花丸少女と平均男子(三十と一夜の短篇第75回)
「先生、どうしてこれ丸なんですか!」
ほんの少し前まで小学生だったこどもたちが新入生になり、校区が広がることで知らない者同士まぜこぜに中学校に入学して数日。
いまだ猫をかぶり互いの距離感を探り合っている一年三組の教室に響いたのは遠慮のない大声だった。
目を開けて眠る修行の真っ只中にあった深谷良は、やや俯きにしていた頭を自然な動作でゆったりと持ち上げる。意識を遠くへ飛ばしていたとは感じさせない仕草で、声のしたほうへ顔を向けた。
「どうしてって、そりゃ正解だからだろ。優丸」
困惑顔の担任教師、浅尾の前で仁王立ちしているのは、深谷と同じく一年三組の生徒、優丸万秀だ。
同学年のなかでも小柄な身体を目一杯に大きく見せるかのように肩を怒らせた彼女は、大きな目で担任教師をにらむように見上げている。
「納得いきません!」
「全問正解で百点つけられて納得いかないって言われたって、なあ……」
教室の後ろから二番目、中央よりやや窓よりの席に配置された深谷の席からでも彼女の「わたし、不満です!」という感情が読み取れる。そのあまりの剣幕にクラスメイトはみな飲まれ、教室は緊迫した静寂に包まれていた。
そんななか、凍りついた雰囲気に飲まれていない男がひとり。
「なに、どしたの。ていうか今、何の時間?」
手近な位置にいた男子生徒の制服のそでを引っ張り、深谷はささやいた。
急にそでをひかれた相手はびくりと肩を震わせ、恐々振り返る。
「あ、えと、朝のホームルームだよ。先生がこの間の入学お祝いテストを返却してるんだけど、なんか急に優丸さんが怒り出して……」
涙目になりながら小声で答えたのは、深谷の斜め前に座る中野丈太郎だ。
朝の会、ではなく朝のホームルームというちょっぴりかっこよさげな響きに背筋を伸ばしていた中野は、その時になってようやく深谷が居眠りしていたことに気がついた。
「深谷くん、よだれよだれ!」
「ん、おっと。まだまだ修行が足りないな」
こっそりと指摘され、深谷はしれっと口元をぬぐう。
ふたりのやり取りはあくまでひっそり静かに行われた。けれど、物音ひとつしない教室は案外、音が響く。
「深谷ぁ。中学校に居眠りの授業は無いぞ」
担任のあからさまに呆れた声が深谷に向けられる。
「居眠り部も無いんすか?」
「無いな。部員五人以上、人数集めて活動内容を書面に書いて顧問の確保と学年主任の承諾をとってくれば作れるけど」
「そんなことしてたら居眠りする時間が無くなるじゃないっすかー」
おどけた深谷の物言いに、クラスがどっと笑いに包まれた。
一気に緩んだ空気を逃さないよう担任は「ほら優丸、みんなに返し終わらなくなるから席に戻って」と促し、次の生徒の名前を呼ぶ。
「ねえ、深谷くん。優丸さんこっちを見つめてるよ……」
中野がこそこそとささやいてくるのと、担任が深谷の名前を呼ぶのは同時。
深谷は立ち上がり「あー、そうね」と返事しながらさりげなく優丸の姿を探した。
クラスの真ん中一番前の席に座る彼女は、教卓に背中を向けて深谷に熱視線を向けている。見つめているというのはあまりに控えめな表現で、彼女の視線はどう見ても深谷をにらんでいる。
彼女と担任の問答を邪魔したことが相当気に食わないらしい。
「なんか、このクラス大丈夫かな……」
不安げにつぶやいた中野は、目をつけられまいと思うあまり逆に挙動不審になりながら次の授業の準備をして気を紛らわせる。
「入学早々、どうしたもんかねえ」
誰にともなくぼやいた深谷は、再度名前を呼ばれたことに気を取られたふりをして、優丸の視線に気づかないふりをした。
※※※
昼休みを迎えてざわざわと賑やかな教室で、昼食を終えた中野が両手を合わせて「ごちそうさまでした」と丁寧に頭を下げている。
てきぱきと弁当箱を片付けると、彼はいそいそと斜め後ろの席を振り向いた。
「ねえ、深谷くん」
「うん?」
とうに片付いた机に頬を預けていた深谷は、中野の声に片目だけを開けて反応を返す。
「テスト、どうだったか聞いてもいい?」
初々しく頬を染め問いかける中野は、点数が気になると言うよりも答案用紙の見せ合いっこに憧れを抱いている様子。
「ほい」
対する深谷は照れも恥じらいもなく、無造作に掴み取った紙束を突き出した。
「わ、わわっと!」
中野は取りこぼしかけた答案用紙をつかんで「あ、ここ僕もわからなかったんだ。小学校でやったのの応用かなあ?」と楽しげにめくっていく。
国語、数学、理科、社会。小学校で習った内容の確認問題に、いくつかの応用問題を加えて構成されたテストだ。難易度はさほど高くなく、授業についていける程度の学習をしていれば平均点は取れる。
けれど渡された答案用紙すべてに目を通して、中野は愕然とした。
「これ……全部、平均点ぴったりじゃない?」
「んん、そうか?」
「うん。先生が黒板に書いてたそれぞれの科目の平均点だよ。平均点より下のひとは小学校の復習用の特別課題が出るって言ってたから、僕ノートにメモしてるもん」
「おー、ってことは俺は課題免除か。やったね」
もしやわざとなのかと驚く中野に対して、深谷はあくびをひとつ。気だるげに机に顎をのせている姿は、純粋に興味が無いと伝えている。
「えー、深谷ってばテストもぎりぎりなの? あんた、学校に来るのもいっつも遅刻ぎりぎりだよね」
話かけてきたのは深谷の隣に座る女子、角倉だ。淡い色の髪に派手なヘアピンを留めた彼女は、膝上十五センチのスカートで大胆に脚を組む。
「あたしもチャリ通なんだけどさあ。入学してから毎日、あんたに追い越されると遅刻するのよ。で、あんたより少しでも早く着くとセーフなのよね。あんた、あれ狙ってやってるの?」
「うんにゃ、別に。そいつはラッキーだなあ」
「まじでー? 運良すぎじゃない。平均男~」
「いぇーい、ミスターボーダーって呼んでくれても良いんだぜ」
「それはダサいわぁ」
「まじでー」
角倉がけらけらと笑い、深谷がだらだらと机になつく。なんとなく楽し気な雰囲気に中野もうれしくなってにこにこしていたところへ、ばんっと大きな音がした。
驚き落ちた沈黙のなか、深谷の机に掌を叩きつけた小柄な少女、優丸が深谷を見下ろす。
「何がおかしいの」
「何がって、何が?」
唐突な喧嘩腰にも関わらず、深谷はゆるい態度を崩さない。
それに優丸が苛立ったのがわかって、傍で見ている中野のほうがはらはらする。
「平均点しか取れない、遅刻のボーダーライン。平均男なんて呼ばれてどうしてへらへら笑っていられるのかって言ってるの!」
大きな声は、静まり返った教室に響き渡った。
教室のあちこちで「平均男って?」「深谷のことみたいよ。テスト、全部平均点だったんだって」「あー、平均っぽい顔してるもんな」「どんな顔よ、まあ中肉中背普通顔ではあるけど」などとささやき声があがる。
それにさえ神経を逆なでされたのか、優丸がにらむように視線を向けるとクラスメイトは慌てて口をつぐんだ。
「特別課題が出なくてハッピー。遅刻しなくてラッキー。それで良くない?」
凍り付いた空気のなか、深谷はおどけたように両手でピースサインを作ってみせる。ふざけた物言いにとぼけた表情も相まって、つい笑いを誘う雰囲気をかもしだしている。
けれど優丸にはそれさえも不満だったらしい。
「良くない! とるなら花丸満点であるべきよ! 例えできなくても、そうあろうと努力すべきよ!」
噛みつかんばかりの怒鳴り声も、ゆるんだ空気の中では威力を発揮しきれない。加えて、優丸は小柄で愛らしい少女であったため、迫力も不足していた。
誰かが「ぷっ」と噴き出す。
その音を皮切りに、クラス中にくすくすと笑いが広がっていく。
「花丸って、小学校でもらうやつ?」
「それも低学年だろ、一年生のときだけじゃね?」
「中学生にもなって花丸って。しかも花丸満点って」
「優丸さんかわいー」
くすくすくすくす。
伝搬する笑いに肌がざらつく不快感を覚えて中野は周囲をおどおどと見回し、角倉は不機嫌を隠しもせず口をへの字に曲げる。
教室中の視線を集めた優丸はうつむいているけれど、赤く染まった顔は隠しきれていない。彼女の硬く握った拳が身体の横で震えているのを見てとって、深谷がのそりと身体を起こしたとき。
優丸はだっと駆け出した。
校則で定められた長さぴったりのスカートを翻し、教室から走り去って行く。
その背中を見送って、深谷はこっそりため息をついた。
※※※
放課後、いそいそと部活に向かう先輩たちをよそに、一年生はみな校門に向かう。部活紹介は来週、部活見学はそのあとから。
時間の空いた一年生たちが帰宅の途に着いているころ、深谷と中野は玄関の靴箱で立ち止まっていた。
原因は靴箱に入れられた手紙。封筒に書かれた『深谷くんへ』という丁寧な文字。封筒を開け、取りだした紙に書かれた『体育館裏で待っています』の文章。
あまりにべたな漫画的展開に中野はどきどきしていた。
「そ、それってもしかして……」
「果たし状ってやつ?」
どきどきに水を差したのは角倉だ。深谷の肩越しにのぞき込んだ彼女は腕を伸ばしてつまんだ封筒を裏返す。
「超きれーな字で『優丸万秀より』って書いてるじゃん。リチギだねー。てゆうか優丸からならやっぱ果たし状だわ。ホームルームでもにらまれてたし、昼休みので完全に敵視されてるでしょ。どーすんの、深谷」
「どう、とは」
首をかしげる深谷の背中に角倉がひじをぶつけた。
「行くのか行かないのかってことよ」
「え、行かないなんて選択肢あるの?」
待っている相手がいるのに行かないなんて、と驚く中野に角倉は「あんた、お人好しだねー」と感心する。女子に褒められた、と動揺する中野の前で深谷はかばんを漁っていた。
目当てのものを見つけたのだろう。手紙とともに制服の胸ポケットにしまうと、深谷は靴に履き替えてスタスタ歩き出す。背中に刺さる視線にふと立ち止まり、彼は振り向いた。
「野次馬、頼むわ」
「「え、いいの?」」
思わぬ誘いに中野と角倉はそろって驚きの声をあげた。
中野のそれは純粋な驚きだったけれど、角倉の声には弾むような響きが混ざっている。
「え、行くの?」
「うん、行くでしょ」
目を丸くした中野に角倉はにこっと頷き、彼の背を押して歩き出す。
そして深谷までもが中野を手招く。
「優丸が腕力にうったえるタイプの話だったら助けてくれ」
「え」
あんまりにも危機感のない救助要請に、中野は二の句が告げない。
かわりにひょいと顔を出したのは角倉だ。
「あんた、あんなちっちゃい子相手にやられる気? 相手の身長、あんたの胸くらいよ」
「おお? 俺のか弱さなめんなよ。幼稚園生にも負けるわ」
「まじかよ、なんで自信満々なの。うける」
けたけたと遠慮なく笑った角倉は、ふと笑いを収めると中野の手を取り歩き出した。
「いーよ。野次馬してやる。行くよ、中野」
「え、僕も!?」
「むしろ主戦力だぞ。期待してるからな」
「え、え!?」
戸惑う中野を引きつれ、辿りついた体育館裏は静かだった。
体育館のなかではどこかの部活が活動を行っているらしく、高い位置にある窓から明るい声が漏れ聞こえるけれど、喧騒は遠い。
体育館が熱くなりすぎないようにか、あるいは柵の代わりなのか。ぐるりと植えられた背の高い木が視界を遮っている。体育館と木に囲まれた体育館裏はひっそりと冷ややかで、なるほどここに呼び出すのならば告白よりも果たし状だと中野は納得した。
「あら、優丸はまだ来てないみたいね。ああいうタイプはひとを待たせるのが嫌いかと思ったけど」
あたりを見回した角倉が言っているそこへ、ちいさな足音が駆けてくる。
ほどなくして姿を見せたのは、肩を弾ませた優丸。三人の姿を認めた彼女はわずかに目を見開きはしたが、速度を落とすことなく走り続けて深谷の前で立ち止まった。
荒い息を整える猶予も持たず、優丸は深谷の顔を見上げる。
「待たせた、わね。悪かったわ」
弾む呼吸の合間に謝る彼女に意外だという視線を向けたのは中野と角倉だった。
深谷は気だるげな半目で「うんにゃ、良さげな昼寝スポットが知れてラッキーよ」といつも通りのゆるい態度で返す。
そうしている間に優丸は息を整えていた。そして姿勢を正すと、彼女はきっちり頭を下げる。
「今朝は睨んでわるかったわ。昼休みも、無暗と突っかかってごめんなさいっ」
両手は身体の横にぴたりと伸ばされて腰はきっちり九十度曲がっている。
はきはきとした謝罪の言葉に、半歩離れて見守っていた野次馬ふたりは目を丸くする。
入学してからこっちつんけんとした態度を崩さず、ついには担任にまで食って掛かった優丸が素直に謝るとは思っていなかったのだ。
「さっき、浅尾先生に呼び出されていろいろ話をしてきたの。私の態度のせいでクラスから浮きかけてること、深谷くんがそれとなくクラスの雰囲気を崩して私が完全にはじき出されないようにしてくれていることも理解したわ」
「んんー、そう言われると俺、めっちゃ善人みたいじゃない? ちょっと恥ずいなあ」
身体を起こした優丸が一気に伝えた内容に、深谷はへらりと笑ってみせた。おどけた態度のせいでわかりづらいけれど、彼の顔には照れがにじんでいる。
恥じらいつつ目を泳がせようとした深谷に対して、逃がすものかと優丸は眼力を強めた。
「でも! それとあなたの態度とは別問題よ。やるからには真剣でいるべきというのが私の信条。だから、あなたみたいな人にそばでだらだらされると気に障って仕方ないわ!」
言い切って胸を張る優丸はあまりにも堂々としている。
中野などはうっかり「それもそうかもしれない」と思いかけるほど。けれど角倉は冷静だ。
「うーわ、すっごい言いがかり。あんたがどう思おうが、こっちは好きにやるっての」
声をひそめるでもない辛辣な一言は、その場の全員の耳に届いていた。いや、おそらくあえて届くように言ったのだろう。
挑戦的な態度でいる角倉に優丸が視線を向けた。それだけで中野の心臓はぎゅっと縮み上がる。
「私も同じよ。私は私の好きにする。私はただの正解や合格じゃ嫌なの。文句のつけようがない満点花丸じゃなきゃ嫌なのよ。だから、深谷くん」
きり、と眉を吊り上げた優丸が深谷に向き直る。
「私、あなたの態度が気に障るたび食ってかかるわ。あなたがその態度を改めるまで、私やめないから!」
何ともはた迷惑な宣言に角倉は「わーお、自分勝手もここまでいくといっそ清々しいね」と他人事だ。
中野は険しい顔をした優丸と、そんな彼女を見下ろす深谷を交互に見ておろおろするばかり。いっそ優丸が殴り掛かってくれでもしたら割って入れるのに、と涙目だ。
そんな野次馬たちをよそに深谷はひとつうなずいた。
「おっけー、わかった。あんたは好きにしてくれ。そのかわり俺も好きにする」
言って、深谷が取りだしたのは胸ポケットにしまった封筒と一本の鉛筆だ。
封筒は優丸からのもので、鉛筆は靴箱で取り出していた赤鉛筆。
深谷はその場の全員に見せつけるかのように、そのふたつを顔の前に掲げてみせる。ややオーバーな動作はまるでマジックでもするかのようだ。
「なにを……?」
怪訝そうに眉を寄せた優丸の目の前で、赤鉛筆を握る深谷の手が動き封筒に描かれたのは、花丸。
三十丸に花びらを足したその花丸は、封筒に書かれた『深谷くんへ』の文字につけられていた。
描いたばかりの花丸を優丸につきつけて深谷はへらりと笑う。
「丁寧な字で大変よく書けてます、の花丸だ。足りなきゃ、中の手紙の文字にも丸つけするよ?」
「なっ! どういうつもりよ!」
かっと顔を赤くした優丸の顔には、隠し切れない喜びがにじんで見えた。その場の流れに圧倒されてばかりの中野にもわかる、彼女はうれしいのだ。自身の書いた文字に花丸がもらえてうれしい気持ちが抑えきれないらしい。
「俺は中庸でいるのが心地良いんだ。だからあんたを誉める。あんたが満足して諦めるまで、あんたの良いとこ見つけて花丸つけてくぞ」
宣言というには気迫が足りない。けれど珍しく楽し気な雰囲気を目ににじませた深谷の表情は、見る者をどきりとさせる何かがあった。
優丸もその表情に呑まれたのか、悔しそうに顔をしかめながらも彼女の口から威勢の良い反論は飛び出て来ない。
そうしている間にも、深谷はいそいそと取りだした封筒の中の便箋を広げ、一文字一文字「ここのはねが美しい」「文字のバランスが良いですね」と花丸をつけていく。そのひとつひとつがその場しのぎのごまかしでなく、第三者が見ても頷ける箇所を挙げているため、優丸は積み重なる誉め言葉と花丸に緩みそうな顔を引き締めるのに精いっぱいだ。
真っ赤になって喜ぶのをこらえる優丸と相手が恥ずかしがっていると明らかに気づいていながら嬉々として言葉を重ねる深谷。
ふたりの姿に、中野はほっとちいさく息を吐いた。
「……なんか。うちのクラス、大丈夫そうだね」
「まあね。ていうか、楽しくなりそうじゃない?」
優丸を扱いづらいと思いかけていたクラスメイトたちも、褒め倒されて赤面する彼女を見ればきっと変わるだろう。
花丸少女と平均男子のやり取りが一年三組の名物になるまで、あと少し。
恋愛に至る前のほのぼの話です。