第19話 甘い梔子の香りと微かな記憶
転ぶのを堪えたものの、淑女とは思えないような姿をさらしたことを恥ずかしいと思っても、時すでに遅し。
「そのように足を開かれる女子は初めて見ました。エウロパの女子は皆そうなのですか?」
「……いいえ。母に見られたら、間違いなく怒られます」
「異国でも、女子には淑やかさを求めるのですね」
「どこの国も、女性は生きにくいものです」
「生きにくさですか」
ふうっと息をついた春之信さんは、何か言いかけたけど、すぐにいつもの静かな表情に戻ってしまった。そうして、参りましょうかと言って歩き出す。
部屋住みの彼もまた、生きにくさを感じているのかもしれない。それは私とは全く違った意味なのだろうけど。
しずしずと歩く背中を追いかけ、私は外に出た。
初夏と言えど、日が傾くと涼やかな風は少し肌寒く感じる。空気もしっとりとしていた。
提灯の灯りで足元を照らしながら庭を歩いていると、ふんわりと甘い香りが漂ってきた。ジャスミンにも似ているけど、濃厚で熟した果物のようにねっとりとしている。どこかで、かいだことがある気がするけど、さてどこだったか。
「春之信さん、この香りは?」
「梔子ですね」
「くちなし?」
聞き返すと、彼の指が前方を指し示した。そこにある低木は子どもの背丈くらいで、白い花がぽつぽつと咲いている。地面に花びらが落ちているし、時期はそろそろ終わりなのかもしれない。
「満開の時は、もっと香りが強いですよ」
「そうなんですね。エウロパに持ち帰ったら、喜ばれそうです」
「エウロパにはないのですか?」
「ないですね。似た花でジャスミンならありますが」
「じゃす……?」
「こちらでは、マツリカと呼ばれています」
「茉莉花ですか。なるほど、似ています」
頷いた春之信さんは、クチナシの花をそっと撫でると、私はこちらの方が好きですがと呟いた。
揺れる花びらから、ふわりと芳香が立ち上がる。
やっぱり、かいだだことがあるような気がする。春之信さんの香袋……違うわ。あれよりもっと濃い匂いよ。
「……あ」
「薬師殿、どうなされた」
「梔子に似た香りを思い出しました!」
「茉莉花の話ですか?」
首を傾げる春之信さんを見て思い出した。
盗人を春之信さんだと思い込んだあの夜、私の部屋に漂ってきた甘い香りと似ているんだ。
もしかしたら、あの香りが何か分かれば、盗人を見つけ出すことが出来るんじゃないかしら。
「……春之信さん、あの、私の話を聞いてもらえますか?」
私は神妙な面持ちで尋ねていたかも知らない。
口元を引き結んだ春之信さんと視線が合う。彼は黙って静かに頷いた。
「藤倉様の日誌が盗まれた夜、甘い香りがしました。それで目を覚ました私は……貴方に会ったんです」
解せない。そう言いたげな春之信さんの目が細められ、綺麗な眉が少しつり上がった。
ゆらりと風が吹き抜けて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。それを深く吸い込み、すごく似ているけどこれとも違うと確信する。
「梔子の香りにとても似ていました。くらくらするくらい熟れた香りです」
「……薬師殿は、私が盗んだと?」
「いいえ、違います。春之信さんがあの時間に商館を訪れるのは無理です。だから、私は夢を見ていたのだと思っていました」
「夢……」
「夢と現実が混ざってしまっていた。だから、武士の姿を見て春之信さんと錯覚したのだと思います」
ふと自分の指を見る。
あの時、私は夢の中で春之信さんの指に触れた。それはとても冷たくて、彼の温かい指とは全く違うものだ。きっと、盗人の指が冷たかったのよ。どんなに幻を見せられたって、触れるものが変わるわけじゃないんだ。
今ならはっきりと言える、盗人は春之信さんじゃない。
「あの香りが何か分かれば、盗人を捕まえられるかも。でも……」
薬やお茶に使う植物の香りは、だいたい覚えている。でも全てじゃない。そもそも、恒和にしかない花の香りだったら、私には絶対分からないわ。梔子の花が、そうだったように。
「私の知らない香りでした。恒和国のものかもしれません」
「なるほど。そのことも香道の先生に尋ねてみましょう。何か分かるかもしれません」
「よろしくお願いします」
「私が出来ることであれば、善処いたします」
そういった春之信さんは、私に手を差し伸べた。
「薬師殿、お手を。足元がぬかるんでいますゆえ、お気をつけて」
温かい手に引かれ、提灯と月明かりに照らされた暗がりを進んだ。
薄暗い夜道だというのに、握られた手の温かさのおかげで、私はちっとも不安を感じていなかった。
大きな手を握って「ありがとうございます」といえば、春之信さんは応えるようにして、少し握る手の力を強くした。
◇
三日後、香道の先生に対面する前に、春之信さんの妹さんを紹介された。
「薬師様、お初にお目にかかります。お雪にございます」
お銀様の横で春之信さんの妹、お雪ちゃんはにこりと微笑えんだ。
とても小柄で愛らしい子だ。幼さが残る顔は十歳を迎えたくらいに見えるけど、背筋を伸ばしてしゃんとする姿が、どこか大人の女性を思わせた。
「はじめまして。マグノリア・プレンティスです。急に、お邪魔をして申し訳ありません」
「薬師様は恒和の言葉がお上手ですね!」
「少しだけです」
「充分でございます!」
お雪ちゃんの笑った顔は年相応な感じで、内心ほっとした。
「薬師様とお話をさせて欲しいと何度もお願いしたのに、お兄様はちっともお連れ下さらないので、嫌われてるのかと思ってました」
「薬師殿は遊びに来たのではない」
「もう! お兄様はお固すぎます! 薬師様、今日だけと言わず、これからも雪とお話してくださいませんか? 雪もエウロパのことが知りとうございます!」
矢継ぎ早に話しかけてくるお雪ちゃんは、目をキラキラとさせている。さっきまで、大人顔負けで私を迎えてくれた姿は幻だったのか。
好奇心旺盛な顔に思わず頬を緩めて「こちらこそ仲良くしてください」と返すと、彼女は手を合わせて喜んだ。今にも跳びはねそうなほど興奮している様子を見ると、彼女は恒和で言うところのおきゃんなのだろう。
勝手に私と近しいものを感じていると、春之信さんが深々とため息をついた。
「薬師様は、マグノリア様と仰られるのですよね?」
「はい、そうです」
「お名前に由来はあるのですか?」
「由来?」
「はい。雪は、寒い冬に生まれました。その時、庭に降り積もる雪が美しかったそうです。清らかな白い雪のような心で育って欲しいと、願ってつけた名だと聞きました」
少し照れた顔をしながら話してくれたお雪ちゃんは、期待の眼差しを私に向けてきた。
「マグノリアとは、花の名前です。恒和では確か……木蘭といったでしょうか。私が生まれた時、とても美しい白い花が咲いていたそうです」
「では、木蘭の花のように育って欲しいと、お国のご両親は思われたのですね」
「そうだと思います」
「お雪は、木蘭の香りが大好きです。爽やかな甘さで、春の風が届けてくれると幸せになります」
瞳を閉ざしたお雪ちゃんは、春の景色と香りを思い出しているのだろう。幸せそうに口角を上げた。かと思えば、ぱっと瞼を上げ、期待の眼差しを向けてくる。
「あの、薬師様……もしよろしければ、お蘭様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「お蘭?」
「雪、薬師殿を困らせてはならぬと、あれほど言っておいただろう」
「でもでも! お雪は、薬師様ともっと仲良くなりとうございます!」
「しかし、名前をそのように──」
「あ、あの、なぜに、お蘭なのですか?」
渋い顔をしている春之信さんの言葉を遮って尋ねると、お雪ちゃんはきょとんとした。
「薬師様のお名前が木蘭の花だと聞いたからです! お木蘭では長いですし、可愛くないですから」
「あぁ、そういうことですか。でも、蘭では他の花になってしまいますね」
「……やっぱり、ダメですか?」
二つの花姿を思い出したら可笑しくなってしまい、思わず笑い声を零すと、お雪ちゃんはしょぼんとしながら上目遣いで私を見てきた。そんな顔を見たら、ダメとは言えなくなっちゃうわね。
「いいですよ」と返せば、喜んだお雪ちゃんは立ち上がり、振袖の裾を蹴るようにして私に走り寄ってきた。それまで黙って見守っていたお銀様も、これと声を上げてお雪ちゃんを嗜める。だけど、当の本人は全く気にもしていない。
「お蘭様、仲良くしてくださいましね!」
「こちらこそ。なんだか、妹が出来たようで嬉しいです」
「私のことは、お雪とお呼びください!」
「雪……あまり薬師殿を困らせるでない」
「お兄様は黙っていてくださいまし!」
どうやら妹には勝てないらしい春之信さんはため息をつき、お雪ちゃんは期待の眼差しで私を見上げてきた。
「では……お雪ちゃん、と呼ばせて頂いても良いですか?」
「嬉しゅうございます!」
喜んだお雪ちゃんが私に抱き着くのと、こほんっと咳払いが聞こえたのはほぼ同時だった。
「お雪様、はしたのうございますよ」
振り返ると、いかにも先生といった雰囲気の女性が佇んでいた。彼女を見たお雪ちゃんは、慌てて姿勢を正した。
次回、本日13時頃の更新となります
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