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五 ギムナジア《ロディス》1/2

『お前は城の外に出て、世界がエウロだけでないことを学びなさい』


 六歳の時だ。そう、父は言った。最初はその意味が分からなかったけれど、近ごろはそれが、少し分かるような気がする。


 ここのような寄宿舎学校に、実家の遠い生徒は少なくない。けれど、ロディスのようなエウロ人はほとんど在籍していなかった。

 いたとしても、仕事の関係で今はトッカルに家があるだとか、家はエウロにあるけれど本当はトッカルの人間だとか、そんな子供ばかり。本当の意味でのエウロ人はいない。だから、これまでの年月を、生まれた城を遠く離れたこの学校で、ロディスは異邦人として過ごしてきた。

 けれど、そのことは彼にとっては、逆に、常に故郷を意識させることに繋がっていた。周囲にいる誰もが自分と違うということは、つまり、自分が何者であるかを考えざるをえないことに他ならないからだ。

 トッカル社会の常識と、エウロ人の自分の常識との「ずれ」を感じるたび、自分の中の何か──おそらく、故郷と自分との「つながり」のようなものを、確認しているような気持ちになる。

 トッカルとエウロが違うということを感じるほど、自分はやはり、エウロ人なのだと思った。

 父が望んだのは、こういうことなのだろうか。

 それはまだ少年には分からない。

 けれど、自分は一人っ子であり、いずれは父の跡を継がねばならない。カスタニエ公爵家は、帝室の傍系にあたる大貴族の家柄で、治める領地は広く、その分責任の重い立場となる。多くの領民を抱える主となるからには、まずは最低限、立派な大人にならなければならないのだ。真面目なロディスは、そう一途に思い続けていた。

 この学校の教育水準は高い。勉強は楽しいし、教師や校内の大人たちは、ロディスを甘やかさず、公正な態度で接してくれる。甲斐甲斐しく身の回りを世話してくれる使用人のいない暮らしに、幼い時分は居心地の悪さを感じることもあったが、今ではそんなトッカルでの生活に、すっかり馴染んでいるのだった。




「ははははは、読んでみれば意外と怖くなかったぞ!」

 夜の食堂に、ユリウスの高笑いが響く。

 寄宿舎一階のホール脇にある広い食堂には、彼ら二人と、あとあまり親しくない上級生がまばらに幾人か。この人数で仕事をさせたのでは、何となくコックに申し訳ないような気もしてしまう。

「やっぱり最初は怖かったんだね、ユーリ」

「だから、怖くなかったって」

 先刻ロディスが渡した本を片手に、ユリウスは得意げにモスクワの心理スポットについて話し続けていた。

 結局あの後、ひとりで読んでみたらしい。そういう所は意外に素直というか律義というか、単に育ちが良いというか。

「夜のボリショイ劇場なんて、確かにありゃあ公演が終わった後の時間に何か出ても不思議じゃないよなぁ。ふふふふふ」

「……全く。まるで見てきたような口ぶりだね」

 ロディスは昼間よりは優しい顔で苦笑した。あんなオカルト本、どうせ掲載されている内容の殆どはでたらめだと思うのだけど。

「見て? ああ、それはいいなあ。一度実際に見てみたいものだ」

 行儀悪く長い足を椅子に立てて、戦利品よろしく怖い本を食卓に広げて、ユリウスは上機嫌である。本の内容に恐怖を感じなかったことで、どうやら随分と自分に自信をつけたようだ。

 これでゆくゆくはトッカルの大統領だとか、本当に大丈夫なのだろうかとロディスは思うが、まぁそれは言わないでおいてやろう。

「あれ、王子ぃ、変なの読んでるねぇ」

 背後から声をかけてきたのは、コックのヤコフだった。生徒がいないので、早々に仕事が終わったらしい。

 ひょろりと背が高く、人の良さそうな顔をした、気の良い男だ。一番年長の生徒よりいくつか上くらいのまだ若い青年で、この寮の生徒達にとっては兄のような存在だった。

 ヤコフは人懐っこい笑顔を見せながら二人が座るテーブルの傍まで来て、ユリウスが開いていた本をのぞき込む。

「ふふふ、モスクワにも色々と幽霊の名所があるのさ。面白いだろう」

 ユリウスは、すかさず偉そうに本を持ち上げて見せる。

「へえ、その手の話は俺も好きだな。面白くて」

「だろう!」

 ヤコフの反応にユリウスは調子付く。その様子を見て、ヤコフは少し子供っぽい顔で声を潜めた。

「ここの校内でもひとつあるんだぜ、王子たちは知ってるかい?」

「え!?」

 ユリウスが驚きの声をあげ、ロディスも食事の手を止め、顔を上げる。

「教えて欲しい?」

「欲しい!」

「本当に幽霊が出るの? ヤコフさん」

 二人同時に声を上げる。

「出るとも」

 意味ありげにニヤニヤするヤコフを、二人してまじまじと見つめる。いかにも面白おかしく書かれた本の情報はともかく、知人の話となると別だ。

 ヤコフの口ぶりには、ロディスも子供らしく興味をひかれる。幽霊がでるだなんて、この学校の中に、そんな不思議な場所があるというのだろうか。

「もったいぶってないでさっさと教えて欲しいぞ」

 ユリウスがヤコフの白衣を引っ張ると、ヤコフはユリウスの食べかけの皿を覗き込んだ。

「いいけど、まずはその皿の端によけた豆を王子が全部食べてからかな」

「え……」

「全部食わないと大きくなれないぜ」

「いい加減なことを言うな。別に豆など食べなくとも大きくなれるから構わん。毎朝ミルクは飲んでいるんだぞ」

「ふぅん、なるほど。それじゃ、この情報は教えられないな」

「ヤコフ!」

「ユーリ、全部食べなよ」

「うーん……」

 いつのまにか、食堂に居るのは彼ら三人だけになっている。

 やたらと好き嫌いの多いユリウスは、メインの大皿に残されたエンドウ豆を睨んで、しばらくの間唸っていた。




 敷地の外れにある、大鐘楼を知ってるよな。

 学校創立の時からあるってんで、殆ど文化財というか、とにかく今はもう使われていない。

 広い敷地の中でも特にへんぴな場所にあるから、普段王子達も近くまで行くことはないだろ。

 そこなんだよ。

 何って、だから、「出る」のが。

 結構前からちょこちょこ見た奴がいるんだ。

 俺も何度か話を聞いたし。

 女らしいぜ。真っ白の服を着た、長い髪の。




 二十二時過ぎにはどの部屋でも、明かりを消して床につく。それが宿舎のきまりだった。あっという間に寝てしまう年少の者はともかく、ロディスやユリウスくらいの少年にしてみれば、この夜の時間は少々長く感じられるものだった。

 薄いカーテンを閉めた窓の外がほの明るい。

 そういえば、今夜は満月だ。

 まどろみの淵を漂いながら、夜の深い眠りをたぐり寄せる。ユリウスの声が降ってきたのは、そんな時だった。

「なぁ、ロディ。起きてるかい?」

 木製の二段ベッドがかすかに軋んで、さらりとした髪が落ち、そのまま逆さまの顔がひょいと現れる。上段のユリウスがこちらを覗き込んでいた。

 小さな声で起きてるよと答えると、そうかと言いながら、逆さまの姿勢から曲芸のようにクルリと体を回転させ、梯子を使わず床まで降りてくる。

「……どうしたの?」

「なあなあ、気にならないか?」

「何のこと……」

「何って、例の大鐘楼だよ。女の幽霊なんて、本当に出るのかな」

「え?」

 まだ眠くならないとはいえ既に消灯後だ。ヒソヒソ声で話し合う。

「見に行ってみないか? これから」

「えっ!?」

 突拍子も無い提案に、思わず声が上がる。

「ちょ、しーっ! 声が大きいぞ」

「あ……ご、ごめん」

 体を起こして、座り直した。やっと少し眠くなってきたところだったのに、興味と興奮を抑えきれないユリウスはむしろ絶好調のようだ。

「ユーリ、君、そういう話は怖いんじゃなかったの?」

「怖くない! 居るか居ないか確かめないと、今日は眠れないぞ!」

「そういうもの?」

「そうさ。当たり前だろう」

 言い放って立ち上がり、窓辺へ歩み寄ると、勢いよくカーテンを開ける。

 カーテンレールの滑る音が、静寂の中でくっきりと響き――想像よりも強い月光が、こちらを向くユリウスの影を床に落とした。

「だって、ほら、ここの窓からだってあの鐘楼は見えるんだぞ。こういうのは、いるのかいないのかよく分からないって状態が一番怖いんだ。だから、実際に確かめるのが一番いい」

 尤もらしく語ってはいるが、夜の冒険に出かけたいだけなのだろう。

 消灯後だぞ。どうかしてる。いくら目が冴えていても校則破りに付き合う気は無い。

「でもそれって、いた場合はどうするの?」

 ロディスはため息をついて、呆れた声で話を続ける。

「え……」

「大丈夫なの?」

「違うんだって、そうじゃなくて……」

「ユーリ……」

「だ、だから、いないかもしれないものを怖がるなんて、無意味なことじゃないか!」

 幽霊なんていない、なんて大人みたいなことを言うつもりはないし、実際、ロディスだってヤコフの話には興味をひかれている。見に行ってみたいというユリウスの気持ちも、分からなくはないのだ。

 だけど、やっぱりこんな時間に外出しようだなんて。巡回警備員に見つかりでもしたら大変じゃないか。ここはどうにかなだめて、馬鹿な思いつきは諦めさせなければ。

「……君、いるって可能性を無視してるよ?」

「とにかく、確認しておかないと気になって眠れない!」

 困ったな。これは、理屈で説得できないときのユリウスだ。

 長い移動を終えて、ようやく寄宿舎に戻ったと思ったらこれだ。ロディスは途方に暮れて怖がりの友人を見上げる。

 ユリウスは、大胆な計画をぶち上げたものの、ひとりで冒険に出るほどの勇気はないらしく、少しだけ神妙な面持ちで、ロディスの言葉を待っているようだった。

「……僕は遠慮しとくよ。行きたければ、誰か他の人を誘っていけばいい」

「冷たいなぁ、ロディ」

「君が非常識なだけ」

 暗い部屋だが、ユリウスの落胆する表情が見えるようだ。残念そうなため息をひとつ落として、くるりとロディスに背を向け、窓の外を見る。

 大鐘楼は確かに、この部屋からも見える場所にある。

 言ってしまった言葉は元に戻せないけれど、誰か他の者を誘えば、なんて、ちょっと言い過ぎだったかな。

「ほら、夜は消灯時間があるし……今度、昼間にでも行ってみようよ」

「昼間は幽霊は出ないんだから、意味がないだろう」

 冷たい物言いを反省し、優しく言葉をかけたロディスだったが、ユリウスはいかにも憤慨したように首を振った。

「……ふん。もういいよ、別に」

 ロディスは口を開きかけたが、次の瞬間、ギシ、と、乱暴にベッドが揺れる。梯の中段をひとつ足場にして、ユリウスはさっさとベッドに戻ってしまった。

 どうやら、やっぱりへそを曲げてしまったらしい。強情な友には、もう何を言ってもたぶん逆効果だ。

 しばらく考えて、やはり諦めて放っておくことにする。

(明日は機嫌が直ってるといいけど)

 上の段に滞る拗ねた気配に、聞こえないように静かにため息をついて、ロディスも再び布団に潜り込んだ。




 どのくらい時間が経っただろう。

 眠っているような、覚めているような……船を漕ぐように行ったり来たり。不本意な深夜の浅い眠りの中で、ロディスはふと、微かな風を感じた。何度かは夢の中での出来事だと思って無視していたのだが、そうじゃなかった。この、ひやりとした夜気は本物だ。

 不思議に思って瞼を開ける。重たい目で風の入り口を探すと……フワリと膨らんで揺れるカーテンの向こうに、ユリウスの後ろ姿があった。

(え……ユーリ……?)

 いつの間にか制服に着替えたユリウスが、窓枠に足をかけ、身を乗り出して、今にも飛び降りそうな格好で下を見ている。

 ここは二階だ。いくら何でも、飛び降りてただで済むわけはない。さっきのやり取りが、よっぽど気に入らなかったのだろうか──

「ユーリ……! だめだよ……っ!」

 反射的にそう叫んで飛び起きた。ロディスに気付いたユリウスが一瞬驚いて声を上げたような気がするが、それを気にする余裕は無い。

「な……ちょ……わわわ……っ!」

「えっ!」

 しかし、止めに入るつもりが、勢い余って友の背中に思いっきりぶつかってしまう。突然体当たりされたユリウスはバランスを崩し、そのまま数メートル下の地面へ真っ逆さま──……かと思われたが、窓の外に躍り出てしまったはずのユリウスの体は、その状態で止まっていた。

(え……)

 何が起きたのか一瞬、理解できなかった。

 呆然と立ち尽くすロディスの目の前で、ミシという音と共に、緑の葉がハラリと舞う。

「……君、僕を殺す気か?」

「ご、ごめん……」

 呆れた様子でユリウスがこちらを向く。

 彼は、窓辺に張り出した植木の枝を掴んで、危うく難を逃れていた。

「木が……あったんだ」

「気付いてなかったのかい?」

「や、そりゃ、知ってたけど……僕は君がそのまま飛び降りてしまうつもりかと」

「残念ながら、まだ死ぬつもりはないよ。ま、今まさに殺されかけたわけだけど」

「う……ごめんってば……」

「あーあ、恐ろしいなあ君って人はっ!」

 うなだれるロディスに、おどけた調子でそう言うと、ユリウスは器用に近くの枝を足場にひょいと窓際に戻る。さらさらした、天使のようなプラチナブロンドの上を、月光が滑り落ちる。

「でも、こうなったからにはもう、君も共犯かなあ」

 にっこりと笑う、ユリウスの意地悪な顔。嫌みったらしい台詞に、しかし返す言葉はない。


 向こうにそのつもりがあったのかどうかはわからないが、結果的に――はまったらしい。

「はやく着替えておいでよ。待っててやるから」

 嬉しそうに、さも当然のことのように言う。

 今度は、断れそうになかった。

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