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二十三 モスクワ

「駄目です、視察の中止は許しません」

 エレオノーラ・バートは、眉ひとつ動かさずそう言い放った。

 ファースト・レディーが行う公務の一環として、ペトルシキム・ギムナジアを訪問する予定が、来週に迫っていたのだ。

「しかし、大統領夫人。事件はまだ捜査段階で、理由がはっきりしない以上……」

「普段以上の護衛も要りません」

「そういうわけには……」

 刑事は困惑しているようだった。彼はトッカル警察を代表して、視察の中止を申し入れにきたのだ。

 理由はもちろん、先日起きた例の『右手事件』だ。その後、死後切断された腕であることは分かったものの、未だに死体は見つからず、脅迫も届いていない。

 不気味な事件だけに、何かが起きてからでは遅いというのが、彼らの見解なのだ。しかし、

「くどい。予定の変更はしない」

 エレオノーラは、弱腰の申し出を一顧だにしようとしなかった。

 聡明な彼女は、正論をハッキリ言う人柄で人々の支持を集めている女性であり――つまり、身近な人間にとっては、強情で御しがたい、一筋縄ではいかない人物なのだ。

「エレオノーラ様……」

 同行した秘書官のシードル・クラスニコフは、額の汗をぬぐいながら、刑事と上司の顔を、代わる代わる見る。

 どうにか、この場の折衷案を捻り出さねばならない。だが、当のエレオノーラはそんな彼の苦労などお構いなしである。

「お前もニルスの秘書なら、そんな情けない顔をしないで言ってやりなさい。この母は、息子を人質にとられたくらいでは、どうということはありませんと」

 エレオノーラと初対面であるその刑事は、憮然とした顔のまま呆気にとられている。やがて、渡された書類をパラパラとめくっていたエレオノーラが、思いついたように顔を上げた。

「そういえばあなた、その見つかった腕の写真は無いのですか?」

「それは、ありますが……」

「お見せなさい。あと、刺さっていたというナイフの拡大写真と、こんな中途半端なものではない捜査報告もね」

 刑事はますます混乱する。それは彼らが、わざわざ子の母である彼女への心理的な配慮のために省いた情報だったのだ。

「……わかりました。資料をまとめてお届けに上がります。

 噂通りの可愛げのなさに、内心うんざりしながら刑事は答えた。


 トッカル大統領夫妻は、おしどり夫婦として知られている。

その後まもなく、届けられた資料を、結局シードル・クラスニコフも確認させられる羽目になった。切断された右腕の生々しい写真に思わず目を背けるが、エレオノーラは興味深そうに眺めている。

「エル、君、昼食の時もずっとその君の悪い写真を眺めているだろう」

「そうですよ。もう、僕なんかそのおかげで全然食欲が無くて……」

 二人の言葉に耳を貸さず、エレオノーラは写真から目を放そうとしない。資料が届いてからずっとこの調子なのだ。

「……ねぇ、ニルス。やっぱりこれ、見覚えがあるわ」

「……私はその写真はもう勘弁してほしいけどねえ」

「腕の方じゃなくて、こっち」

 彼女が差し出したのは、腕に刺さっていたというナイフの写真の方だった。

「シンプルな刃物だけどねえ……君って、こういう趣味、あったかい?」

「どちらかといえば銃の方が好きかしら。でも、そうじゃなくてねニルス、これ、どこかで見た事があるはずなのよ。覚えてない?」

 妻の言葉を受けて、ニコライは暫く考え込んだのち、ポツリと落とした。

「……確かに、そういえば、あれに似ているかなあ」

 のんびり屋と伝えられる大統領の穏やかな瞳に、ひとすじ光が宿る。

「昔々、セルジュのところで見せてもらった……『警告の針』に」


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