五 ギムナジア《ロディス》2/2
木登りなんて実は殆どやったことがない。けれどユリウスが的確に足場を指示してくれたおかげで、恐れたほどは苦労せず地面まで降りることができそうだった。
とはいえ、部屋の窓からいつも見ていた木に、こうして必死にしがみつく羽目になるとは、今の今まで夢にも思わなかった。ユリウス曰く、この木はとても登りやすいのだそうだが──にわかには信じ難い。
当のユリウスは目にもとまらぬ早さでスルスルと降りていき、見事に満点の着地まで決めていた。全く、普段からどういうことをしているのかがよく分かる。バート家の使用人達はきっとこれに手を焼いているのだろうなと思えるような野生児ぶりだ。
「ほらほら、急ぐぞ」
「ちょ……ちょっと、待って、上着がひっかかって……」
「ああもう、どんくさいなあ」
今にもどこかの部屋の窓が開いて、誰かが自分たちの外出に気付くのではないかと気が気でないユリウスだったが、何と言われても、彼のような芸当はロディスには不可能なのだ。もたもたしつつどうにか木を降り、そそくさとその場を後にする。
寄宿舎の裏庭から大鐘楼までは、子供の足では歩いて十分以上かかる。何しろ、同じ敷地内とはいえその端と端に位置しているのだ。
ギムナジアの敷地はその大部分が遊歩道のような浅い森で、立ち止まると風の音や虫の声が思いの他よく聞こえる。木々のこずえの間を見え隠れする満月が明るいので、夜道を行くのに苦労はしなかった。
「へぇ……誰もいないんだなあ。うちだったらもう少し警備員がいるぞ」
静かな夜の庭に、ユリウスは拍子抜けした様子だ。
「君の家とは一緒にできないってば。それに、今は休暇中で生徒も少ないから、余計にね」
「見回りとかしてるのかな」
「え……さぁ、どうだろう。してるんじゃない?」
ギムナジアのセキュリティは、どちらかというと警備員による見回りよりもカメラによる画像監視が主力であり、また、主に外部からの侵入者を警戒して配備されているので、敷地の境界付近に比べると、今ロディス達が夜の散歩を楽しんでいる敷地内部の公園は手薄だ。
二人があっさりと夜の外出を成功させることができたのは、そういった理由があるわけだが――知るよしも無い二人は、子供っぽい万能感に浸りつつ、楽しげに悪巧みを進める。
「じゃあ、なるべく目立たない道を通らないといけないわけだな」
「うん」
嫌々ついてきているはずのロディスまで、なんだか楽しそうだ。いかに優等生といえど、冒険のロマンには抗いようがないのだろう。
歩道を外れ、しっとりと濡れた芝生を踏んで、速足で進む。きれいに刈り込まれた見慣れた庭木も、月光を受けて白く光ると、何だかまるで異世界の植物のように映った。夜だというだけで、世界がまるで違って見える。
高揚感に胸が弾んで、これから幽霊を見に行くというのに、ちっとも怖くはなかった。あるいは、その時はもうそんなこと、忘れていたのかもしれない。
はじめは注意深く押し黙って進んでいた二人も、やがて、全く大人の姿が見えないことを知るとほっと気を緩める。
唐突に切り出したのは、ユリウスの方だった。
「そういえばロディ、どうしてこんな早く帰ってきたんだい?」
「えっ……?」
「だって、まだ休暇は半月以上残っているだろ。僕と違って、君はそうそう滅多に実家に帰れないじゃないか。よかったのかい?」
「そうだけど。……城にいても、特にやることも無いし」
「え? 君って……」
「あ、別に、家も父上も好きだよ。でもね、何て言うのかなぁ……家に帰ると、早く学校に戻って勉強しなくちゃいけない気になる」
「うーん……それは難儀な家だな」
「あはは、確かに」
「でも、僕は一度君の家に遊びに行ってみたいぞ」
「僕の? レーゼクネの?」
ロディスは目を丸くした。ここでは友達の実家はだいたい遠く離れていることが多いので、ずっと一緒に暮らしていても、互いの家を訪れたりすることは多くない。ロディスのトッカルでの後見人はユリウスの両親なので、モスクワのバート家を訪れたことはあるけれど……そういえば、ユリウスがエウロに遊びに来るようなことは、今まで一度も無かった。
「そう! 遠いといっても三日もあれば着くのだろ。付き合いが長いのに、一度も呼んでくれないなんて薄情だ」
「それは別にいいけど、きっと君が来ても面白くはないと思うよ」
「そんなことは分からない。ロディの家なんだから、きっと面白いはずだ」
その申し出はとても嬉しいものだったけれど、ロディスは二つ返事で是非にとは言えなかった。
「うち……というか、エウロはきっと、君には向かないよ」
「エウロが?」
「うん」
少し寂しそうなロディスの言葉に、ユリウスは心底分からないといった表情で首をかしげている。ロディスにはそのくらいがちょうど良かった。
ギムナジアには、ロディスのことを本当に分かる者はいない。それは、ここがエウロではないからだ。
エウロは、こことはあまりに違う。
文化も、制度も、人の心も。
ユリウスはいい奴だから、こういうことを言うと反発するだろうけれど、自分にだってそうとしか説明できないのだから仕方ない。それでもユリウスは幼なじみで、これまでも、これからも友達だ。
それって、とても素晴らしいことではないだろうか。
疎外感、それと、矛盾した居心地の良さ。
ロディスはこの場所がとても好きだった。
「うわ……」
「こんなに近くまで来たの、はじめてだね」
大鐘楼は、さすがに「大」がつくだけあって、ふもとまで来てみたら随分と大きな建物だった。
今でこそ学校の敷地の外れにひっそりと立っているが、大昔は今より敷地自体が狭く、ここの周りに旧校舎があったそうだ。当時は朝夕の二度、定刻を告げる鐘が校内に鳴り響いていたという。
古く貴重な建物だということで今も残されてはいるが、きちんと管理されているわけではなく、放置されていると言った方が正しい。月の光を受けて白々と浮かび上がるその姿は美しいが恐ろしく、確かに幽霊のひとりやふたり出てきてもおかしくない雰囲気だ。
「……ここって……入れるのかな?」
「え……わ、ちょ、ちょっと、ロディ、待っ……」
純粋な興味に突き動かされ、ロディスはすいと歩き出す。ユリウスは慌てて後を追った。
確かめるなら、この鐘楼の一番上まで登ってみなければならない。
ロディスは、こういうことに対してユリウスほど恐怖を抱いてはいない。触れもできないような幻の女を、どうして怖がることがある。
「……あれ?」
「なななななんだい、どうしたんだい……」
ユリウスは、たぶん今ごろ怖じ気づいてきたのだろう。情けない声を上げてロディスの背に隠れた。
「鍵が壊れてる。誰も気付いていないのかな?」
「鍵?」
「もう、いい加減だなあ」
近づいてみると、大きな正面の扉にかけられていた鍵が壊れて、しっかりと封印されているように見えた扉はその実開けっ放しだった。
「……入れるよ、ユーリ」
「は、入るのかい!?」
「そりゃあ、僕たちは確かめに来たんだから」
「でも、でも……」
「怖ければ、君はここで待っていても構わないよ。僕、ちょっと見てくるから」
言いながら重い扉を引く。古い金具がヒステリックで嫌な音を立てて、ゆっくりと左右に扉は開いていく。
中は真っ暗なのかと思ったが、意外にも外より少し明るいくらいだった。採光用の窓を多く取った礼拝堂だったからだろう。長く祈る者のいないであろう祭壇に、白い光が静かに降り注いでいた。
「へぇ……」
思いもかけぬ美しい姿。分厚い木の床に踏み出すと、コトリとくぐもった心地よい靴音が響いた。
「立派な礼拝堂だ。……もったいない」
ロディスはどんどん奥へ進んで行く。たぶん、ここの奥からさらに鐘楼の上へと登れる部屋があるはずだ。
「ちょ、ちょっと、待てよロディ!」
奥の扉を開けて入ろうとすると、ユリウスが駆け寄ってくる。
「待ってるんじゃなかったの?」
「そんなことは一言も言ってない!」
ひとりで待つほうが怖いのだろうと察したが、あえて今は彼をからかわないことにする。幽霊云々はさすがに噂話だとしても、一応何が起きるかわからないのだし、大人に見つかりでもしたら大事だ。落ち着いて行動してもらわないと困る。
「わかった。行こう」
「あ……ああ、そうだな……」
二人して登りはじめた階段は、途中までは石組みの立派なものだったけれど、やがて塔を中ほどまで上ると、途端に貧相な木製に変わった。朽ちてはいないようだが、踏むとミシミシと床板が悲鳴をあげる。狭い通路にへばりつくように短い階段がいくつもいくつも連なって上を目指していて、広さは人が二人すれ違えばギリギリといった感じ。階段のすき間は空洞になっていて下が見えるので、幽霊云々よりも、こちらの方がよっぽど怖い。
ときおり、細かく格子状に開いた窓が配置されているのだが、そこにはガラスがはめられていないため、外気が直接差し込んでくる。
「……見た目より階段が長いなあ」
「そうだね」
「幽霊……いないよな」
「そうだね」
「やっぱり、ただの噂だったってことかな」
「……そうだね」
「ロディ、どうかした? 疲れたのかい?」
「……別に……大丈夫」
実際は図星だった。情けないけれど、急ぎ足で階段を登り続け、もう息が上がっているのだ。
見た目も大きいと思ったが、実際に登ると本当に高い。どうしてエレベータを付けなかったのだろうと思ってしまう。ついていたとしても、今は使えなかった可能性が高いけれど。
やがて、口を開くのも億劫になって、ロディスは押し黙る。単調に続く木の板を踏んで、苦しい体を無理やり引き上げ、頂上を目指す。そういえば今日は朝から移動ばかりで、随分疲れていた。
何だか、見上げるたびにユリウスの背中が遠くなっている気がする。どうせ、怖いからさっさと上まで行って帰りたいとでも思っているんだろう。
(もう、出るならこの辺で出てくれてもいいけどなぁ……)
心の中でそんなことを呟きながら、さらに、永遠にも思える長い数分。
もう、上までのぼるなんて不可能なんじゃないかと思いはじめた時、ふいに視界が開けた。
「あ……」
月の光が、前を行くユリウスの影を、俯くロディスの膝に落としている。
上が明るい。はっとしてロディスは顔を上げた。
「着いた!」
満月が、二人を静かに見下ろしていた。上着の首元から涼しい夜風が滑り込んで、汗ばんだ体をすり抜ける。冷たくてとても気持ちが良かった。熱と一緒に、疲れもあっけなく消えていくような、そんな感じ。
「すごいね。いい眺め」
素直な感想が口をついて出る。ユリウスも興奮気味に頷いた。
頂上は展望台になっていて、ギムナジアの敷地が広々と見渡せる。二人が抜け出してきた寄宿舎も見えた。
視線が高くて、月が明るいせいだろう。必死に下りた部屋の前の木まではっきり判別出来るのがちょっと凄い。登ってきた階段がずっと狭かったせいで、余計に解放感を感じた。
「ここを使わずに放置するなんて、もったいないな」
「そうだね。でも……ここから見張られたら、もう今夜みたいに寮の部屋を抜け出すことはできないよ?」
「あはは、確かに。よく見えるものなあ」
冴え冴えとした月空を、清々しい気持ちで見上げる。
「ここの鐘って、まだちゃんと鳴らせるのかな?」
背後を見ると、二人の背丈ほどもあろうかという大きな鐘がずらりと並んで、今は静かな眠りについていた。ずっと昔は、この鐘が校内に時を告げたのだ。
「その辺を調べてみたら、スイッチかなんかあったりして」
「……いや、あるとしてもここじゃないと思うけど」
「そうかあ? 分からないぞ」
言って、ユリウスは展望台の柱をきょろきょろと調べ始める。鐘を鳴らすスイッチは確かにどこかにはあるのだろうけど、普通に考えてこんな所ではなく、下の部屋のどこかにあるだろう。ロディスは思ったが、どうせ友人は自分で調べてみないと納得しないのだから、口は出さないでおく。
「でも、僕たちってここに……」
幽霊を探しに来たんじゃないのかと言いかけて、途中でやめる。
不意に視界の端に何か……影のようなものがよぎった気がしたのだ。
「……?」
反射的にその影を目で追う。
「っ!?」
展望台はさほど広くはない。
何かいると考えるより先に、「それ」は既に視界に入っていた。
「ユ……ユーリ……」
「何……え……?」
長い、黒い髪がゆっくりとなびいている。
すっぽりと体を包んだローブのようなものが、幻のように揺れる。
表情は見えないが、女のようにみえた。
「あ……あ……あ……」
ゆらゆら
ゆらゆら
長い、黒い髪がまるで意志を持つかのように揺れて――
「ロディ、あれって……その……あの……」
隣でユリウスが固まっているのがわかる。
幽霊っていうのは、こんなにクッキリ見えるものなのだろうか? それも、二人の目に同時に。
疑え。怖くない。冷静に。
ロディスは、己の動揺を沈めようと、震える喉に無理矢理空気を詰め込んで、吐き出す。
「誰……誰だ!」
やっとの思いでそう叫んで、再び展望台の向こう岸に目をやった。
が、
そこには何もない。
まるで、始めからそこには何も無かったかのように、人影はすっかり消えうせていた。
「…………っ!!!」
声にならない悲鳴をあげて、ユリウスが走り出す。彼の恐怖が伝染したのか、ロディスもすぐに後を追った。
狭い階段を転がり落ちるように駆け降りて、降りて、降りて……
その後、どうやって地上まで戻って、それから寮の部屋まで帰ったのか、詳しくは憶えていない。何も喋らずひたすら走り続けたような気がする。
とにかく怖くて、足下に落ちる自分の影すら、自分たちを追いかけてくる怪物のように感じられて恐ろしかった。
二人して目にしたあの黒髪の女は、本当に、ヤコフの言った幽霊だったのだろうか。
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