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戦機いづくにか  作者: たかのりつと
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 疾駆する謙信の目には、信玄の馬印のほかは映っていなかった。途中、何度か、敵兵が視界を遮ったが、謙信が突進していくと、その姿は消えていった。

 謙信の神速は、すでに弥太郎らの旗本衆を遠く引き離してしまっている。だが、そんなことはどうでもよかった。

 遠く、武田の諏訪法相の旗の下に、赤い具足をまとって将几に腰掛けている男の姿が小さく見える。彼我の距離が離れすぎていて、その男の表情を窺い知ることはできない。なのに謙信は、謙信を捉えて離そうとしない、男の視線を、肌で感じていた。

 “あれこそ信玄!”

 謙信は、疾駆しながら剣を抜いた。

 遠く見えていた信玄の馬印が、瞬く間に謙信の眼前に翻った。将几に腰掛けている男の表情が見えた。敵の大将みずからが単騎本陣に乗り込んでくるという、およそ現実外れした状況にありながら、顔色ひとつ変えず、謙信の眼を合わせている。

「武田信玄!」

 謙信は、駆けぬけざまに、剣を振り下ろした。

 ガキンと鈍い金属音がして、剣が跳ね返された。信玄が手にしていた鉄製の軍配が、謙信の剣を受けたのだ。

 謙信は素早く馬首を巡らし、信玄へ向かって馬を跳躍させる。

 謙信の剣が信玄の肩を打ったが、信玄が払った軍配と甲冑に邪魔され、手応えはない。

 再び馬首を回そうとしたところへ、信玄の旗本の兵が、槍を入れようとした。

「無礼者!」

 謙信はかっと大喝した。武田兵は、謙信の凄まじい凛気に気圧され、びくっと金縛りにあったように硬直して、尻をついた。

 喝した瞬間にその兵を無視した謙信が、信玄を向いた。

 信玄と謙信の目が合った。

 立ち上がって刀を抜こうともせず、それどころか、例の軍配さえも、強いて構えることなく、だらりと手に持っているだけだ。

 謙信は馬を蹴った。

 襲いかからんとする謙信の目を、兜の下から信玄の目が鋭く射上げている。

「信玄!心境如何!」

「…紅炉上(こうろじょう)一片雪(いっぺんのゆき)

「小癪な!」

 謙信が三たび、電光のごとく剣を振り下ろした。謙信の手にはたしかな衝撃があったが、なぜか信玄の身体には剣撃が達しなかった。そして、もう一度。謙信の剣は、不思議な水のように流されて、信玄は将几から微動だにしなかった。

「上杉謙信」

 信玄が低く呼んだ。それは、信玄の言葉どおりの境地から発せられた言葉に違いなかったが、烈火のごとき謙信に対して、およそ似つかわしくない調子だった。

 諏訪法相の旗がはためいていた。この男にも、神仏の加護があるというのか。

 謙信は、振りかぶった剣をすっと下げるや、信玄を見た。たちまち、馬首がぱっと転じた。

「さらばだ!」

 謙信は、颯爽と言って、疾風のごとく信玄の本陣から駆け出した。心地よい風が、謙信の頬を流れた。


 駆けていくと、向こうから、謙信の旗本衆が走ってくるのが見えた。

 謙信はそこでふと止まって、信玄の本陣を振り返った。そこには、相変わらず将几に座して、こちらを見つめている信玄がいた。

「と、殿!」

 謙信に追い付いた弥太郎は、息を切らせながら、やっとのことで声を出した。

 信玄の本陣を向いていた謙信が振り向いたとき、弥太郎は、謙信の表情を不思議に感じた。何か、満足げな、充実を噛み殺しているような、そんな表情だった。

 それも束の間、謙信が真顔に戻って叫んだ。

「退くぞ!遅れるな!」

 謙信の馬がいなないて、駆け出した。旗本の武者たちは、今度は遅れずに追随していく。

 武田の騎馬隊が戦場へ来着している。上杉軍はすでに善光寺へ向かって順次退却を始めているが、後方から襲い掛かってくる武田勢をしのぎながらの退き戦だ。今頃は、善光寺に残しておいた直江景綱の部隊が、街道筋で防衛線を布いているだろう。そこまで退けば、武田勢も深入りできなくなる。

 善光寺の陣に到着した謙信に、さらなる戦果がもたらされた。それは、武田の軍師、山本勘助を討ち取ったというものであった。その詳報から察するに、どうやら、謙信が信玄の本陣へ突入する直前に出撃した小勢こそ、山本勘助の手勢だったかと思われた。

 その夕刻、善光寺の本陣に集った上杉軍は、勝鬨を上げた。上杉方の損害は大きかったが、武田信玄の弟、武田典厩信繫をはじめ、諸角虎定や山本勘助など多くの敵将を討ち取ったことは、上杉方の勝利と言えた。

 謙信はその夜、本陣に作らせた毘沙門天の仮堂に籠った。護摩木を燃した炎の中で毘沙門天の像を見上げながら、みずからとはどこか違った信玄の眼差しを脳裏に浮かべながら、鎮魂の念をこめて経を唱え続けていた。

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