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二十二 酒場 3/3

「ああいうの、ミカエルは構わないんだ」

 静かになったテーブルで、フェルディナンドはグラスを揺らしながら、皮肉っぽい薄笑いを浮かべて言った。

「何のことだ?」

「あの女」

 当然、ミミのことだ。彼女はミカエルの()()()()()である。

 女癖の悪い彼だが、いったん好意を持つと妙に一途な所があるのを、フェルディナンドは知っている。

「あ?」

 ミカエルは一瞬黙り込むが、すぐにカラリとした笑い顔で首を振った。

「別にいくらでもその辺の奴と寝てるじゃねぇか」

「ふぅん……もっと入れ込んでるのかと思った」

「馬鹿言うなって」

 訳知り顔の幼なじみに腹を探られたくないミカエルは、強引に受け流して話題を変える。

「なぁ、これでアイツ、どーなるかな」

 はぐらかして二階を指さす。その先には、二人の罠に嵌まり、今まさに貞操の危機にあるはずの――可愛い本家の王子、ユリウス。

 そうだった、今日の玩具はあっちだ。フェルディナンドは追及の手を引っ込めた。

「女にはまっちゃったりしたら面白いよね」

「あはは、言える。道を踏み外したりしてな」

「ユーリには、今のうちに僕らに山ほど借りを作っておいてもらわなくちゃ」

 フェルディナンドが喉で笑ったのと、困り顔のミミが酒場に顔を出したのが、だいたい同時のことであった。

「ミカエル君、ごめェん。逃げられちゃった」

 言いながら、女は二人のテーブルに歩み寄り、ミカエルの傍に戻る。

「はぁ?」

 腕の中に滑り込もうとするミミを、ミカエルは怒った顔をして、しかし拒まない。

「驚かせちゃったのかしら、可哀想なことしちゃったかな」

「この役立たず」

「ごめんなさぁい」

「どこまでやった?」

「うふふ、教えて欲しい?」

「別に興味ねぇ」

「ミカエルくん、ひどいなあ」

「……二人とも、いちゃついてないでさ」

 呆れるフェルディナンドだったが、その瞳には焦りの色が見えた。

「ユーリ、こっちには来てないよ。逃げられたって、いったいどこから……」

「窓よぉ。あの子ったら身が軽いの」

 ミミは可笑しそうに天井を仰ぐ。フェルディナンドはため息をついて店の外に視線を向けた。

「じゃ、裏通りだね」

 少し迷う。

 追うべきか。

 いや、たぶん今、ユリウスは頭に血が上っている。一人にして、落ち着く時間を与えた方がいいだろう。いかに未熟な彼といえ、ひとりで寄宿舎まで帰るくらいはできるだろう。

「……今日は深追いしない方がいいかな。叔母様にばれると、さすがにこっちもただじゃすまないし」




 盛り場から離れ、静かになった通りの片隅で、ジルは難しい顔で息をついた。田舎町なので、日が暮れるとあっという間に通りから人影が減っていく。

「はぁ……まぁ、わかった」

いつもの冷静さはどこへやらで、彼らしくなかったロディスも、ようやく落ち着いたようだ。

「ユーリのことは分かったけど……でも、だからってそんなカッコでこんな所に来る奴があるか、馬鹿」

 ギムナジアの生徒が、校外でも制服着用を言い渡されているのは、ああいう場所に出入りをさせないためでもある。そのため、ミカエル達のような不良生徒は、うまく大人の目をかいくぐって私服で遊びに出かけるのだ。

「制服であんなところをうろついていて、誰かに見つかったらお前……」

「ごめん。まさかああいう雰囲気の所だと思わなくて……」

「思わなくて……って、酒場なんてあんなもんだろ。お前、もしかして相当世間知らず?」

「……ごめん」

 それについては、ロディスに弁明の余地はない。これ以上彼を責めるつもりのなかったジルは、うなだれる少年の肩を叩いて、来た道を振り返る。

「ユーリの奴、ほんとにあの辺の店にいるのか?」

「確証があるわけじゃないけど……たぶん。ミカエル達がユーリを夕食に招くなんてことは、万にひとつも無いだろうし」

「とんだ上級生だな」

「まぁね……ファーディは監督生だから、色々「抜け道」を知ってるみたいでさ」

 ロディスが語ったバート家を巡る事情は、ジルには理解の及ばないものだ。けれど、ピンチの友人を救いたい気持ちはよく分かる。

「まあ、そんなに情けない顔をするなって」

 心配そうに目を伏せるロディスに、ジルは小さく微笑んでみせた。それから、肩から提げた大きな鞄を持ち直す。

「お前はちょっとここで待ってろ」

「え?」

 目を丸くするロディスに、ジルは来たのとは違う道を指さした。

「玄関側から行っても駄目だ。裏を回って見てくる。そんなに店は多くないから、全部回ればきっと見つかる」

 行ってくる、と言って駆け出そうとするジルのぶかぶかの上着の裾を、ロディスは思わず掴んだ。

「ま、待って、僕も……」

 一緒に行くよと続ける前に、

「駄目だ。ここにいろ」

 強い口調で言い切られる。反論は出来なかった。心配だけど、これ以上ジルに迷惑をかけるわけにもいかない。

「大丈夫、ここら辺は僕の方が慣れてる。すぐ戻るから、絶対ここを動くなよ」




 二階の窓から、どうやって地面に降りたのかの記憶がない。

 とにかく足が地面についた次の息で駆け出して、必死に逃げた。

 知らない裏路地の細道をでたらめに走る。幸い、追ってくる様子は無かった。

 落ち着かなければ。

 落ち着いて、ここからどうやって寮に戻るかを考えなければ。

 ああ、それなのに。

 二つばかりよく分からない角を曲がった所で、追っ手が無いことを確信して立ち止まる。

 止まった途端足が立たなくなって冷たい石畳に座り込んだ。

「何で……こんな……」

 走ったからというだけでなく、早鐘を打つ胸が静まってくれない。

 息が詰まって、耳の奥がガンガンする。血が上った頭の中で鼓動がこだまして、身体の中に三つくらい心臓があるみたいだ。

 逃げてくる時は夢中だったけど、一息ついてみると手足もじんと痺れたみたいで全然言うことを聞いてくれなかった。

 それもこれも、彼女があんなことをするからだ。

 笑いながらキスをしてきた女の、なま暖かい舌の感触がリアルに残っている。

 甘い匂いも、押し付けられた柔らかい胸も、細い指が身体をまさぐってくる、背筋がゾクゾクするみたいな感触も──全部まだ身体に纏わりついているようで、ひたすら少年を混乱させた。

 すぐに突き飛ばして逃げればよかったのに、なぜ抗えず、されるがままになったのだろう。

「……あああもう!」

 ショックだし、情けないし、腹立たしいし。頭がどうにかなってしまいそうだった。

 声が届いたのは、そんな刹那のことだった。

「見つけた! ユーリ!」

 誰が己の名を呼んだのか分からず、ユリウスは弾かれたように身構える。けれど、声をかけてきたのがジルだということには、すぐに気付けた。

「……ジ、ジル……か?」

 ロディスを表通りに置いて路地裏に入ったジルが、空瓶の積まれたコンテナの側で小さくなっていたユリウスを見つけたのだ。

 友人に怪我が無さそうなことを確認し、ジルは深く安堵の息をついた。

「全く、世話の焼ける奴だ。何をこんな所でへたり込んでる」

「そ、それは……っていうか、君は……なんでここに」

 ユリウスは笑おうとして、しかし強ばったままの頬は笑いの形をつくってくれない。声は上ずり、震えている。全く、情けないったらない。

「……何かあったか?」

「ま……まぁ……色々とね」

 こんな場所で、こんな状況。何と取り繕えば、彼は納得してくれるだろう。

 正直に打ち明けるには、先ほどの出来事は衝撃的すぎるし、恥ずかしい。酒場に入ったなんて言って、真面目なジルに軽蔑されでもしたら――

 けれどジルは、それ以上追及せずに短く続けた。

「ロディスに頼まれた」

「えっ?」

 友人の名前を聞くと、ユリウスは意外そうに顔を上げた。

「随分心配してた。街道に出たとこで待ってるぞ」

「……ほんとに?」

 今日のロディスを思い出す。そういえば、彼は昼間から心配してくれていた。あの友人であれば、こういう事態を予見できたのかもしれない。自分とミカエル達との関係もよく知っているし……もっとちゃんと、はじめから相談しておくべきだったかもしれない。

 あれこれと考えを巡らすうち、何だか妙にホッとした気分になってくる。そんなユリウスを見下ろし、ニッと笑って、ジルは手を差し伸べた。

「ほら、さっさと立て。帰ろう」

 帽子の奥の青い目が、いつもより少しだけ優しく笑う。

 狭い路地裏、背の高い建物に区切られた細い空に、中途半端な形の月がくっきりと輝いていた。


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