいる始末だった。
広大なギムナジアの敷地は、ぐるりと高い塀で囲まれているため、正門以外にも何ヶ所かある門以外からの出入りは出来ない。警備は厳重とはいえないが昼間はちゃんと全ての門に警備員がいるし、夜間は施錠されている。何かの際の当直職員や、教師による敷地内の見回りも定期的に行われている。何よりキリエフの街の治安が良いということもあり、学校の警備体制については、特に問題視されるようなことはなかった。
それは、男にとっては、幸運の女神がたまたま通りかかって、愛想笑いをしてくれたようなものだった。
長い、緩やかな坂を上って、正門の脇を通り抜け、きっちり鍵のかかった東門も素通りして、さらに奥へ進む。
広い学校の東の端の方は殆ど森のようになっていて、授業で使われることがないせいか、植木も殆ど手入れされていない。
この道はギムナジアを通り過ぎると、後は峠を越えて隣の町に続くだけなので、夜間は本当に人通りも無い。
まばらな街灯が、背の高い彼の広い背中を照らす。重いチェロケースをまるで小さい鞄でも持つように片手で持って、急ぐ風でも無く歩いている。
このまま隣町まで歩いて行ってしまいそうな、淡々とした雰囲気の男は、ある街灯の下を通りかかると、ピタリと歩みを止めた。
一瞬、辺りに耳をすませてから、すっと道をそれてギムナジアの壁の方へ寄っていった。
延々と続く壁に、小さな通用門がある。伸び切った雑草に半ば隠れているような状態で、今は全く使われていないということがわかる。
彼はその、金属製の背の低い檻のような門に手をかけ、軽く押してそれを開けた。──当然、元は鍵がかかっていたものである。
しばらく様子を見ても鍵が開けられていることに気付くものがいないので、今では校内への出入り口として利用していた。
庭に出ると、丁度、大鐘楼の裏手に出てきたような恰好だった。そのまままっすぐ鐘楼へ向かう。
「おかえり、ハビ」
唐突に背後から声がして、ドンと何かが背にぶつかる。が、声の主がラフィータであることをハビはよく承知していたので、驚いた様子は見せなかった。
「大きい声を出すな」
「はぁい」
甘えた声でそう言って、少年はハビの背中から離れようとしない。門の民の村を離れて、これでもやはり少し寂しがっていたりするのだろうか。
「今日も、変わりはなかったか?」
「ん。あ、そうだ。ハビ、みてみて」
ラフィータは懐から、誇らしげに何かを出してハビに見せた。月の光を受けた少年の白い手と、何やら物入れのようなものが目の前にあった。
改めて確認しなくても、それが男物の財布であることは明白だ。
「お前……」
「今日のはね、紙のおかねがいくつかと、コインが……」
「やめておけと言っただろう」
「でも、みつからなければへいきだって、ケニーが」
「ケニーの言うことなんか真に受けるな。アイツの真似をしていたら、お前も将来はくだらんコソ泥だ」
「じゃあ、かえしてく……」
「待て、馬鹿」
ふてくされて身を翻す少年の細い腕を強引に掴んで止まらせる。てっきり褒めてもらえると思っていたのだろう、ラフィータは恨めしそうな目でハビを睨んでいた。
「……見つかったらおしまいなんだぞ。頼むから、昼間はここで大人しくしてろ」
「うー……」
うなだれるラフィータの手から盗品の財布を奪い、コートのポケットにしまい込む。そのまま開いている手で少年の手を引いて、ハビは彼らの仮の寝床である大鐘楼へと歩いていった。
「おなかすいた」
「わかってる。ちょっと待て」
鐘楼の中は当然人が暮らすようには出来ていないが、毛布を持ち込んで、聖堂の長椅子で休むくらいは出来た。何日かに一度は街の宿も利用していたが、二人はここを主な寝床にしていた。
明かりをつけるわけにはいかないが、真っ暗では食事もままならないので、光の漏れない場所を探して小さなランプに火を入れる。
今日は月が明るいので、聖堂には微かな光も差していたが、それだけでは食事をするにはいささか頼りない。
空腹のラフィータは、わくわくした顔で床に座り込んで食事を待っていた。
「ほら、ちょっと足りないけど今夜はこれで我慢しろよ」
「……またサンドイッチ。と、かんコーヒー。さめてる」
「文句が多いな。食えるだけましだろう。ありがたく食え」
金はあったが、ハビは可能な限り使わないようにしていた。それが出どころの分からない不可解な金だったからだ。
「ハビは?」
「後で食う。ひとつ残しておいてくれ」
「はくさんたべないとおおひくなれないんだお」
ポケットに入れて適当に運んでくるせいでいびつにひしゃげたハムサンドを頬張るラフィータに、ハビは小さく笑って、それから、少年の頭を乱暴に撫でた。
「俺はこれ以上図体がでかくなっても仕方がないからな。お前が食っとけ」
「……ああ、そうだ。お前が盗んできたこの金で、明日は街で食って泊まるか」
ポケットに入ったままだった財布を思い出し、中に入っている紙幣を確認しながら言う。すられた持ち主には申し訳ないが、返しに行くわけにもいかない。
「やった!」
「あとは、はやいとこもうちょいマシな寝床が欲しいところだな」
手元にある金は依頼主からのものだ。トッカルへ入るのに使った市民IDだって向こうから支給された偽造品だ。受け取ってしまった以上、今更節約しても意味はないのかもしれないが、ハビは用心深い性格だった。
「ぼく、ここすき」
ハビの苦労を知ってか知らずか、ラフィータはどこにいても機嫌がいい。
「でも、じきに寒くなるからな。凍え死ぬぞ」
「さむいの、とくいだよ」
「俺が不得意なんだよ」
「それにここは学校だ。、新学期が始まればさすがに騒がしくなるだろうしな」
「えへへ、そっか」
「ま、近いうち何とかする。お前はもう、危ない盗みはするなよ」
「はぁい……」
最後のサンドイッチを受け取って丸ごと口に放り込むと、ハビはさっさと明かりを消す。大きい口、と言いながらクスクス笑う少年の上品な亜麻色の髪が、溶けるように闇に消えた。