二十四 渡り鳥
朝のことだった。
正確には、昼のことだ。
つまり、彼女の朝は遅いので、昼過ぎでも充分朝なのだ。
「え……?」
この部屋に客が来るのは滅多にないことだ。半開きの扉越しに見える訪問者に、エイミーは困惑の声を漏らした。
「おはよう」
薄く開けたドアの向こうには、酒場のチェロ弾き――ハビの姿があった。確かに、彼にこの場所を教えた覚えはあったが、実際ここを訪ねてくるとは思わなかったのだ。
「……珍しい。どうしたの? こんな朝から……」
髪をかきあげながら、まだ重い瞼を擦る。
「悪いが、お前に頼みがある」
「なあに、話ならまた夜、店で……」
「預かってほしいものがある」
「え?」
予想外の言葉、そしてハビの後ろからひょっこり現れた人影に、エイミーは目を見開いた。
「………………」
おずおずと男の背中から顔を出したのは、いやに綺麗な顔をした少年だった。
年のころは十五、六といったところだろうか。明るい亜麻色の髪に、大きな瞳。混血児なのだろう、瑪瑙のような不思議な色の目をしていた。
「この子……前言ってた子?」
エイミーは少年をしげしげと見つめて言った。そういえば彼らしい少年の話を店で話を聞いたことがあった。だけど、こんなに目を引く美しい少年を連れているなんて、想定外だ。
「ああ。ラフィータ、挨拶しろ」
「…………ハビ」
人見知りをするのか、名を呼ばれた少年は身を縮めてハビを見上げる。そして、
「このひと、へんなにおい」
およそ、思いついても言わないであろう言葉を口にした。
「な……!」
あんまりな物言いに、エイミーの頬が怒りにパっと赤くなる。ハビは慌てて割って入った。
「……お前な、飯を食わせてもらえなくなるぞ」
ハビは少年の頭を軽く小突いて発言の撤回を促すが、ラフィータは不満げに男の背に隠れてしまう。
「悪いミミ、これはこういう奴でな。悪気はない」
「わ、私、別に臭くないわよ」
「けしょうくさい」
自分の正当性を主張したいのか、ハビの背ごしに少年が口を挟む。エイミーは思わず自分の肩に鼻を寄せた。確かに、昨夜の化粧はまだ肌に残っているかもしれない。
「ほらな、ラフィータは鼻が利く。何かの役に立つかもしれんぞ」
「何よそれ……もう、だって、夜は疲れてるんだもん。これからもう一回シャワーするところだったのよ」
言って、未だ半開きだった扉を閉めようとするが、ハビの気色が変わるのを見て、手を止めた。
「……この子を預かるって? どういうこと?」
「暫くしたら迎えに来る。身の回りのことはひとりで出来る。ひとりで外出させなければ放っておいて構わないから、これで飯を食わせてやってくれ」
恩を売るつもりで話を聞いたのだが、無造作に手渡されたのは分厚い紙幣だった。
「な……こ、これ……」
「別に偽物とかじゃないから大丈夫だ」
「こんなにお金があるなら、別にうちじゃなくても……」
「こんな頼りないのをひとりでホテル暮らしさせるわけにもいかなくてな。この街にはお前くらいしか知り合いも居ないし」
妙な話になってきた。と、エイミーは嫌な予感を口には出せなかった。
「ハビ……」
「頼む」
短く、男は言った。
「ハビ、もう店には……来ないの?」
「わからない。顔を出せそうなら行く」
ハビの言葉はいつも通りに率直で、彼らしい真面目さを含んでいる。子供を捨てるつもりで自分に押し付けに来たのかと思ったが、そうではないのだろうか。
「迎えに来るのよね?」
「ああ。頼めるか?」
「………………」
迷った様子で、エイミーは唇を噛む。それから、ため息混じりに頷いた。
「……わかった。このお金、適当に使っちゃうわよ?」
「構わない」
そして、楽器ひとつ持った男は、長居せず去っていった。
背の高い彼の広い背中は、あっけなく回り階段の向こうに消えていく。
ラフィータと呼ばれた少年は、黙り込んだまま一見無表情に見える瞳で、しかし必死にその背を追いかけているように見えた。
男が見えなくなると、緑の目にサッと不安の色が浮かぶ。
「……大丈夫よ、迎えに来るって言ってたし。
来るって言ったら、来るタイプでしょ? ハビ」
少年は口を開こうとはしなかったが、彼女の言葉にそっと目を伏せ、小さく頷いた。
夕方近くまで、少年は一言も喋らなかった。骨張った細い手足を折り畳むようにして部屋の隅に座り、そこから動こうとしない。
人間というより、野生動物でも連れてきたような感じがするなと、エイミーは思った。
安アパートの部屋は昼間も薄暗い。窓際の照明をつけても、うずくまった少年の顔は影に隠れて見えなかった。
「あのー、私、もうすぐ仕事に出るよ」
「………………」
「もうすぐって言ってもまだ暫くあるけど……」
「………………」
「ちょっと、ねえ、聞いてる?」
「………………」
本気でハビに捨てられたとでも思っているのだろうか。寂しいのだろう、というのは一目見ればわかるが、こういう子供の扱い方を彼女は知らない。それに、でまかせの慰めを口にする気にはなれなかった。
「もう、私、無口なのって得意じゃないわ。イライラさせないでよね」
ものすごく年下というわけではないはずなのに、この少年は幼く見える。
小さく丸くなる兎のようなラフィータに、腹を立てるのも馬鹿らしいような気がして、エイミーはふう、と息をついた。それから、クルリときびすを返して台所を探る。
「ええと……あんまり何もないのよね……」
この家で食事をとるのはせいぜい日に1回、それも朝食替わりの簡単なものばかりだ。冷蔵庫にまともなものが入っているはずがない。
中には残したマッシュポテト、バターの塊、殆ど空のワイン、それから――
「あ……」
けれど、運が良いのか悪いのか、ひとつまともなものが入っていた。昨日店で客に貰ったシュークリームだ。
「……ほんとは私が食べようと思ってたんだけど……」
ずしりと重いクリームの感触に、少し後ろ髪を引かれる気がしたが、このままでは、少年は深夜に自分が帰ってきても同じ体勢でじっとしていそうだ。
(動物なら、餌付でなんとかなるでしょ)
「ねぇ、ラフィータ。シュークリーム食べる?」
声をかけ、傍らに皿を置くと、少年は緩慢な動作で顔を上げた。エイミーの拳くらいはありそうな大きなシュークリームを、不思議なものを見るような目で見つめている。
「ほんとは私のなんだけど。仕方ないから今日は特別。あげる」
「しゅーくり?」
「食べたことない?」
「ない」
「おいしいわよ。モスクワのお土産だもの」
「みやげ……パン?」
見知らぬ食べ物に興味を持ったようだ。
まじまじと見つめて、けれど手は出そうとしない。
ハビに何か躾けられているのだろうか。まるで動物だと思ったわりには行儀が良い。
「パンじゃないわ。これはね、中にたっぷりクリームが入ってるのよ」
「くりーむ……」
「食べてみなさい」
「う……」
パッと手を伸ばしかけて一瞬固まり、それから、本当に良いのか、とでも確認するようにエイミーを見上げる。
「……全く、本当に兎みたいな子ね」
「うさぎ、ちがう」
「わかってるわよ。要らないなら食べちゃうわよ」
「あ……」
ひょいとシュークリームを手にとると、少年は悲しそうに目を細めた。
「ふふふ、うそうそ。ほら、あーんしなさい」
「あ……」
「口が小さい!」
「あー」
「良いコね」
柔らかいそれを少年の口に放り込む。いや、大きいので放り込むというよりは押し込むみたいな格好だったが──食感を分かっていないらしい少年はクリームをがぶりとそれを噛んで、口の端からこぼれそうになってしまう。
「あははは、そんな思いっきり食べるようなものじゃないわよ」
「んー……んん……んーんー」
「おいしい?」
「んー」
「ふふふふ、それはよかった」
甘いものが口に合ったのか、ラフィータはシュークリームを頬張って、うっとりとその味を堪能している様子である。――どうやら、餌付けは簡単に成功したようだ。
「久しぶりだな、仕事の方はどうだ、ハビ」
真昼のカフェテラスで新聞を広げていたハビの向かいに座り、男はにこやかに声をかけた。陽光にキラキラ光る金髪、ホットコーヒーとドーナツを片手のその男が、久しぶりに会う仲間だと確認すると、ハビは短く息をついて答えた。
「今回の演奏旅行は実入りが少ない」
「不景気な話はどこも同じだなぁ」
揃ってモスクワの土を踏んだ彼らだったが、今は分かれて行動していた。田舎町で余所者が連れだっているのは目立つ。
「どいつもこいつも、落ち着いて俺の演奏を聴こうともしない」
「そうカリカリしなくても、今回の滞在はまだ時間があるだろ」
「……そうでもなさそうなんだ」
空になったコーヒーカップに目を落とすハビをよそに、トルドは真面目な顔でドーナツをかじる。
一口、二口、三口……せわしなく口に運び続ける。いい加減口がいっぱいになりそうだが、隣のテーブルの客が食事を終えて席を立ったのを見ると、一気に飲み込んだ。
「行儀が悪いな」
「腹が減ってたんだよ」
「ならドーナツじゃなくてせめてサンドイッチでも食えよ」
「確かに。次からそうしよう」
薄く苦笑したハビを横目に、トルドは周りに人がいないことをもう一度確認してから言葉を続けた。
「……で、どういうことだ?」
「マルが死んだ」
「な……!?」
「ああ、あいつ、1人で逃げようとしたらしい。馬鹿だ」
「……確かな事か?」
「ああ」
低い声で、短くハビは呟いた。




