4
九月九日。妻女山の帯陣も、間もなくひと月になろうとしている。
謙信は、長い時間、高台に立って、八幡原の様子を見つめるようになった。諸将もあとに従っている。だが、不定期に現れる両軍の小荷駄隊のほかは、いつもと同じ光景である。眼下の海津城には武田の大軍が満ちているはずだが、鳴りをひそめていて、見る限り、変わった動きはない。
その日も陣小屋に皆が集まったが、重ね重ね下知されてきた内容のほかに話すことはなく、謙信をはじめ、口を開く者はいなかった。
しばらく経ったころ、重くなりかけた雰囲気を振り払うように、柿崎景家が口を開いた。
「今日は暑いですな」
「いかにも。しかし間もなく涼やかになってまいろう」
「兵は申しませんが、稲刈りを気にしている者がおりましょう」
話すきっかけを得て、皆がてんでに発言した。
「長陣ゆえ、兵の統率には苦労するわい」
「それは武田も同じであろうて」
「我が手は、今すぐにでも戦えるぞ」
「ほう。頼もしいな、柿崎」
謙信が、口を挟んだ。
「はっ」
柿崎が膝に手をついて、辞儀をする。
「なんの、柿崎殿ばかりであろうか。我が手も、いつ戦えるのかと、士気が溢れております」
「さよう。我らもですぞ」
柿崎に負けじと、将たちが口々に言い始めた。
「よいよい。我が軍の強さはわかっておる。ここが正念場である。いま少し、待つのだ」
謙信が、久しぶりに歯を見せて言って、ゆっくりと立ち上がった。
「殿。いずこへ」
「毘沙門堂だ」
この日も、謙信の参籠は長時間に及びそうだった。
弥太郎は謙信の馬の手入れをしていたが、ふと、謙信に呼ばれた気がして、毘沙門堂へ向かった。堂からは、一心不乱な読経の声が聞こえている。してみれば、あれはやはり空耳であったか。そう思いながらも、弥太郎はそこに座って、謙信が出てくるのを待つことにした。
間もなく、読経の声がぷつりと止んだ。唐突な終わり方だった。弥太郎は不審を感じた。よもや異変が起きたのではないか。
弥太郎が立ち上がろうとしたとき、堂の扉が静かに開いた。弥太郎は息を吞んだ。そこから現れた謙信は、何か、神がかった霊をまとっているかのごとく、別人のように見えたのだ。気迫が満ち溢れ、その姿は毘沙門天そのものと言っても過言ではなかった。
弥太郎はひれ伏した。謙信はその姿など目に入らぬように、弥太郎の脇をすっと通り抜け、高台に向かった。
高台に向かう謙信の姿を偶然目にした兵たちは、力が抜けたように膝を折って、その場で平伏した。
高台には宇佐美や色部ら何名かの将がいたが、やって来た謙信の姿を見て、皆が一斉に跪いた。
妻女山から見下ろす八幡原の西半分は、すでに山の陰に入っていた。武田の籠る海津城は東にあって、まだ斜陽の中にその姿を見ることができた。
謙信はその城をじっと見つめていたが、突然、眼を見開いた。そして寸余ののち、言葉が漏れた。
「啄木鳥…!」
そこにいた諸将は、その意味を解しかねた。沈黙が辺りを包む。
やがて、謙信が再び口を開いた。
「宇佐美はいるか」
「は。ここに」
集まっていた将のなかから、宇佐美が進み出る。
「出陣だ。静かに、皆を集めよ」
「出陣ですと…。いかなる思し召しでありましょうか」
「海津城を見よ」
驚く宇佐美に対して、謙信がすっと指を差した。視線が海津城に向く。
「あの炊煙を見よ。いつもと様子が異なるではないか。今宵、武田は、ここ妻女山に、夜襲をかけてくるつもりだ。我らはその裏をかく。よいか、これからの我らの行動は、決して気取られぬよう、物音を立ててはならぬ。皆にそう伝えるのだ」
言い終えると、謙信は陣小屋の方へくるりと戻っていってしまった。
宇佐美はもう一度海津城を見た。夕靄の中で炊煙が煙っている。いつもと違う、そう言われればそのように見えるが、はっきりと断ずる自信はなかった。
闇が下り、軍議が開かれた。出陣の触れが出たことで、集まった将たちは皆、緊張した面持ちであった。陣幕の外では、兵たちが、兵糧を使ったり、武具を整えたりしている。隠密作戦であることが徹底されているため、慌ただしい中でも、物音はほとんどしない。
「今宵、武田は、夜襲をかけてくる。我らはその裏をかく」
軍議が始まるなり、謙信が再び言った。諸将が、謙信の次の言葉を待って、固唾をのむ。
「明朝、霧が出るに違いない。武田はそれを察知しているのだ。したがい、今宵、夜襲をかけてくる部隊は、敵の陽動部隊である。夜襲に混乱した我らが八幡原へ下りる。武田は霧に紛れてそこで我らを待ち構え、一網打尽にするつもりだろう。いわゆる啄木鳥の戦法だ。すなわち、八幡原にいる武田勢こそ本隊である。我らは夜陰に乗じて隠密裏に八幡原へ進出し、我らを待ち構えているはずの武田の本隊を、逆に襲ってやるのだ」
諸将はあっけに取られた。霧が出るという自然現象はおろか、これから起きる敵の動きを、まるで見てきたことのように話している。だが謙信の作戦は、いつもこうであった。謙信の見立て通りに作戦が進むのである。おそるべき戦術眼は、毘沙門天の再来であるとも、謙信自身が軍神になぞらえて言われるのも、そのゆえんである。
謙信は続けた。
「我らは、八幡原に下ることを決して気取られてはならぬ。この陣はそのままにし、篝火を絶やさぬよう、ぎりぎりまで薪をくべる者を残せ。
敵の陽動部隊は、妻女山がもぬけの殻だと分かれば、雨宮の渡を渡って、一目散に八幡原を目指そうとするであろう。そこを足止めする軍を、雨宮の渡に置く。色部、本庄、鮎川、甘粕、村上。その方らは、妻女山を下りて千曲川を渡ってくる武田勢を待ち構え、川に落としてやるのだ。そのほかの者は八幡原だ。陽動部隊が追いつくより先に、武田の本陣を破る。柿崎、先刻の言葉、相違あるまいな。その方に先鋒を命じる。宇佐美、陣立てせよ。車懸だ」
「ははっ!」
はじかれたように、諸将が外へ飛び出していった。あとに、謙信の側近の馬廻衆だけが残った。
「弥太郎」
「は」
「その方、いま申したことを、善光寺の景綱へ知らせに行け」
「は…」
「どうした弥太郎」
「直江殿にお伝えしたのち、戻って参ります。さすれば、拙者も、殿とともに戦に加わりたく」
「当たり前だ。復命せよ。間違っても、武田の陣中には迷い込むなよ」
謙信がにやりと笑みを浮かべて言った。
「はっ!では!」
弥太郎は本陣を飛び出した。興奮して、身体が熱い。猛将で知られる柿崎景家の部隊が、すでに準備を終え、物音ひとつ立てずに妻女山を下り始めている。さすがに歴戦の部隊である。弥太郎は巧みに馬を操り、その脇をするすると抜けていった。
千曲川にたどり着いた。闇の中、川に馬を入れる。馬は器用に水を掻いて、難なく対岸に渡った。八幡原だ。あとは善光寺へ向かって駆けるのみだ。
生暖かい風が吹いている。明朝は本当に霧が出るのであろうか。そして、武田軍は本当に、謙信の言うように動くのであろうか。裏をかいたつもりが、その実、さらにその裏をかかれ、海津城から押し出してくる武田の全軍に包囲されるのではないか。
弥太郎は馬を駆けながら、雑念を振り払うように頭を振った。考えても仕方のないことだ。謙信の言を信じるのみである。