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「柿崎、殊勝なり」
謙信が表情を崩さずに言った。しかしその声の調子は、興奮を抑えきれない様子だ。
武田の前衛の一角が崩れている。だが、あとからやってきた武田の右翼が、その後ろを支えている。上杉方も、先手の柿崎隊の旗指物の密度がめっきり減っていた。あとから突入した部隊が中心となって、武田と交戦している。
「申し上げます!五十公野衆、敵将諸角豊後守を討ち取りましてございます!」
「うむ!」
相次いでもたらされた戦果の報に、謙信が大きく頷いた。しかしその五十公野隊も、徐々に、混戦の中から離脱しつつある。変わって武田勢と交戦しているのは安田長秀の部隊だ。
武田の陣の後方では、配置転換が行なわれている。どうやら後備えの部隊を前方へ出しているようだ。
やがて、はるか後方から、喚叫が聞こえてきた。とうとう武田の別働隊が妻女山を下り、千曲川を挟んで、上杉の守備隊との交戦が始まったのだ。
謙信の耳にもそれが聞こえていないはずはないが、気に留めている様子はない。弥太郎は、念のため謙信の側へ寄った。
「殿、雨宮の渡で戦が始まったようです」
「…」
謙信は無言だった。上杉勢を加護せんとする毘沙門天さながらに、前方の自軍に念を送るがごとく、眼がかっと見開かれていた。
弥太郎は下がった。
宇佐美定満の部隊も、すでに戦闘に加わっている。前に出てきた武田の後備えの部隊と戦っているようだ。
雨宮の渡から移動してきた本庄繁長と色部勝長の部隊も来着し、停止することなく謙信の旗本隊の傍らを通過して、そのまま戦場へ前進している。
間もなく、上杉の全軍が戦闘状態になった。武田八千に対し、上杉は一万三千。数で勝る上杉が各所で武田勢を撃破しているが、武田の用兵の妙か、決定的に抜ききれないでいる。
「申し上げます!雨宮の渡に武田勢が現れ、戦が始まっております。武田方は、山県、馬場、真田、高坂勢などの旗指物が見えます!」
後方の部隊から伝令がやってきた。謙信は今度も、前方を見つめたまま、無言で軽く頷いただけだった。
謙信の視線の先は、もはや混戦の様相である。
雨宮の渡からやってきた伝令が挙げた、武田の別働隊の各将は、いずれも、武田家中では名の知れた猛将揃いだ。その雨宮の渡にて、甘粕景持や村上義清らの部隊が足止めを行なっているが、突破されるのは時間の問題だろう。八幡原で激しい戦闘を繰り広げている上杉軍の背後から襲いかかられれば、壮強な越後勢とてひとたまりもない。上杉軍としては、武田の別働隊が来る前に決着をつけなければならない。
全軍はそれを承知して、必死の奮戦を繰り広げている。上杉勢の一部は武田の防衛層を突破して、何度か信玄の本陣を襲っているようだが、信玄の旗本隊に阻まれ、本陣を崩せないようだ。
信玄の馬印であろう、諏訪法相と日輪の旗が、その中心にたなびいている。
あと少しだ。あとひと押しするだけで、大将の信玄を討つことができる。押している上杉勢が武田の本陣を呑み込むのは時間の問題なのだ。しかし後方からは、戦の喚叫や馬のいななきが、ますます大きく聞こえてくる。信玄の馬印には、依然として変化がない。
折しも、その本陣から、騎兵に率いられた一隊が放たれたようだ。一直線になって進んでいるが、小勢である。そんな小部隊で何ができようほどもないが、この期に及んでなお、小癪にも、信玄は攻撃を仕掛けようというのか。
謙信は旗本隊を振り返った。
「時はすでに満ちたり。時に利あらずとも、我に毘沙門天の加護あらん。我らはこれより信玄を衝き、しかるのちに善光寺へ引き上げる。者ども、我に続け!」
謙信が高らかに言った。
旗本の武者たちが一斉に呼応するや否や、謙信の騎馬が、弾かれたように飛び出した。
武者たちが、慌てて馬を蹴る。すでに謙信の姿は前方だ。
走る旗本隊を尻目に、謙信の馬が、おそるべき速さで突進してゆく。謙信の背が、みるみる遠ざかっていく。
弥太郎は、謙信が善光寺への街道筋を取らず、各所で戦闘している部隊を舐めるように疾走していくのに不審を感じつつ、懸命に馬を走らせる。
前方の謙信の馬が、少しずつ、進路を変えてゆく。
“まさか――”
弥太郎は、謙信の狙いが信玄の本陣だと直感した。
「殿-!」
弥太郎は声を張り上げた。しかし、もはや小さくなりつつある謙信の背には、弥太郎の声が届くはずもなかった。懸命に追いすがる旗本の武者たちを、大きく引き離してしまっている。その状況に気づいていないのか。このまま単騎で敵の本陣へ突入するなど、いくらなんでも無謀だ。なんとしてでも追いつき、謙信を護らねばならぬ。
弥太郎は、槍と手綱をぐっと握り締め、上体を倒して必死に馬に鞭を打った。馬が狂ったように駆ける。弥太郎は、祈るような気持ちで追いすがっていった。