四 渡り鳥《モスクワ》
モスクワへは、五人の仲間と共に入った。
「うわぁ、すごい。広い!」
初めて見た都会に感嘆の声を上げ、駆けていくラフィータを、ハビの代わりに、快活そうな男が追いかける。
「うろうろするな。迷子になるぞ」
栄養失調の者が多い門の民にしては立派な体躯に、よく通る声。雑に切りそろえられた短い髪の首元に、十字架の入れ墨が覗いている。男は《マル》と呼ばれていた。
「マル、マル、あのおおきいのはなに?」
「ん……ああ、あれは美術館だ」
目の前の建物を指して飛び跳ねるラフィータに、マルは笑って答える。彼はよく笑う男だった。
「びじつか?」
「違う、美術館。有名な絵や彫刻を飾ってある」
「へぇ……」
「あれに忍び込んでお宝をくすねてくるってのもアリかイ?」
二人の間から、体の小さな少年がひょこりと顔を出す。
「鍵なら何でも開ける、オレが」
ボロボロの上着を纏い、もさもさしたくせ毛で目元が隠れていて表情が見えにくい。皆から《ケニー》と呼ばれる彼は、体は小さいがラフィータより少し年上だ。
門の民の集落で生まれ、知恵遅れがあったせいで親に見捨てられ、飢えて死にかけていたのをハビによって助けられた。
「ケニー、盗みはするな。騒ぎになったら困る」
骨ばった肩をつかんで、ハビが静かに言う。
「……わかってル」
ケニーにはひどい盗癖がある。けれど、それは彼にとっては荒れ地で生き延びるための唯一の技能でもあった。
「ケニー、ここいらの錠前は電子ロックだぞ、ハッカーでも連れてこないと無理だ」
ひょろりと痩せた男が、どこからともなく姿を現して合流する。フラフラ歩くたびに光を受けて光る金髪を持った男で、妙に端正な顔立ちを隠すように赤いサングラスをかけている。
「電子ロックか……それは触ったことがない、カモ」
「なぁ、ケニーなんか連れてくるより、ハッキングできる奴スカウトしたほうがよかったんじゃねぇ?」
金髪の男はハビに軽口を投げる。
「それならトルド、お前を置いてきたさ」
「はぁ!?」
《トルド》と呼ばれた男は、声を上げてハビを小突く。
「俺がいなけりゃお前ら全員死んでるだろーが!」
薬剤師の資格を持つトルドは、荒れ地の薬屋だった。だから、確かに彼の言う通り、門の民は皆何かしら彼の世話にはなっている。
「お前ら、馬鹿ばっかり言ってないで、さっさと支度するぞ」
先を歩いていたマルが呆れた顔で振り返る。生真面目な彼の手元には、びっしりと書き込みの入った地図があった。
「ねぇ~、びじつか、いってみたい!」
先ほどの美術館が気になるラフィータは振り返ってねだるが、ハビは首を振る。
「駄目だ、ラフィータ」
すげなく却下されて、ラフィータはむくれる。
「ハビのけち」
「けちだってさ、イヒヒ」
二人のやり取りを見ていたケニーは、独り言を呟いて引きつるように笑った。
五人はハビが選んだ荒れ地の仲間だった。
仲間といっても、単純な友人というわけではない。皆それぞれに理由を持って境界区域に落ちてきた者たちであり、そんな暮らしを抜け出すために、ハビの誘いにのって、とある目的のため、境界を越えてトッカルへやってきたのだ。
「とにかく皆、向こうとは違うんだ、軽率なことをするな」
リーダーはハビである。それぞれに癖のある仲間たちだったが、彼の命令は守るという約束でここに来ていたのだった。
「ラフィータ、こっち向いて手、振ってみろよ」
トルドの声に、ラフィータはきょとんとして振り向いた。
「て……?」
呟いて白い掌を見つめる。そして、
「こう?」
「そうそう」
不思議そうにヒラヒラ手を振ってみせるラフィータに、トルドは買ったばかりのビデオカメラを向けていた。
「もっと笑え……あ、だめだめだめ、近づきすぎだ!」
自分に向けられている機械が何をするものなのか分からないラフィータは、首をかしげてレンズをのぞき込む。
「何やってるんだ。お前ら」
そこに、ハビがケニーを連れて買い物から戻ってきた。
「トルドが、笑えって」
「はぁ?」
「記念撮影だよ、記念撮影」
「記念……って、おい、それ……」
トルドの手にピカピカのビデオカメラが収まっているのを見つけたハビは眉をひそめる。
「そこの店で買った。最新型だぜ」
「金を無駄に使うなよ……ビデオなんか撮ってどうするんだ。観光に来たわけじゃないんだぞ」
彼らには今、金があった。使いきれないほどの、とまではいえないが、町の電気屋でカメラ一台買うのに躊躇はいらないくらいの額である。
「いいじゃねーか、なぁ、ラフィータ」
「びでお?」
「そうだぞ。動く写真が撮れるんだぞ、面白いだろ」
「うごく!?」
「ああ。ほら、こっち来てここ覗いてみな」
言われるまま、ラフィータはカメラのホロモニタをのぞき込む。
「ハビがうつってる!」
映像の中に大切な人の姿を見つけて、少年は嬉しそうに声を上げた。
「ここに見えたものが全部記録される仕組みだ。どうだ、面白いだろ」
「ハビー」
画面に話しかけるラフィータの横顔を見つめるトルドは、何だか浮かれているようだ。
「でもハビなんか撮っても面白くないな。俺はラフィータの方がずっと……」
「ラフィータに触るな」
トルドがラフィータのうなじに触れようとしたのに気付いたハビが、ぬっと手を伸ばしてトルドの腕を掴む。
「わっ……痛っ、何しやがるこの馬鹿!」
「それは、こっちの台詞だ。この変態」
付き合いの長いハビは、トルドの趣味をよく知っている。
「あはははは、ふたりとも、うつってる」
「ちょ……ラフィータ、ハビはともかく俺は撮らなくていい。カメラ寄越せ!」
「だめー」
ラフィータはクスクス笑いながら、男の手をスルリとかわし、片手でビデオカメラを構えたまま石畳の階段を上っていった。
夏のキラキラした日差しが、古い町並みに降り注いでいる。モスクワにはまだ着いたばかりだが、彼らは今夜から、それぞれ別れて行動することにしていた。
「ハビー! みてみて!」
トルドから奪ったカメラで空や地面や通行人を撮影しているラフィータが、飛び跳ねながらはしゃいだ声でハビを呼ぶ。録画状態のカメラを振り回しているようだから、今記録されている映像は、きっと恐ろしくアクティブで前衛的なものになっていることだろう。少年をこんな大きな街に連れてくるのは初めてだった。喜ぶだろうとは思っていたが、あの様子ではまるで幼児だ。
「ああ、可愛いなぁ……」
喜ぶ少年を眺めて、トルドは暢気な調子で言った。そして、隣に立つハビに睨まれると、笑って付け足す。
「もちろん、純粋な意味でさ」
「とてもそうは聞こえない」
「ひどいな。俺達、運命共同体だろ?」
「お前は日ごろの行いが悪すぎるんだよ」
冷たく言い放つハビだったが、
「でも、俺は出来れば今の、あのラフィータを撮っておきたいなぁ。可愛いから」
トルドはカメラの無くなった手でファインダーを作ってみせると、それで少年の姿を追った。彼らはここに遊びに来たわけではないが、ラフィータにはそんなことは関係ない。少年はまだ、大人たちの事情とは無縁なのだ。
「まぁ……」
ハビは憮然と呟いたが、その口元は僅かに緩み、その視線は、新しい玩具と初めての都会に夢中のラフィータに向けられている。
「にしても、お前は過保護すぎるよな。あんな純粋培養のカワイコちゃんに育てちゃって、これからどうする気だよ」
「別に、過保護にしたつもりはない」
「またまたぁ」
「勝手にでかくなったんだよ、あいつは。これからも……勝手に大人になるだろ」
「勝手に、ねぇ……」
どうやら真面目に言っているらしいハビを横目に、トルドは曖昧に呟いて煙草をとり出し、いつもと同じ所作で、くわえつつそれに火をつける。
「お前こそ、カメラの趣味があるなんて、知らなかったぞ」
うまそうに煙を吐くトルドの隣で、ハビはラフィータから目を離さずに言った。
「趣味ってほどじゃねーよ。でも、ま、ビデオカメラは割と好きなんだよ。色々、使えるしさ」
「……お前が言うと、本当にまともに聞こえないな」
「言ってろ」
トルドは笑った。
まもなく少年が、二人の元に駆けてくる。ひとしきりカメラで遊んで、どうやら満足した様子である。
「お、戻ってきたか、撮影隊」
「これ、ありがと」
言って、行儀よくカメラを持ち主に返す。
「もういいのか?」
「こわさないうちにかえしてきなさいって、マルが」
「あはは、なるほど」
カメラを受け取ったトルドは、ひょいとそれを覗き込んで何やら操作した後、にっと笑ってラフィータに言った。
「よし、それじゃあラフィータ、次は俺が撮っててやるから……そうだなぁ……じゃあ……」
コートのポケットから小銭を取り出して、それを一掴み少年に手渡す。
「これでそこの店に行って、花を買ってこい」
「はな?」
「そう。えーと、そうだな、綺麗なやつ。向日葵とかがいいかな。でー、二本買って、一本はハビにな」
「は?」
突然細かい指示が飛んだので、ハビは驚いて固まる。
「わかった!」
にっこり笑って駆け出す背中を、逃がさないようにファインダーで追いかける。
「よーし、じゃあハビ、お前も行け」
子犬のように走る少年の背から、カメラはゆっくりと右へパンして、それからちょっと不自然にズームアウト。途方に暮れた様子のハビの姿をファインダーが捕らえる。
意味が分からないといった様子で自分を睨むハビに、トルドは悪戯っぽく言った。
「だから、言っただろ。記念撮影だよ。ほら、行けって」
吐き出した煙草の煙が、夏の光に消えるようにして、空へのぼっていった。
読んでくださって本当にありがとうございます。感謝です!