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二十二 酒場 1/3

 夕刻、私服に着替えた青年達が、とある酒場のドアをくぐる。

 店主は彼らが学生だということには気付いているが、文句を言う様子も無く他の客と同じように出迎える。

 煙草の煙と、店の隅々にまで染み込んだかのような酒の匂い。平然とテーブルにつく従兄達に、ユリウスは途方に暮れた様子でおずおずと付いていった。

「あ~っ、いらっしゃい。今日は随分可愛らしい子を連れてるのね、ミカエル君」

 まもなく、薄暗い店内に女の媚びた声色が響く。店の奥から現れたのは、派手な衣装を着た、若い女だった。

(うわ……)

 扇情的な、殆どこれって下着なんじゃないのか、と言いたくなるような格好で、女はユリウス達の前をゆっくり歩いて、ミカエルの傍にピタリと寄り添った。彼女がただのウエイトレスではなく、彼のなじみの娼婦『ミミ』であることを、ユリウスはもちろん知るよしもない。

「可愛いうちの王子殿下だぜ。なっ」

「あ……あはは。こ、こんにちは、お姉さん」

 化粧も派手だし、爪だってあり得ない色を塗りたくっている。確かに蠱惑的な肢体だけれど、これではまるで……

(毒きのこ……)

 言葉を失う少年の瞳を覗き込む女の目元は、化粧が濃すぎてもとの形が分からない。こんなの、派手なばかりで美しさとはほど遠く思える。

「もう、駄目よ、こんな子を不良の道に引きずり込むつもりなのね、二人とも」

 女の所作は万事わざとらしい媚びに満ちている。こんなのが良いのだろうか。ちょっと女の好みを疑ってしまうな、とぼんやり思う。

「ふふ、ユーリは次のトッカル大統領だからね。ミミも仲良くしておくといいよ」

 フェルディナンドは壁際の落ち着く場所に陣取っている。彼が大人の前で猫を被っていることは知っていたけれど、それでも普段の優等生っぷりから考えると、目を疑うような光景だ。

「うふふふ、すごーい、この子が?」

「そ。天下のバート家の一人息子だよ」

 言って、底意地の悪いまなざしをユリウスに向ける。思わず目をそらす。どうしよう、嫌な感じだ。

「そんな偉い子をこんな所に? いやーん、もう、ほんと、悪いわねぇ」

「社会勉強だよ社会勉強。な!」

 ミカエルは明るく笑う。がらは悪いけれど、こちらは見たままの人物だ。良くも悪くも単純で、見た目ほど悪い奴じゃない。

(ミカエル一人だったら良いんだけどなぁ……)

 ぎこちなく愛想笑いを返し、ユリウスは目を泳がせる。この場をどう振る舞って切り抜けるべきか、必死に考えていた。

「緊張してる、かわいいわね」

 女は、一通りミカエルと会話を交わして注文を受け、カウンターの中へ下がる。平気で酒の注文を受けている。ここの店の者は自分を見ても何も思わないのだろうか。もしかすると裏で通報されているのかもしれないが……ミカエルはともかく、フェルディナンドがそんな危険をおかすとは考えにくい。あの女も二人となじみのようだし、これは、日常的にこの店に酒を飲みに来ていると考えるのが普通だろう。

 二人は何を企んでいるのだろう。気が重い。一刻もはやく帰りたい。酒を持ってきた女の、ふわふわと揺れる茶色の髪を、ユリウスは焦点の合わない目でただ呆然と眺めていた。






 キリエフは、にぎやかなモスクワから比較的近い場所に位置しているにも関わらず、交通の便が悪いせいでいつまでも「田舎」を抜け出せない、小さな街だ。

「ほーんと、何も無くて嫌になるよ」

 道案内を買って出てくれたレフと並んで、夕暮れの街道を下っていた。

「静かでいいと思うけどな。僕はモスクワみたいな都会より、こっちの方が好きだよ」

「えー」

 ロディスの言葉に、先を歩くレフは後ろ姿のままどことなく楽しげだ。

 この地方唯一の中央議会議員の息子らしく、すれ違う人間にも知り合いが多いらしい。声をかけられるたびに愛想よく笑って答えていた。

「だって、僕の実家のある所もこんな感じだし」

「ほんとに?」

「ほんとほんと。レーゼクネも静かなところだよ」

 故郷の街を思い浮かべつつ、ロディスは頷く。風景が似ているわけではないけれど、田舎町に親しみを覚えるのは確かだ。

「そっかぁ……まぁ、俺だって嫌いじゃないけどさ。生まれた街だし」

 車もまばらな街道を歩きつつ、レフは独り言のように呟いて笑う。

 その気持ちは理解できるな、と、ロディスは思うけれど、改めて同意されると反発したくなってしまう気がしたので、何も言わずにおく。こうしてずっと故郷で暮らしているレフが、少し羨ましいようにも思えた。

 やがて、大通りにさしかかったところで、レフはふいに立ち止まる。

 そして、

「で、問題の場所のことだけど」

 と、おもむろに脇道を指して口を開いた。

「う、うん」

 うっかり和んだ気分になっていたロディスは、ハッとして笑顔を引っ込めた。

「さすがにこんな街でも酒場のある通りは何ヶ所かあるんだけど、うちの生徒が行くとすれば、この角を曲がった向こう。たぶん」

「よく分かるね……」

「他だとちょっと遠すぎるから、消灯までに戻れないんだ。遅れると通用門まで閉まっちゃうわけだから……さすがに十二年でも、朝帰りはまずいだろ?」

「……なるほど」

「そういうこと」

 そこは、今自分たちが歩いている街道よりも細く、夕暮れの陰になっているせいで随分暗く見える。一本道をそれただけなのに、自分ひとりで入ってみようとは思えない雰囲気だ。

 僅かに短くなりはじめた日が、ひなびた街の家々に深い陰影を落とし、見えない彼方の地平線へとゆっくり落ちていく。

 ユリウスは今ごろどこにいるだろう。自分が行ったところで何の力にもなれないだろうし、だいたい余計なお世話に違いない。

 様子だけみて、大丈夫そうならこっそり戻って来ればいいと思いながら――ロディスは帰宅するレフと別れ、角を曲がって路地中へ向かった。





「なぁユーリ、どれと結婚するか決めたのか?」

「へ?」

 顔を上げると、ミカエルのニヤニヤ顔。苦い酒を必死で舐めていたユリウスに投げ掛けられた質問は、まるで予想外のものだった。

「うちの妹含め、とっかえひっかえ君のご機嫌を伺いにくるでしょう。みんなそろそろ必死なんだよ、わかってる?」

 どうやら、休暇の度に家にやって来る、親類縁者の娘達のことを言っているようだ。実家(モスクワ)に戻るたび、誰かしら縁者の娘が遊びに来るのだ。確かにフェルディナンドの妹の姿もあったような気がする。

「いや、別に、来るけど、そういうわけじゃ……」

「そりゃあ、花嫁候補の売り込みに来ましたなんて言わないさ。馬鹿な子だねぇ。でも、気付いてないわけじゃないでしょう?」

 気付くもなにも、そんなこと考えてみたこともなかった。結婚なんて、まだ遠い未来のことなのに。

「ほらほら、びっくりしてないで飲めよ。十四にもなって奥手な奴だなぁ」

「そうだねぇ。ユーリは将来人の上に立つ人間になるんだから、もっと色々知らないと駄目だよ」

 戸惑う弟分を面白がるミカエルの隣で、フェルディナンドがにやりと笑う。この、頭が良くて狡猾な青年が、いつも幼なじみ(ミカエル)に入れ知恵をしているのだということは、察しがついている。

 ああ、嫌だ。はやく帰りたい。

「そ、そうだけど、でも、結婚とかはどうも……ピンと来ないというか……」

「へぇ……」

 何とか逃げ出す方向に話を進めたいと必死だったが、今のユリウスでは一手も二手もフェルデイナンドに及ばない。

「まあ、そうか。そうだよね。ユーリにはまだ恋人すらいないみたいだし」

「な……」

「そういうの、興味ないの?」

 嫌みな口調、上品なのにいやらしい微笑み。自分がどんどん逃げ場を無くしていくような気がして、背筋を冷えた汗が伝う。

「興味ないって、って、わけじゃ、ないけど……」

「へぇ。じゃあどうして屋敷にやって来る女の子達から逃げ回るのかな?」

「それは……」

「ふふ、うそうそ。分かるよ。ユーリも大変なんだよね」

 返答に窮して口ごもる従弟に、フェルディナンドは同情するように言った。

 それまで、二人のやりとりを眺めつつだらしなく椅子に座ってグラスを玩んでいたミカエルは、急に身を起こして声を上げた。

「おい、ミミ!」

「はぁい」

 ミカエルは呼ばれてやって来た女の肩を無造作に抱いて、悪戯っぽく囁いた。

「こいつ、女の何たるかをまだちっともわかってなくてさ。お前、ちょっと可愛がってやれよ」

「えっ?」

「な!」

 ミミは驚いた様子でミカエルの顔を見るが、ユリウスはもっと吃驚している。

 フェルディナンドはおかしそうに声を上げて笑った。

「あはははは、それいいね。最高!」

「もー、二人とも本気?」

「頼むよ。お前なら可愛い従弟を任せられるってもんだ」

「あ……の……」

 まさに、ろくでもないコトに巻き込まれようとしている。逃げようと席を立ちかけるユリウスの肩を、ミカエルの大きくて浅黒い手が掴んだ。

「怖じ気づくなって。男だろーが」

 親しげに笑う従兄の手は力強い。これは――振りほどけない。

 今の自分は、彼に力では敵わないのだ。それが分かるから、無謀な抵抗を試みる気力はわかなかった。

「……んもう、まぁいいわ、この子の方がミカエル君よりかわいいし」

「可愛いって。よかったね」

「うふふ、おいで坊や。ミミと向こうで遊びましょ」

「え……あの……」

 勝手に話が進んでしまう。慌てることすら出来ず固まったままのユリウスに、フェルディナンドは満足げな笑いを浮かべて言った。

「ぼうっとしてるとミミに悪いよ、ユーリ。行っておいで」

「緊張すんなよ、どーってことないからさ」

「わ……ちょっと……」

 女の白い腕がユリウスの制服の腕をからめとる。怖くて、気持ち悪くて、今すぐにでも逃げ出したいはずだった。けれど、自分に触れる、奇妙な程に柔らかく感じられるその腕の感触と、鼻を突く安物の香水の匂いに、まるで麻酔にでもかけられたように目の奥がチカチカして抗えない。

 まずい。

 逃げなければ。

 今すぐに──





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