三 ギムナジア《ロディス》
翌日。
すがすがしい木漏れ日と森の空気の中、見慣れた校舎を仰いで、ロディスはほうとため息をついた。
「……いつものことながら、どうしてこんな田舎にあるんだろう。ここ」
朝早くモスクワに入ったのに、正門をくぐる頃には午後をすっかり回った時間になってしまっていた。
彼の学ぶペトルシキム・ギムナジアは、モスクワ郊外に位置する国立の男子寄宿舎学校である。
ガイア連邦共和国建国三百周年を記念し、建国当時のロシア大統領、ヴィクトール・ペトルシキムを記念して創立された学校であった。
六歳で入学できる幼等部から、十二年に渡るストレートでハイレベルな一貫教育で知られる、伝統と格式のある進学校だ。
ただし、モスクワといっても、中央市街から電車とバスを乗り継いでさらに二時間ばかりかかる田舎町にあり、その上、町の中心地からも少し離れた場所にある。なだらかな丘を丸ごとひとつ利用して作られたという学校は、とにかく広い。なにしろ、正門をくぐってからも随分歩かないと、校舎にも寄宿舎にもたどり着くことが出来ないのだ。
ロディスは校舎へは向かわず、寄宿舎へ向かって歩きはじめる。
敷地の殆どは庭と浅い林になっている。庭を縫うように作られた歩道は、普段であれば年少の者たちが遊び回る声で満ちているものだが、今は夏季休暇中である。生徒の殆どは帰省していて、すれ違う者もいなかった。
しかし、かわりに今日は小鳥のさえずりがはっきりと耳に届く。どことなく楽しげなその歌が響く森の天辺を仰ぐと、キラキラした木漏れ日が頬を撫で、柔らかい地面へと滑り落ちた。
敷地内には何ヶ所かに分かれて、生徒達が暮らす寮がある。
手入れの行き届いた庭の中に点在する宿舎では、一棟当たり八十名ほどの少年たちが、世話役の大人と共に共同生活を送っていた。
庭木の合間から見慣れた建物が姿を現すと、思わず嬉しい気分になってしまう。
ロディスにすれば、入学してからの時間の大半をここで暮らしているのだ。この学校はもう、第二の家と言っても差し支えのない場所なのだ。
「ロディ! あんたいつも早いわねぇ、おかえり」
玄関を入ってすぐ、愛嬌のある声に呼び止められた。掃除婦のハンナはこの寮唯一の女で、ここでは全員の母親のようなものだ。丸い顔と同じように丸っこい手足をちょこちょこと動かして玄関の床を掃除している。きれい好きなのか仕事がのろいのか、一日に二十時間くらい掃除をしているともっぱらの噂だ。
「ただいまハンナさん、僕の荷物、届いてる?」
「ああ、今朝着いたよ。部屋に入れてあるからね」
「ありがとう」
「まだみんな帰ってないから、食堂は八時までしか開いてないよ」
「はあい」
木の階段を話しながら上る。
部屋は二階だった。
外の遊歩道と同じように、廊下にも人影はない。皆、きっと休暇ぎりぎりまでを実家で過ごしてから寄宿舎に戻るつもりなのだろう。
今日からしばらくは自分ひとりかな、と、思いながら自室のドアを開けたロディスだったが、次の瞬間、そうではないことを知る。
二段ベッドの向こう、庭に面した窓際。
黒いセーラー襟がひらりと揺れて――
「や、そろそろじゃないかと思っていたんだ」
部屋には、既にもう一人の住人が戻っていた。
振り返り、ロディスを見るとニコリと笑う。陽を受けてキラキラ輝く金髪に、利発そうなアイスブルーの瞳。若木のように無駄なくしなやかに伸びた手足は細くて長く、肌は白磁のように硬質で滑らかだ。はつらつとした雰囲気を持つ、華やかな少年だった。
「あれ、ユーリ……」
ひとつ年上のルームメイトで、名はユリウス。
てっきり彼も、休暇の終わりまで学校に戻らないと思っていたのに。
「今朝、君が帰ってくるって聞いてさ。待っていたんだぞ」
驚くロディスに、ユリウスは笑った。しばらく実家に戻っていたから、この幼なじみの声を久しぶりに聞いた気がする。
彼はいつも妙に自信に満ちていて、それからちょっとだけ偉そうだ。
「戻ってたんだ」
「ああ。休暇中なんて家にいても遊びに来るのは親戚の女ばっかりで。いい加減僕だって疲れるのさ」
ユリウスは大げさな口ぶりで言って、もっともらしい顔で肩をすくめる。
その表情を見て、休みのせいでしばらく遠のいていた、友達と一緒に暮らす感覚が、唐突にぎゅうんと戻ってくる。長く宿舎を空けた後は、だいたいこんな感じなのだ。
(また、しばらくは賑やかになるなぁ)
嬉しいような、うんざりするような、やっぱり嬉しいような感じ。
この美しい幼なじみが早々に帰省を切り上げて帰ってきた理由には、他の心当たりがあった。ロディスは部屋の隅に置かれた荷物を開封しながら、皮肉っぽく目を細める。
「そんなこと言って、どうせお母様から逃げてきただけでしょう」
「な」
ユリウスがパッと赤くなって、
「そ、そんなことはないぞ!」
必死の体で反論する。やっぱり図星か。
ユリウスの家は特殊である。彼はかのトッカル「王室」バート家の現当主、ニコライ=ラルフ・バートの一人息子なのだ。
とはいえ、王室というのは通称で、本当のところはそうではない。
バート家は政治家の一族である。大統領制をとっているトッカル自治区では、長い間、かの家の者が実質世襲の状態で大統領職を勤めているため、周りの者が親しみを込めてそう呼び慣らしているだけだ。
「い……いやぁ、しかし、君がさっさと帰ってきてよかった!」
ユリウスはわざとらしく話題を変え、同時に気分も切り替えたらしく(こういう自己暗示能力というか、思い込みの強いところはロディスには全く羨ましい)、一瞬前とはうって変わって目を輝かせる。
「戻ったのは一昨日なんだけど、も……退屈だったんだよ! 何しろ誰もいないだろ。ハンナをからかうくらいしか面白いことが無くて」
その笑顔は利口そうで、また子供らしい屈託の無い自信にも満ちていて、何も知らない者から見れば随分と魅力的な少年に映るだろう。けれど、
「ユーリ……」
嫌な予感がして、ロディスは目を細める。
入学初年度から同室で、兄弟のように育ってきた相手のことだ。何を考えているのかはだいたい分かる。
「悪いけど、僕は休暇中までユーリに付き合う気はないからね」
「まだ何も言ってないじゃないか」
ユリウスは校内でも有名なのだ。それは、決してバート家の「王子」だからだというだけではない。
彼はその、優秀なはずの頭脳を悪戯の計画にしか使わず、やれば出来る努力の積み重ねをその実行のためにしか行わない。
要するに、天才的なトラブルメーカーにして校内指折りの問題児なのだ。
彼の退屈に付き合うとろくな結果にならないのは、長い寄宿舎生活で身にしみている。くだらない悪戯に付き合わされては大変だ。
「休みが明けたらすぐに試験だよ。暇なら、図書館で勉強でもするのがいいと思うけど?」
「えーっ、なんだいそれ。そんなの、せっかくの休みをどぶに捨てるようなものじゃないか!」
面白みの無い台詞を吐く友人にユリウスは不満顔だが、ロディスはおかまいなしに部屋に届いた荷ほどきをはじめると、取り出しやすい場所に収めてあった勉強道具を取り出して立ち上がる。
「君は君で好きにすればいい。僕はさっそく、夕方までをどぶに捨ててきます」
「え……ちょ、ちょっと、待ってくれよ、ロディ!」
「ついてこないでよね」
「ちょっと……!」
なるべく冷たくそう言い放ち、ロディスは情けない声をあげるユリウスを置いて部屋を出た。
寮を出て芝生の庭を渡り、しばらく歩いた場所に、学生のための図書館がある。学校の長い歴史の中で蓄えられた蔵書は、中等教育機関にしては結構なものだ。
静かで空調の効いた閲覧室は自習にもってこいだが、読書好きのロディスにとっては、実は少々、誘惑の多い場所でもある。何しろ、最近の作品はもちろん、西暦代の有名な文学作品なども揃っているのだ。レーゼクネの実家にある父の書斎だってなかなかのものだが、こんな図書館はそうそう無い。
とにかく、ここは大のお気に入りの場所だった。
しかし――
「じゃーん! コレなんかどうだろう。『東方の怪奇妖怪・大百科ビジュアルガイド』!」
よっぽど退屈だったのだろう。結局、ユリウスはくっついて来た。
「あ、こっちも面白そうだったぞ。『誰でも起こせるポルターガイスト 呪いの解説ビデオ付き』!」
先ほどから図書室内を飛び回って、なぜかオカルト本ばかり集めては勉強の邪魔をしてくる。
「何なの、一体」
「えへへ、一緒に読もうかなーと」
「……ひとりで読めばいいじゃないか。だいたい、僕はついてこないでって、言ったんだけど」
冷ややかな視線で迷惑をアピールしてみたけれど、ユリウスには通じないらしい。
「君の邪魔はしていないんだから、いいじゃないか!」
「どこが。さっきから五回目だよ。君が怪しげな本ばっかり持ってくるの」
「それは、君がなかなか本を気に入らないから……」
別にユリウスのことは嫌いじゃないし、ロディスは特別冷淡な人間というわけでもない。この異様に押しと我の強い友と対等にやっていくには、冷たいくらいでちょうどいいということを、これまでの七年あまりで学んでいるだけなのだ。
「見ての通り、僕は勉強をしてるんだよ。それとも、ユーリはそういう本をひとりで読めないの?」
「えっ? そ。そんなことはない。全然、読める。普通に。当然!」
「へぇ……」
ロディスはうずたかく積まれたオカルト本の山を見つめる。このチョイスに、今の妙な反応。
(そっか。なるほどね)
何かしら勘づいたらしく、ロディスは意地悪そうに目を細め、山の一番上に置いてあった本を手に取る。
「これ、面白そうだよ。ユーリ、読んでみたら?」
ユリウスは唐突にずいと突き出された本を、きょとんとして受け取った。
「『モスクワの心霊スポット・フォトガイド』……」
表紙を見つめ、中を開こうとしないユリウスの表情はなぜか、あまり嬉しそうとは言いがたい。ロディスは端正な口元を緩めて言った。
「うん。それに、こういうのは人のいない静かな場所の方が気分が出て良いものだよ。ぜひ、隣の閲覧室を使うといい」
「隣!?」
「そうだよ」
「隣……」
「何か不都合でも?」
友人が躊躇する理由は分かっているが、それについては触れてあげない。負けず嫌いのユリウスは、こうなるともう引っ込みがつかなくなることが、分かっているからだ。
「わ……わかった。隣だな……」
ユリウスは、意を決したように神妙な顔で頷く。
「読んだら感想聞かせてよ」
「りょ、了解。感想だな……」
怖いもの見たさというのは、一体どういう理由で沸いてくるものなのだろう。ロディスにはさっぱり分からない。
見たくないものなんて、見なければいいだけのことなのに。
渡された本を手にすごすご出て行く友の後ろ姿を、ロディスはため息で見送った。とりあえずこれで、やっと邪魔されずに勉強を続けられそうだ。