第15話 消えた日誌と藤倉様の提案
おずおずと顔を上げれば、そこに切れ長の瞳があった。それが光を浴びて、赤く輝いたように見えたのは気のせいだろうか。
薄い唇が、ゆっくりと弧を描く。
綺麗な微笑みに吸い込まれるようにして、言葉を失った私は目を逸らせずに硬直した。
春之信さんの手が動き、衣擦れの音と共に小袖が揺れる。すると、熟れた甘い香りが鼻腔をくすぐった。
伸びてきた指が頬にふれる。
ひやりとした感触で、彼との距離がひどく近いと気付きた私は、慌てて背を向けた。
「お、お茶を淹れないと……エミリー、エミリー!」
そうよ。お客様がいらっしゃっているのに、お茶の一杯も出さないのは失礼よね。
慌てて探したエミリーの姿はどこにもなかった。
来客の時、彼女が案内してくれるはずなのに、どうしていないのか。
部屋の隣にある控室に通じるドアを開けるが、そこは真っ暗だった。
何だろう。さっきから感じる、この違和感は。
胸騒ぎに背筋が震える。
壁にあるスイッチへと指を伸ばすと、壁にかかる魔法灯が煌々と部屋を照らし出した。
すぐ目についたワゴンにはお茶の用意などない。ティーセットを探すと、それらは棚に整然と並んでいた。
「いない……」
外にいるのかしら。
来客時に私を一人にするのはあり得ないのだけど、もしかしたらハーブを摘みにいったか、何か急な用が出来たのか。
春之信さんであれば、私に危害を加えるなんてないと思ったのかもしれないし。だとしても、私に声をかけないなんてことがあるかしら。
「どこに行ったの、エミリー……」
あれこれ可能性を考えながら首を傾げ、ふと窓を振り返った私は、あり得ないものを目にして、動きを止めた。
ほんの数秒、息をするのも忘れるくらいの衝撃だったが、弾かれるように窓に駆け寄った私は、小窓の枠に手をつく。
「……月が出てる」
そう、窓の外にあったのは、冷ややかに輝く月と満天の星。そんなバカなと思い、窓を押し上げて外に顔を出してみるけど、そこに広がっているは間違いなく闇夜だ。
考えてみれば、私はさっき部屋の明かりを灯したじゃない。なのに、私は今が昼間だと勘違いしていた。
どうして、今が昼だと思っていたの?
夏だというのに、ひやりとした風が頬を撫ぜた。
混乱したまま茫然としていると、ガタンッと隣の部屋から物音がした。
どういうことか。
春之信さんが夜にこの商館を尋ねるなんて不可能だ。関所は夜には閉じてしまうもの。だから、私は昼間と勘違いした?
待って。そうすると閉ざされたドアの向こうにいるのは、誰なの?
どうして、藤倉様の日誌のことを──ハッとして、私は扉に走り寄った。
だけど、時すでに遅し。
藤倉様の日誌と共に、誰とも分からぬ来訪者の姿は消えていた。
◇
すべて夢なんだと思った。
だって、夜に春之信さんが部屋を訪れるだなんて、非現実的すぎる。いくら会う約束をしていたとしても、夜に訪れるなんてあり得ない。だから、変な夢から醒めて寝ぼけたって思う方が現実的だった。
でも翌朝、引き出しを見た私は絶望した。
「……ない。ない!」
声を上げて机の上を漁っている所に、エミリーがやってきて何の騒ぎかと尋ねたけど、私はどう説明したら良いか分からず、あわあわと言葉にならない声を零した。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
ぽたぽたと落ちた雫が、机の上に散らかった用紙へと落ち、インクがじわりと染みを広げた。
「マグノリア様、ひとまず落ち着きましょう。探しものですか?」
真新しいハンカチを出し、私の頬を拭うエミリーはにこりと笑った。一緒に探しますからと言われたら、さらに涙が込み上げた。
震えながら、やっとの思いでどうしようと呟いた私の背を、柔らかな手がそっと撫ぜる。
「……藤倉様の日誌が……ないの」
「それって、あの、お借りした本ですか?」
こくこくと頷けば、さすがのエミリーも顔面を青くした。
泣いたって、ないものはない。分かってるけど、言葉にすると余計に混乱してきた。
だって、なくなる訳がない。昨日だって、ちゃんと引き出しにしまって鍵をかけたんだもの。なくなる訳ないのよ。
もう一度、ちゃんと探そうと机に向かうも、やっぱり、見つかる気はこれっぽちもしない。
「……エミリー、ドワイト商館長に報告してきて……私はもう一度探してみる」
「かしこまりました」
早々に部屋を出ていったエミリーがドワイト商館長を連れて戻る頃には、私の気持ちもだいぶ落ち着いていた。いいえ、落ち込んでいた。
この世の終わりくらいの気分で、床に蹲っていると、さすがに厳しい顔をした商館長に名を呼ばれた。
「マグノリア。どういうことか、説明は出来るか?」
「……盗みに、入られたかもしれません」
「バカな!」
ひときわ大きな声に、エミリーがびくりと肩を震わせた。怒鳴られることは想定内だった私でさえ、少し手が震えたわ。
「商館長……私も、信じられません。ですが、ぼんやりとですが、覚えているんです」
「覚えている? 盗みに入ったやつの顔をか?」
「この部屋に、確かに男がいました……彼は武士で……春之信さんに見えたんです」
「春之信殿? それこそあり得ないだろう!」
「はい。でも、私は彼に日誌を渡しました。そして、お茶の用意をしていないと気付き、エミリーを探しているうちに、男は姿を消したのです」
今思うと、本当に春之信さんだったかは怪しい。
だって、すごく綺麗な微笑みを浮かべていたのよ。いつもなら遠慮がちに笑うのに、まるで絵に描いたように綺麗だった。そう、違和感を感じるほどに。
「では、誰だと言うのだ?」
「分かりません。分かりませんが……何者かが、あの日誌のことをどこかで知り──」
いいながら思い出したのは、藤倉様の庭を春之信さんと歩いた時のことだ。
あの時、春之信さんは視線を感じたといっていた。今にも抜刀するのではないかと思ったほど緊迫していて、とても冷たい瞳をしていた。思い出しただけで、ぞくりと背筋が震える。
彼が感じたものは何だったのか。あの時、私たちが交わした会話を誰かが聞いていたのではないか。
「商館長……大事なことを思い出しました」
「盗人に心当たりがあるのか?」
「顔は分かりません。ですが、もしかしたら、私と春之信さんの会話を聞いていた者がいたのかもしれません」
そして、その人物が夜分に忍び込んで、盗みを働いたのかもしれない。
どうしてその不審者を春之信さんだと勘違いしたかは、いくら考えても分からない。だけど、話を聞いた商館長は可能性があると思ったのだろう。すぐさま行動に移った。
「今すぐ、関所の記録を確認させる。それと、藤倉様にも遣いを出そう。マグノリア、お前はこの部屋に魔法の痕跡がないか確認をするんだ」
てきぱきと指示を出してすぐに、商館長は慌ただしく部屋を出ていった。
「魔法の痕跡……」
言われてこの時、嗚呼とため息がこぼれた。
あの日、あの茂みに魔法感知を施していたなら、もしかしたら、こんな事態にはならなかったのかもしれない。
それから、盗人が入ったことを藤倉家へ急ぎ伝えると、午後には春之信さんが駆け付けてくれた。
真摯な眼差しを前に、私は萎縮して顔をあげられなかった。
「経緯は分かりました」
「本当に、ごめんなさい! 藤倉様にも、何とお詫びしたら良いのか……」
「そう気に病まれることはありません。お祖父様も、お怒りではありません」
謝ることしか出来ない私に対し、春之信さんは顔色一つ変えずにさらりといった。
あんな貴重なものを失くしたのに、どういうことだろうか。もっと咎められると思っていた私としては、拍子抜けも良いところだ。
零れかけた涙も引っ込み、言葉を失っていると、春之信さんはそれにと話を続けた。
「あれは写しですから、気になさらぬように」
「……写し」
「原書は屋敷にありますから」
「よくよく考えれば、そうでしたね」
そうよね。原本はちゃんとお屋敷にあるんだったわ。
ほっと安堵すると、身体から一気に力が抜けた。椅子に座っていて良かったわ。もしこれが立ち話だったら、腰を抜かして床に座り込んでいたに違いない。
「お祖父様からの提案を伝えに参りました」
「藤倉様からの、提案?」
同席していたドワイト商館長と声をそろえて聞き返せば、春之信さんはこくりと頷く。
「薬師殿には、しばらく藤倉の屋敷に滞在を願います」
「……え?」
突然のことに、私の理解は全く追い付かなかった。
次回、本日15時頃の更新となります
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