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戦機いづくにか  作者: たかのりつと
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 明くる九月十日の未明、上杉の軍勢は、八幡原に布陣していた。辺りは濃い霧で包まれ、ほとんど視界がない。

「本当に霧が出るとは…。しかし果たして、この霧の向こうに、武田の軍勢はおりますか…」

 謙信の傍らで、宇佐美が呻いた。謙信はそれに答えず、霧の向こうを凝視している。

 すでに多数の物見を放ってはいるが、この霧の中で、どこにいるか分からない武田軍を見つけ、そしてまた上杉の陣へ正確に戻ってくることは、至難の業と思われた。現に、まだ一人の物見からも報告がない。

 武田軍の存在自体もさることながら、その兵力も不明であった。謙信の見立て通りに武田が動いていたとしても、妻女山の攻撃と八幡原での要撃とに、どのくらいの規模の兵を割いているか、分かっていない。もしも八幡原の武田軍が圧倒的に多かった場合、上杉軍は逆に包囲殲滅される危険もあった。

「…殿!」

 その時、一人の武者が謙信の元へ小走りに駆け寄ってきた。善光寺への使いから戻った、弥太郎であった。

「弥太郎か。よう戻った」

「遅くなり、申し訳ありませぬ。この霧で道を見失うておりました」

「よい。申せ」

「は。直江殿に、殿の戦立てを申し上げました。善光寺の守りを堅め、来たる我が軍の退き時に、手勢を出すと仰せです」

「ふむ、さすが景綱である。武田の軍勢は目にしたか」

「は。一刻ほど前にはなりますが、途中、闇の中、粛々と八幡原へ移動している武田の軍勢を見ました。その数、定かではありませぬが、八千ほどと思われます」

「ご苦労だった。少し、休め」

「はっ」

「八千…」

 傍で聞いていた宇佐美が、考えるように、小さく言った。上杉方は、雨宮の渡に残した部隊を除き、約一万の兵を展開している。数の上では勝っているが、圧倒しているとは言えない兵力差である。いったいどのような戦になるであろうか。


 辺りが白んでくるとともに、霧が渦巻く様子が見えるようになってきた。まつ毛に多量の水滴が生じ、拭ってもすぐまた重くなる。

 いよいよ明るさが増した頃、風が生じ、霧が一定方向に流れ始めた。

 皆、食い入るように、その前方を見つめる。

 乳色の空間がみるみるうちに融けていって、たちまちのうちに、八幡原の草原と、青い空が浮かんできた。

 そして、越後勢の正面、緑の大地と青い空との間に、赤と黒を基調とした軍勢が出現した。武田勢である。

 眼前に出現した武田勢を目にして、謙信の旗本の中から、嘆声が漏れた。それほどに、武田の布陣は見事であった。ほぼ同時に、武田方の陣でもどよめきが起きたが、すぐに、ぴたりと止んだ。

「鶴翼か。信玄、見事なる哉」

 謙信は、愛でるような眼で武田の鶴翼の陣形を見渡したあと、後ろを振り返って、自軍の陣立てをぐるりと見回した。上杉方は車懸の陣である。闇夜の中でも、整然と陣立てされていた。さすが宇佐美である。

 兵士の多くの眼差しが、謙信に向けられていた。武田の軍勢を目前にして、緊張と興奮がひしひしと伝わってくる。その眼には、戦をすれば必ず勝ってきた謙信に対する信頼が宿っていた。今や、兵の気は漲った。もはや攻撃あるのみだ。

 謙信は再び正面を向くと、右腕をすっと立ち上げ、ゆっくりと前へ倒した。

「進め!」

 上杉の全軍から、大きな鬨の声が上がった。間をおかず、左前方の越後の兵団から、再び鬨の声が上がる。先鋒の柿崎景家の部隊が、前進を開始したのだ。

 間もなく、武田の陣からも、負けじと、鬨の声が上がった。霧の中から現れた上杉軍を目にし、作戦の裏をかかれた動揺が走ったようだが、すでに臨戦態勢である。

「…武田も、さるものでありますな」

「宇佐美。雨宮の渡へ使いをやれ。本庄と色部を呼ぶのだ。ほかの者には、機を見て八幡原に加わるよう申せ」

「はっ」

 宇佐美が伝令を呼んだ時、前方から、一層甲高い鬨の声が上がった。前進していた柿崎隊が、突撃に移ったのである。

 間もなく、両軍の武具が激しくぶつかり合う音が、謙信の位置まで聞こえてきた。

 左手から、さらに別の声があがる。柿崎隊に続いて、二番手の五十公野いじみの隊が前進を開始したのだ。五十公野隊は、左手に見える敵部隊と交戦している柿崎隊の後方から進路を変えて、右手の敵部隊に向かっている。と見るや、みるみるうちに速度を上げ、敵軍へ激突した。

 前方から、伝令が駆けてくる。

「敵の前備えは武田典厩信繁殿と見受けられます!」

 また別の武者が走ってきた。

「武田の前衛、諸角豊後守殿!」

 謙信は表情を崩さず、伝令の報告を聞き取った。

 武田信繁は武田信玄の弟である。それだけでなく、諸角虎定ともども、武田勢の中では勇猛をもって鳴る武将だ。

 その両雄に率いられた武田の二つの前衛部隊と、柿崎と五十公野の両隊が、激しい戦闘を繰り広げている。上杉方が押しているようにも、拮抗しているようにも見える。

 戦いの経過を見守っていた謙信だったが、その右手が、再び上がった。その手がさっと前に倒れたのを見て、中条藤資、安田長秀、加地春綱ほか、後続の部隊が前進を始める。上杉の車懸の陣は、渦巻のような陣形である。その先端から敵軍へ当たり、次々と新しい部隊を繰り出すのだ。常に新鮮な兵を送り出すことのできる、攻撃主体の陣形であった。

 反面、防御力は皆無に等しい。しかし上杉にとって、この戦は、武田の本隊と別働隊から挟撃されることを分かった上で、別働隊が戦場に現れる前に本隊を倒そうとする、際どい作戦である。謙信はその一瞬に勝機を見出だし、この陣形としたのだ。もとより防御の思想はなかった。

 上杉の後続部隊が前進を始めたのとほぼ同時に、武田の陣でも動きが起こった。武田の鶴翼の左右の翼が、中央で戦う二つの前衛部隊を包みこむように、前進を始めたのである。

 上杉の新手が武田の前衛に突入し、武田の両翼が、その前衛を支える。

「信玄、機を見るに、我と並ばんや」

 武田の機敏な動きに、謙信が高揚して言った。

「殿、宇佐美も、そろそろ参りまする」

「うむ。ゆけ」

 全ての部隊が順に前進している中、宇佐美の部隊が謙信の本隊の横を通過しようとするのを見て、宇佐美は自部隊のもとへ走っていった。謙信の周囲はもはや旗本隊のみとなった。その中に、鬼小島弥太郎がいる。

 その時、前方から伝令が走ってきた。

「柿崎殿、武田典厩信繁殿を討ち取り候!」

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