第29話 目が覚めるとそこは、海の上だ…
波の音が聞こえる。
押しては引く優しい波ではなくて……そう、船が波しぶきを立てて進行する時の音だわ。ざざん、ざざんって打ち付けるような。
ここはどこだろうか。
痛む頭を抱えて体を起こそうとした私は、手が動かせないことに気付いた。両手は後ろ手に縛られ、動かそうとすれば手首に荒縄が擦れる。
「ここは……」
瞬きを繰り返して辺りを見渡す。
簡素な部屋だけど、小さな窓とテーブルセット、それにベッドがある。私はそのベッドに寝かされていた。
何とか身体を捻って起こし、ベッドを降りてみたけど、それ以上は動けそうになかった。ご丁寧に足にも枷がかけられていて、チェーンの先はベッドに繋がっている。
ベッドの足を粉砕すれば外せるけど、私をこんなところに繋ぎ止めている相手が分からない状態で、下手に動くのは得策じゃないわよね。
チェーンの長さは絶妙で、窓に手がかけられるかどうかのところまでしか行けない。だけど、外を見ることは出来た。
その先に広がるのは、青い空と海だった。いくつもの船が行きかう様子も伺える。
ざざんっと水音が響き、わずかな揺れを体に感じる。
「……この船、動いてるの?」
焦りを感じ、嫌な汗が背中を伝い落ちた。
どういうこと?
だって、私はさっきまでお屋敷にいたのよ。藤倉様と話をしていて、それで──ズキズキと痛む頭で記憶を呼び起こし、ハッとする。そうだ。赤い霧が現れたんだ。甘い果実の熟したような匂いがして、それから、春之信さんが逃げるようにって。
「春之信さん……春之信さん!」
振り返るも、そこには誰もいない。
そもそも、彼がこんな仕打ちをするはずもない。と言うことは、気を失った後に何かあったんだわ。
嫌な予感に体が震え、ごくりと喉が鳴った。
「……逃げなきゃ」
状況はさっぱり分からない。私をここに閉じ込めるものが誰かも、見当すらつかない。だけど、ここにいてはいけないと、本能的で悟った。
まずは、手の拘束を何とかしないと。
無駄に魔力を使いたくないけど、仕方がない。
手首に意識を集中し、魔力を集める。
小さくていい。ほんの少しの火で焼き切れば良い。火力を間違えて、無駄に魔力を消費する訳にはいかない。
「私なら、出来る……フランマ!」
手首が熱くなり、焦げ臭いにおいが立ち上がる。それと同時に手首へ力を込めた。そのまま縄を引き千切るようにすれば、火の力で弱くなったそれは、床にぼとりと落ちた。
次はこの枷だ。これを外せば──足首に手を翳した時だった。
「何をしているのですか?」
冷たい声が私に向けられた。
顔を上げると、いつの間に部屋に入ってきたのか、黒装束の男が立っていた。赤い目が私をぎろりと見る。
「火を使いましたか……魔力が少ないと聞いていたので侮っていましたね」
男は床でジジッと音を立てる縄を見ると、火種となっていたそれを踏みつけた。それから再びこちらを見て、私にゆっくりと近づいてくる。
逃げ場なんてない。だけど、この男と距離をつめるのは危険だ。
男から視線を逸らさず、後ずさる。
「……春之信さんをどこにやったの?」
「おや。ご自身の心配ではなく、男の心配ですか」
「誤魔化さないで」
「その様なつもりはありませんよ。そもそも、ここに藤倉春之信を招いた覚えはないので、どこにやったのかと聞かれても、答えようがありませんが」
言っている意味が分からなかった。だって、春之信さんが私を連れ出そうとしたのよ。
困惑に顔をしかめていると、背中が壁に当たった。もう、逃げ場はない。
男の顔が眼前に迫り、甘い香りが漂ってきた。この香りを、私は知っている。あの赤い霧、それに商館で藤倉様の日誌が奪われた時の香りだ。
つまり、この男が犯人──春之信さんと似ても似つかない姿の男を前に、えも言えぬ恐怖心を感じた。あの時、どうして彼と見間違えたのだろう。それもこれも、全てこの甘い香りのせいなのだろうが。
息を飲み、唇を噛むと男はにたりと笑った。
「大人しくしていれば、酷いことはしません」
「……どういうこと?」
「主が貴女の帰りを待っているので、お連れするだけです」
「主……」
「ご存じのはずですよ」
ヘドリック・スタンリーの顔が脳裏に浮かんだ。
男はにいっと笑った。
こいつがヘドリック・スタンリーの手先だということに、間違いはないだろう。私を連れて行くということは、ヘドリック・スタンリーは栄海藩にはいないということだろうか。だったらどこに……
再び船がガタンと揺れ、大きな波の音が聞こえてきた。
「どこに向かっているの?」
きっと私の顔は青ざめているだろう。それを見ている男は、愉快だと言わんばかりの笑顔だ。
「主のところですよ。早々にお連れしろと煩いので、予定を変更しました」
「……どういう、こと?」
「いえね。まさか、主が国外追放になるとは思わないじゃないですか。自主的に国へ帰るよう仕向ける予定だったんですよ。貴女の邪魔をして信用を失わせ、早期に国へと戻す。そうして傷ついた貴女を主が迎える。白馬の王子作戦です」
なかなかでしょうと言うように、人差し指を立てて男は説明する。
「私はどんな邪魔をされたって、貴方の主に尻尾を振ったりしないわ」
「ええ。その様ですね。国に帰す必要もなくなりましたし、直接お連れすることにしました。少々の躾であれば許すと、主から許可も下りましたし」
赤い目が私を見た。それはまるで蛇の目ように妖しく光り、私を捕らえる。
まるで金縛りにあったよに体は硬直し、警報を鳴らすように激しい耳鳴りが私を襲った。
このままじゃダメだ。何とかしないと。何とか。
しかし、どういうわけか指一本、視線一つ動かせない。魔法の発動だって確認できなかったのに、私が出来るのは、ただ口を動かすことだけだ。
「……どうやって、私をここに連れてきたの?」
「おや、そんなことを聞いてどうするのですか? 時間稼ぎをしても、誰も来やしませんよ」
「単なる好奇心よ。魔力が少ない薬師だけど、私は魔術師でもあるのよ。未知のものに出会えば知りたくなるわ」
「こんな状況に追いやられても好奇心を抱くとは! 探求心がお強いのは素晴らしいですね。こんな形でお会いせなければ、よき同僚となれたかもしれません」
「同僚……貴方、薬師なの?」
「ええ、そうですよ。もう五年ほど恒和で暮らしています。ですから、主からの急な依頼には困りました」
主の悪い癖ですよねと言ってため息をつく男が、ほんの少し視線を逸らした。その瞬間、指がぴくりと動いた。だが、すぐに彼は私に視線を戻す。すると、再び動けなくなる。
どんな仕掛けか分からないけど、視線で人を拘束できる幻惑系の魔法が発動しているようだ。
何とかして、彼の視界を遮ることが出来れば、まだ逃げるチャンスは生まれるということか。
逃げる糸口を見つけようとしていると、彼のまとう甘い香りがむわっと強くなった。
「貴女にかまけていたら、研究が疎かになりますからね。かといって、スタンリー家に逆らっては、支援を受けられない」
「ヘドリック・スタンリーは、追放されたのよ」
「ええ、知ってますよ。だから、命令を聞く義務はなかったのですが……藤倉の書を見て、気が変わりました」
瞬き一つしない男が、不気味に口角を吊り上げた。
「……どういうこと?」
「私の研究の一つが、奇跡の花でしてね。藤倉家の書物は実に興味深い」
「やっぱり、貴方が藤倉様の日誌を!」
「ええ。そこで、藤倉家の文庫への侵入を試みたのですが、屋敷に入るのは簡単だというのに、そこの警備だけはやたら厳重でしてね」
春之信さんがいっていた。
藤倉家にはエウロパとの交易に係る書類や、栄海藩の歴史に関わる書物も多くあるって。お金の貸付目録やら、様々な権利に関わるもの、それに春之信さんが関わっている翻訳の書物とか、とにかく重要なものが収められてるんだって。一つでも紛失したら大問題だろうし、警備が厳重なのも頷ける。
「なので、貴女の護衛に人手を回してもらおうと思ったんですよ。そうすれば文庫は手薄になるかと思ってね」
「……だから、霊孤泉で襲ったのね」
「そういうことです。ですが、一向にあなたの護衛が増える様子はない。部屋に籠って藤倉春之信が側を離れなくなっただけです。誤算でした」
「残念だったわね。所詮、私はただの薬師よ。私よりも、文庫の方が重要に決まってるじゃない」
「そうでしょうか。貴女は大名に認められる特別なものを創り出した。いわば金のなる木でしょう。そんな貴女が失われたとあれば、なかなか問題だと思いますよ」
「……何が言いたいの?」
「今頃、藤倉家は大騒ぎで貴女を探しているでしょう。文庫の警備も手薄になるかもしれません」
「何をバカなことを!」
「駄目だった時は、次の手を考えるまでですよ。貴女を主に届ければ、時間は出来ますからね」
にたりと笑った男は、私に顔を近づけて唇に触れてきた。その冷たい指先に背筋が凍る。
「気安く触らないで!」
「おや、嫌われてしまったようですね。仲良くストックリーについて語れると思ったのですが」
手を退けた男はやれやれと肩をすかす。
甘い匂いが私を包み込む。直感的に、これ以上香りを吸い込んじゃダメだと分かっていても、指一本動かせない私は唇を噛むことしか出来なかった。
「おや。お喋りはおしまいですか。それとも、この香りに酔ってしまいましたか?」
男の大きな手が私の肩を掴む。そうして、抗うことの出来ない私を抱え上げた。
体は静かに、簡素なベッドへと下ろされる。
「あの日の夜と同じく、良い夢を見ながら航海をお楽しみください」
「……夢?」
目の前が霞み、頭が重くなっていく。
この香りが原因だと分かっているのに、私には、どうすることも出来ないと言うのか。
「ええ。ほら……今、貴女の前にいるのは、誰でしょうかね」
静かな声が「薬師殿」と私を呼んだ。
蘇るのは、春之信さんの声だ。
そんな筈はない。ここに、彼がいる訳はない。
「心配はいりません。私がお守りします」
優しい声音にほっと吐息を零す。瞼が重くなる。
そうだ。いつだって春之信さんはそう言ってくれた。ずっと私の側にいてくれて、いつも力になってくれた。彼がいなかったら、私は前に進めなかったかもしれない。
心細さに、気持ちが揺らぐ。側にいて欲しい。春之信さんに会いたい。
次回、本日17時頃の更新となります
続きが気になる方はブックマークや、ページ下の☆☆☆☆☆で応援いただけますと嬉しいです。応援よろしくお願いします!↓↓




