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十七 渡り鳥

 男――マル――は、まず、モスクワで現金を引き出した。

 何日も注意深く過ごしてみたが、監視がついているような風ではなかったからだ。

 預かったマネーカードには、貧困に慣れきった男にすれば使い切れないんじゃないか、というくらいの金が入っていた。

 最初は全部出して逃げようと思ったが、現金ではそんな大金は持ちきれないし、第一、目立って怪しまれでもしたらコトだ。

 ここは我慢して、最初は控えめに。

 これだけあれば、当分生きていけるはずだ。

 ベリスあたりに逃げて、新しい身分証を買って、口座を作って金を移して、家を借りて、職でも探そう。顔を変えても良いし、できれば家族も欲しい。

 ──契約違反。


 なぜそんなことをしたのか。答えは単純だった。

 雇い主を信頼していない。

 依頼を成功させたところで、自分に待っているのは口封じのための死だと思っていた。請けてきたハビがどう思っているのか知らないが、自分は馬鹿じゃない。これは()()()()類の儲け話だ。

 だったら引き受けなければ良かったのかもしれないが、目の前に差し出された報酬はあまりに莫大だった。

 仲間の誰にも詳しく話したことはなかったが、かつての自分はこんなではなかった。住む家もあったし、家族もいたし、誰もが知っている大企業に籍を置いて──そうだ。こんなはずじゃなかったんだ。

 このまま荒れ地で塵芥のように死ぬまで生きるなら、リスクを冒しても逃げる方に賭ける。そう思っていた。




 ひやりとした風が吹き抜ける鐘楼の屋上で、ラフィータは冷えたサンドイッチをかじりながら、眼前に広がる夜の景色をただ眺めていた。

 日付が変わりつつあるこんな時間、地上に見える光は少ない。

 そのかわり、見渡す限りの星の海。

 近くにここより背の高い建物がないおかげで、この場所からは空がとてもよく見えた。荒れ地でも空は広かったが、ここの空の方が美しいような気がした。

 何故かは分からない。もしかすると、空の下に街があるからなのかもしれない。

「ラフィータ、寝てなかったのか?」

 不意に夜風に声が乗る。下で寝ていたはずのハビが屋上まで上がってきていた。

「ねむい……でも……」

 ラフィータは少し悲しそうに続けた。

「マルに……つながらないの」

「何がだ?」

「これ」

 少年が差し出したのは、ハビの通信機だった。

「お前、またオレの荷物を勝手に……」

「だって……」

「余計なところにかけてないだろうな」

「かけてない。おしたのは、マルのところだけ」

「で、マルに繋がらないって? 寝てるんじゃないのか?」

「うーん……」

 ラフィータは、博識で優しいマルが好きだった。だから、こちらに来てからも時々ひとりで電話をかけては意味も無く話をしていたのだ。

 ここへ来るまでは電話など見たことも聞いたことも無かったラフィータだったが、端末の使い方は自分を見て勝手に覚えるようで、一度興味を持ってしまうと触るなと言ってもサッパリ効果が無い。仕方なく、最近はマル以外にはかけるなときつく言いつけてあった。

「別に、繋がらない時くらいあるだろ。明日またかけてみろ」

「ハビも、かけてみて」

「俺は別に今奴に話すことなんかない。もう遅いんだから、明日お前がまたかけてやれ」

「うー……」

 しつこくむくれるラフィータだったが、ハビが真面目な声でしつこいとたしなめると、渋々諦めたようだった。

「ほら、もう降りるぞ。今日は寝ろ」

 言って、ハビはラフィータの手に残っていたパンを口に入れて、先に立って階段を下りる。

 まだ何か言いたそうな少年だったが、これ以上食い下がっても叱られるだけなので、端末についた小型モニタを暫く見つめ、それから、名残惜しそうに電源を切った。

「マル……」

 心配そうな少年の呟きを、聞いた者は誰もいなかった。




 うまくいった!

 うまくいった!

 これは確実に逃げられる!


 人波に紛れて電車に乗って、南へ、南へ、南へ。

 ベリスとの自治区境界は車で越えた。身分証はある。しかも、少し金を出して先に新しいものを買った。身なりも良く見えるように、久しぶりにネクタイなんか締めて、ちょっとしたビジネスマン風。

 前の身分証とマネーカードは焼き捨てた。

 完璧だ。


 ベリスに入ると街の雰囲気は変わる。

 やはり暖かい土地はいい。心なしか人々の顔つきも明るいようだ。シノニアじゃなくてベリスにして正解だと思った。

 境界の街で夜になったので、少し迷ったが上等のホテルを取る。

 ここで一息ついて、明日はまた移動しよう。暫くはひとところに留まらない方がいいに違いない。

 とにかく、今日は疲れた。

 ダブルベッドに寝転がって、上品な壁紙の貼られた天井を見る。安堵と疲労に包まれてうっとり目を閉じようとした時、チャイムが鳴った。

 ああ、頼んでいたルームサービスがもう届いたのかと感心しながら、男はウンと伸びをして起き上がった。

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