第30話 惑わす香りは一時の幻
涙が込み上げた。でも、ここで泣いたりしてもどうにもならない。
ぎゅっと瞼を閉じた時だった。ふと、香道の志乃先生の言葉を思い出した。
『薬師様。惑わす香りは一時の幻にございます。お心を強くお持ちなされよ』
心を強く。
繰り返し思い出す。
「眠ってしまわれましたか?」
耳に届いた声は、春之信さんなんかじゃない。知らない男だ。
ぴくりと指先が動いた。
金縛りが解けていることに気付き、どうしたらこの場を切り抜けられるか、瞬間的に考えた。
今、目を開けては駄目。だって、男の気配が凄い近いもの。
ぎしりとベッドの軋む音がした。これ以上近づけさせてなるものか。
「良い夢を」
すぐ側で男が囁いた。
この場を切り抜ける手は一つ。もしかしたら他にあったかもしれないけど、今は、これしか思いつかない。
春之信さん、力を貸して。──私は髪をまとめていた簪を引き抜いた。
「ごめんなさい!」
一応、謝っておくわ。でも、手加減なんてしないで、私は手にした簪を男に突き立てた。
「ぐああぁっ! 何をっ──!!」
指先に嫌な感触が伝わり、男は声を掠れさせるほどの絶叫を上げた。
目を開けると、片目を手で覆た男が床で蹲っていた。その指の間からは、赤い雫が落ちて床を汚している。男が立ち上がろうとよろめいた瞬間、私はありったけの魔力で光の壁を展開した。
眩い壁は、守りの壁。だけど、これは私を守る物じゃない。
壁は、男を四方八方から囲んだ。そう、守りの壁を使って彼を閉じ込めたのだ。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
「ごめんなさいって謝ったわ。それに、私はヘドリック・スタンリーの元になんて行きません!」
「くくっ……残念だが、船はもう出航している」
「泳いででも、栄海に戻るわ!」
足枷の鍵を外そうと、掌を翳したその時だった。
船が大きく傾いだ。
おかしい。外は青空が広がっている。時化ている訳でもないのに、どうしてこんなに揺れるのかしら。
疑問に感じたその時だった。部屋のドアが激しく叩かれた。
男の口角が上がる。
「ここにいるのは、私の仲間だということを忘れないでいただこう」
どうせお前に逃げ場はない。そう言うように男は肩を揺らして笑い声をあげた。
「だったら、窓から海に飛び込むわよ!」
今度こそ、足枷に手を翳して開錠の魔法を唱え、自由になった私は窓に走り寄った。
背後でドアが煩く叩かれる。まるで蹴り破ろうとしているような音だ。
急がないと、捕まってしまう。
焦りながら指を滑らせ、やっとの思いで窓の鍵を外した時だった。ドアがバリバリと音を立てた。そうして──
「薬師殿!」
聞き覚えのある声が、私を呼んだ。
そんな。だって、彼がここにいる訳がないのに。
窓が開き、冷たい海風が入り込んだ。甘い香りが全て吹き飛ばされる。
振り返ると、何人もの武士が雪崩れ込むように入ってきた。その中に、春之信さんもいて、彼は真っ先に私のところへと走ってきた。
「……春之信、さん。どうして……ここ、海の上、ですよ」
大きな手が私の手首を掴んだ。温かい手に引かれ、ああ、彼の手だと安心する。温かい胸から漂う香りは仄かに甘く優しい。あの熟した果物のようなものとは違う、絶対に。
この人は、本物だ。──指から力が抜け、血に汚れた簪が床に転げ落ちた。
「助けに来るのが遅くなり、申し訳ありません」
背中に両手が回され、そっと撫でられる。
安堵感で胸が苦しくなり、堪えていた涙が頬を伝った。
「春之信さん……春之信さん……」
彼の背中に両手を回してしがみ付いた私は、その名を呼ぶことしか出来なかった。
まるで駄々っ子のように泣いて彼の名を呼び続ける私を、春之信さんは嫌がらずに、ずっと髪を撫で続けてくれ、そうして、
「もう大丈夫ですよ。マグノリア殿」
私の名をはっきりと呼んでくれた。
◇
捕らえられた男の名はロン・シルビー。ドワイト商会と並ぶ実績を持つターナー商会の薬師だった。
船を調べると、輸出が許されていないものや、恒和の地図などが見つかったそうだ。どうやら、密輸船に私は乗せられていたらしい。その中に、藤倉様の書もあり、彼が藤倉様の日誌を盗んだ犯人である証拠となった。
一通り事情聴取を終えた後、私は藤倉の屋敷に戻ることが出来た。
私の姿を見たエミリーは大泣きで抱き着き、今はお茶を淹れてくれている。
部屋を訪れた藤倉様にいたっては、頭を座敷に擦りつける勢いで謝りだした。
「マグノリア殿、怖い思いをさせてしまった。申し訳ない」
「藤倉様、頭を上げてください。皆さんのおかげで、私は無事でしたから」
「しかし……女子ひとり守れぬとあらば、藤倉の名折れ。ここは──」
「本当に、大丈夫ですから!」
切腹を言い出しそうな勢いの藤倉様に、慌てた私は駆け寄ってその背に手を添えた。
「怖い思いはしましたが、春之信さんが助けてくれました。それで十分です」
「なんとお優しい……これからも、藤倉の力をお貸しいたそう。それが、そなたを危険な目に合わせた、藤倉の罪滅ぼしと思って下され」
またとない言葉だった。だって、それはつまり、藤倉家は私の後ろ盾となってくれるじゃない。
目を見開いて驚いていると、藤倉様は穏やかな笑みを浮かべた。
「マグノリア殿、これからも藤倉を、いいや、春之信をよろしく頼みましたぞ」
「……え?」
「いやなに、そなたが船に乗せられたと知った時の、春之信の慌てようといったら!」
背筋を伸ばした藤倉様は肩の力を抜くと、くつくつと笑い声を零した。それを見て、春之信さんが困ったように「お祖父様」と低くいう。
一瞬にして、いつもの空気が戻ってきた。
ほっと胸を撫で下ろした私は、ふと思い出した赤い霧のことを藤倉様に尋ねた。
「そういえば、あの赤い霧なんですが」
「赤い霧とは、何のことだ?」
「え?……それを吸って、私は気を失ったんですが」
「霧などなかったぞ。マグノリア殿が突然気を失ったゆえ、わしが女中を呼んだのだが」
その隙に私の姿がなくなったのだという。当然、大騒ぎになって屋敷中を探したが見つからなかったらしい。
「では、甘い香りはしませんでしたか?」
「甘い香り……そういえば、実の熟したような匂いがしておったの」
つまり、あの霧を認識できたのは私だけだったけど、藤倉様にはなんの影響もなかったということね。
幻惑魔法をより効果的に発動するために香りを使ったのかしら。でも、それなら藤倉様も魔法にかかりそうなものだけど。
「マグノリア様、難しい顔をされて、どうしたんですか?」
「え? あの香りは何だったのかなって……」
「犯人は捕まったんだし、もう、心配することないんじゃないですか?」
ハーブティーの入った茶器を配るエミリーは、春之信さんの顔を見て含み笑いをした。
そういえば、春之信さんはさっきから一言もしゃべっていないわ。責任を感じているのか、固い表情のままだ。
「春之信様、怪しい船の報告が来た時、凄い剣幕だったんですよ」
エミリーが嬉しそうに話すと、春之信さんは「それは」と呟いたけど、すぐさま口を閉ざしてしまった。
「それにしても、よく船を突き止められましたね」
「沖に見覚えのない船があると遠見番所から報告があったのだ」
「遠見番所?」
「港に出入りする船や、沖にある船を監視する者が詰めている場所のことだ。その報告で、侍女殿が船体の特徴に見覚えがあるといってな。そなたの侍女は本当に頼もしかったぞ」
ハーブティーをずぞぞっと啜った藤倉様は、ちらりと春之信さんを見た。
「そこで、春之信に手勢を預けて向かわせたのだ。のう、侍女殿」
「エミリー、船に詳しかったのね」
「実は、私たちが航海に出る時、乗る船を間違えそうになりまして。その時、ドワイト商館長とは仲が良くないっていう船もあると、船員さんに話を聞いてたんです」
「エミリー……ありがとう」
偶然って重なるものなのね。
照れ笑いをするエミリーの両手を握りしめてお礼を言うと、彼女は「マグノリア様のためですから」とはっきり言い切った。
「でも、動いている船に乗るのは大変だったんじゃないですか?」
「マグノリア様、お忘れですか?」
「何を?」
「私の得意魔法は強化魔法ですよ!」
「それって、つまり……」
「武士の皆さんをバンバン強化して、船から船へ突入してもらいました!」
胸を張ったエミリーの自信満々な顔を見て、私はぽかんとしてしまった。何とも頼もしい話だ。エミリーは世界一の侍女ね。
「エミリー、至急、ロゼリア様に手紙を出しましょう」
「今回のことを報告するんですね」
「ええ。それと……藤倉家が力になってくれることになったと伝えるわ」
「しっかりとご報告させていただきます!」
「……誇張はしないでよね」
「何のことでしょうか?」
ふふっと笑ったエミリーは、胸を叩いてお任せくださいといった。
「さて、わしは部屋に戻るとしよう。マグノリア殿、また後日ゆっくり話をしよう。そうそう、侍女殿。美味い十三里があるのだが、取りに来ぬか?」
「じゅうさんり?」
「昼間、マグノリア殿にお出ししようと思っていたものだ。侍女殿の分もあるゆえ、二人で食べるといい。栗より甘くて美味いぞ」
「栗よりも!? いただきたいです!」
「そうかそうか。では、ついて参れ」
上機嫌で笑う藤倉様についていくエミリーは、スキップをしそうな足取りで部屋を出ていった。
次回、本日19時頃の更新となります
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